感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から最果ての荒野。

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hasriq3.hatenablog.com

倫理 から 友達のDV告白 猿山

もう10月!…早い…

 

何書こうかな。

昨日はkindle unlimitedの3ヶ月無料お試しがprime会員向けに来てたので登録した。wishlistに入ってる本では対象が一冊しかなかったのだけど、それを探してる時にwishlist内で半額になってる電子書籍を2冊見つけて買ってしまった。ブーバーの我と汝、レヴィナスの全体性と無限。最近集中力が続かなくて読みかけの本が溜まってるのに…

全体性と無限は1ページ目だけ見たけど、レヴィナスも戦後の他の思想家や哲学者の例に漏れず、戦争と倫理を結びつけて2元的に捉えている人だというのは分かった。当時の欧州、ましてやユダヤ人なら仕方がないことなのだろうけど。戦争を倫理と結びつけて対岸に置いてしまう語りの危険性は、戦争がいかに倫理の側から始まり維持されるかだと思うんだけどね。それは如何なる正当化される暴力も同じ。目に見えない暴力は特に。

現代の哲学者も相対主義批判に同じ理屈を持ってきたりする。それが欺瞞であることも、神の空白を奴隷道徳が埋めることもニーチェがとっくに予見していたのにその通りになっている。その成れの果てが自己責任社会だろうに。

まぁいいや。

 

最近中学生時代からの友達がLine noteに内面的なことを送りつけてくるのだけど、それが面白い。彼は自己の変容の過程にあって、恐らく共有することで固定観念や歪みを可視化しようとしている。僕はそれに対して淡々と見えるものを、冗談も含めながらコメントしてる。

彼は自分がDVの連鎖をしてしまったことをとても悔いている。子供の頃怖い思いをしたのだろうが、それと同じことを元彼女にしてしまったそうだ。最初聞いた時は意外だなと思ったけど、よくよく考えると中学の頃も何かの拍子にスイッチが切り替わったように箒持って追いかけてきたことあったから腑に落ちてしまった。

まぁ、彼自身にあったことを振り返って、記録して送ってくるのだけど、とても分析的に向き合っていて、それでいて僕とは世界の見え方が違う人だから、読んでいて面白い。でもなんか自己開示されすぎてる気もして申し訳ない気分になることもある。僕は自分のこと語らないし。

どんな情動に流されたのか、どんな風に思考が動いているのか、その時どんな感情が湧いたのか。結構緻密に振り返っている。控えめに言って可哀想なのは元彼女の方だけど、DVをしてしまう側の認識の歪みなんかも見て取れる記述だった。感情に疎いがゆえに正しさの下で暴力を振るい、その過程で優越に飲み込まれてしまう。確かにコントロールが難しいのだろう。覚えてないけど、中学の頃彼がキレたのもなんか僕にも落ち度があるんだよね。多分。それで彼の倫理スイッチが切り替わったのだろう。群集心理の個人版かな。いや、群集心理自体が個人の集積である集合意識なのか。

 

僕は僕でDVを見て育ってきて、ずっと父親を恨み父親と呼ぶことも拒絶してきた。でもまぁ、理解できなくはないという段階にはなった。恨んでもしょうがないし、当事者同士の関係もあるのだろうし、拒絶すれば縛られることになるし。

何よりDV自体が文明・社会制度とヒトという動物の自然のズレが問題なのに、当事者に責任をなすりことに参加してしまえば、文明側の歪みという前提を肯定することになってしまう。それでは同じことの繰り返しなんだよね。社会問題はほぼ全てがそうだと思う。個人に責任をなすりつけることでそこに目がいかないように出来ている。人を人とも思わないとかそういう方向ではなく、単なる制度の維持のための自律機関。自己責任社会はその成れの果てだ。そう、DVとも極めて似通ってる。というか根源的には同じだろう。正しさを振りかざす群衆は自らの感情に無自覚だ。いかに強い情動が働いているか。善・正義の側に立てば見境がない。Xとか見てると吐き気がしてくる。

でもそれも寧ろヒトの自然な姿の一面なのだろう。ヒトだけじゃない。社会性、群れ。猿山の理屈。排斥・攻撃という自己防衛。彼らも彼らで群れに認められるために必死であることの現れ。

僕は小学生の頃からそれが理解できなかった。皆が選ぶからと皆と同じ物を選んだり、青は男の子の色で赤は女の子の色というわけのわからない区別にそのまま従ったり、何人かでまとまると担任の先生の陰口を言ったり。いじめの対象となった子をいじめることで仲間と認められようとしたり。でも今思えば彼らも悪気はないのだろう。そういうものなんだ。猿山の掟。

 

僕は僕で自分のことを天邪鬼なのかと思ってた。結果的にいつも皆と別のものを選んでたから。でも改めて考えてみると、別に目立ちたかったわけじゃないんだよね。僕は個々と同時に、場や空気を見てるから、それに従うことに対する生理的嫌悪感だったのだろう。同調が個々を変えてしまうことに敏感だった。ああはなりたくなかった。

寧ろ僕は目立ちたくない人間だった。保育園のおゆうぎ会の演劇でも前に立つ役に選ばれて嫌だと駄々をこねたくらいに。ん?これも天邪鬼なのか?わかんにゃい。

 

この猿山という現実を無視するからいじめという痛みが大きくなる。群れから排斥された個体だとわかっていれば対処法はその群れから離すことだけだとすぐに分かるはずだから。もちろん、群れ内での序列を変えてしまうという方法もあるけど、そんなの意図的に出来ないし広がる痛みのほうが大きいだろうからね。

 

人間は自分たちが思ってる以上に動物的側面が強い。そして現代社会はそこを無視しすぎていると思う。啓蒙思想以降の理性信仰が人間中心主義を決定的なものにしたのだろう。本能を野蛮だと倫理を語るその口が、どれだけ群れの本能で動いているか。そこに無自覚すぎる。倫理、道徳、正しさ、善、普通、当たり前、責任、それが誰にとっての、誰のためのものなのか。口に出す前に直視した方がいいのではないか。そもそも理性とは?本能とは?切り分けられるものではないと思う。

 

ふう…。すっきり…しない!

 

 

Chouchou大好き!この3曲は特に大好き。説明は何も要らないぐらい合う。

最果のダリアはアルバム全体好き。


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