こんにちは!
えっとですね、遊びに来てくれる方たちを見て文章を書くのはここでは2回目だと思うのですが、新しくブログを作りまして、そっちを主ブログにしました。
最初はサブとして新しい方を立ち上げたのですが、なんかやっぱり向こうが現在の僕の立ち位置に近いんですよね。こっちは今の僕にとっては内面の一部というか。
折角だから経緯を書くと、僕は元々文章を半自動筆記のような感じで書いていまして、このブログは内面で思ったこと、感じたこと、吐露を包み隠さず言語化することで形を与え、可視化するものでした。基本投げ捨てなのだけど、ネットの海に投げ込むから、誰かの手に届くかも知れないということで他者にもわかる翻訳が必要になる。だから文章の体裁を一応は保つことになる。それが僕にとってのここの役割。自己変容においての必要性から生まれたわけですね。
でもいざ変容を過ぎてみると、この画面に向かっても指があんまり動かなくなったのです。それは最初は膿が出きったからかなぁと思っていたのだけど、実際は膿なんて最初の2年くらいで出切っていて。
まず、誰が書いているか。以前ここで文章を書いていたのは、感情や世界を感じる僕でした。それはある意味、詩人が世界と自己の間で摩耗することで詩を産み落とすしかないようなもので、僕にとっては感じ、思索することがそれだったわけですね。要するに、そこには感じる僕がいた訳です。そしてどこに向かって書いていたか。それは、僕の中の別の自己に向かって書いていたということだと思う。だから言語化、可視化の必要があった。
それが変容の過程で、多分ここを見てくれていた人は気づいたと思うのですが、僕の言葉には見る、見えるという語が増えていった。実際僕の内面ではそう認識されているから、見る、見えるという表現になる。思索にしても、複数の視点を使って立体的に造形してそれを見ることになる。
感情にしても、「感じる」ではなく「見えるもの」になる。勿論それを感じる自己も保っているから、感じると見えるは同時に知覚されるのだけど。主体がズレていったんですね。
僕にとっては直視という営みが、自分の中に入り込んでいた外部から導入された固定観念を引き剥がすことで変容の過程になり、自分を文明・社会・群れから共有していた価値観、言語を切り離すことになっていたわけだけど、それは同時に自己の在り方も組み替えていった。そういうことだと思います。その直視という言葉でさえ最近になって自分が何をしていたかが言語化されたに過ぎないのだけど。
二元が統合され、全ての絶対、答えなどは風景を切り取った写真であるという、それらを相対が内包する景色の位置に出て、同一の自己も解体され、幻想・非幻想、現実、非現実という見え方や、それによる世界観も全てが曖昧の下融合していき。やがて自己の在り方も変わっていることに気づいた。
「僕が感じる」ということは、主体的に知覚している。主体が外界ないし内界を知覚している。「僕にはこう見える」とういうのは、知覚として入ってくるものを僕が認識している。要するに、「僕が感じるのを僕が見ている」になるわけですね。
この時の僕というものが、前者では主体、後者では客体であり主体であり媒体でもある。
それは言い換えれば、僕は一つの点だったものが、変容の過程で多数の点やその複合となり、それがやがて場となった。これが自己の変遷であり、改めて見ると一つの点として自己の断片が僕自身だったというのは、その僕は観念でありペルソナであったとも言える。本来それは自己同一性として、この社会の内で生きていくには必要なものなのだけど、僕はそもそもそんなものよりも知覚を大切にするから、気づいたら場になっていたっていうことです。社会内の言語ではそれは病理であり狂気だけど、僕にはとても合っていて、ある意味必然的に飛び出たことが直観的にわかるのです。
外界であれ内界であれ、知覚されることには変わりなく、感情であれ思考であれ、そこにいる僕はそれを通してその世界に触れている。その相互性を見ているのが僕の今の主軸となっている位置ということ。だから外も内も変わらなくなってしまった。
その見方をすれば、僕がこの画面を見ても文章が出てこなかったのは、指が動かない自分を外から見ていたからで、当時の自分の位置で指を動かそうとすると、変わってしまった世界の見え方を裏切ることが出来ず、それが指が動くことを阻害していた。
だからね、数日前にサブとして作ったブログが、現在地に思いの外合っていることを思い知らされたわけです。日々何かが見えること、そこから思うことは変わっていなくて、知覚を唯一自分に近いものとして眺めることで、そこから見えたものを記録していく感じかな。「寒い場所」というのは、孤独が苦しいけれど清々しい、そういう場所。
それが構造的に他者が存在し得ない場所では必然の孤独で、社会からは病理や狂気として処理されるような場所であり在り方。でもだからこそ、ここからしか見えない景色があるわけで。そしてそして、きっと、それを必要としている人に届くかも知れないという可能性も0ではない。まぁ投げっぱなしのメッセージ・イン・ア・ボトル形式なのは変わらないと思うけど。はてな上なのも変わらないし、やることも実際あんまり変わらないんだけど、僕にとっての場の役割が普段用途ではここでは合わなくなってしまった。でもここはここで一部だけど生(なま)だから残したいじゃん?それにもう一個の方は視点的に硬めで冷たい言葉になると思うから。
だからまぁ取り敢えず、ブログとしてもそちらを主に切り替えようかなと思った次第なのです。
こちらはこちらで、1ヶ月から数カ月に一回、内面の整理として使うというのは多分変わらないと思いましゅ。はい。あっちの視点が切り離された分もう少しこちらには温かみが出るかも。
べ、別に新しいブログに遊びにきてって言ってるわけじゃないんだからねっ!
ではまた!
これ好き!マーニーも観たよ。ジブリではポニョの次に好きかもしれない。