年が明けるの早いなぁ…
とりあえず森の中の村でまったりとした年越し。こっちは新年が違うからあんまり祝わないけど。道中タイヤがリムごと逝ってしまい、帰りどうしようかなってなってる。エアコンも壊れたし出費が多いなぁ…
去年は妹が男の子産んで、弟からも彼の妻が妊娠中なのを遠回しに聞いた。もうそんな歳なんだなぁって。妹は結婚してから母と仲が良い。弟も結婚してからはそうかな。長男なのに外国に出てしまった僕としてはありがたい。
妹は母をママと呼んでいた。結婚式の挨拶を遠隔で見たけど、お母さんにはとても感謝してるって話がビデオでストーリー仕立てになって流れてた。人々はこういう演出が好きなんだなぁとかそっちに行っちゃうと話がズレるからちょっと待って。そうじゃなくて、僕は妹が母に感謝していることも、しっかり親子できてたってことも嬉しかった。一応泣いていたし結婚式用の単なる演技ではないだろう。
弟は不登校で色々あったからどうなのか知らないけど、母を母親と見て育ったのだろうか。
僕は下の2人とは5歳と7歳離れていた。だから少なくとも5年は長くあの夫婦を見てたんだよね。しかもソロで。見て育ったと書くと感触が違う。でもなんなんだろうな。僕が夫婦の間にいたわけでもないし。
あの頃の僕にとっては保育園とあの家が世界の殆どだったわけじゃない?母は働きながら料理もしてくれて、色々してくれた。母の役割とされるものもしてくれた。僕のアレルギーの治療とかも色々試してくれたしね。客観的に見ても母親をしてくれたはずなんだよね。ただ僕は母を母親と見ることができなかった。前にも書いたけど僕の中での母は可哀想な人。守ってあげなきゃいけないとまでは言わないけど、なんだろうな、戦友でもないけど、割と自分と対等に見ていたのかな。支えてあげなきゃいけないでしょ。それが僕の生存本能なのかは知らないけど。
僕は母が辛い思いをするのがとても嫌だった。でもあの人は結局いつも辛い思いをする羽目になる。理不尽だった。時には自分から喧嘩を売ってでもね。勿論これは暴力沙汰を招くことをよせば良いのにと切に願っていた子供視点だけど。だから結局僕はDV事後の母を慰めるの。可哀想だから。それしかできないから。
いつも無力だった。でも出口というものすら思い浮かばないその時の僕にとっての世界そのものはそういう場だった。
勿論毎日ではないよ。どのくらいの頻度だったのかも覚えてない。でも一度あると数日は続く。
弟や妹にとっては、仮に彼らがそういう現場を覚えてたとしても、5人家族の中で元父親が暴力を振るったっていう感じになるんだろうね。少なくともオーディエンスは3人居て、止めに入ったりなんかは少し大きくなった僕がやることだし。なぜか僕が暴力に反抗する母に代わってその場を治めるために勝手にあの男に謝ったりしてるよくわからない光景が浮かんだ。子供とはいえ意味わからないよね。誰が得するんだろう。まぁ必死だったのだろう。ただ何事もなく一日が終わって欲しかった。それがいかに儚い願いなのか。そんな願いが不条理に蹂躙されるのが日常だった。そりゃ不条理哲学と相性が良いわけだ。子供の時から不条理を受け入れるしかない場面が日常や学校生活で多かった。
母は弱みを見せることはあまりなかった。泣いていても、血を流していても、大丈夫と言って気丈に振る舞っていた。その上で母親として子供を育てていた。弟や妹が生まれてからも、より母親として子供を楽しませようとしていた。客観的に見ればとても母親だった。ただ、僕は知ってしまっていた。当時の日々も、無理していることも、台所で酒を飲んで泣いている日があることも。借金や理不尽な暴力は続いていたしね。僕にとってはただあまりに可哀想な人だった。そこまでしてくれなくてもいいのにとも思った。喘息も酷くてあまり眠れていない日もあった。背中をたたいたりさするのは僕の役割だった。苦しそうだった。背中をさすっている間に眠りにつく母親に安堵した。
親が離婚したのは僕が18歳の時。でも14歳の頃には祖父母との二世帯住宅に引っ越していたし、僕が10歳ぐらいの頃からDVを見る頻度は減っていた。時々大きなのがあったくらい。弟はギリ覚えてるくらいかな。どうなんだろうか。本人に聞いたことないけど。
僕は別に親のDVを見たから自分の性格や人生がどうなったとか意味付けするつもりもない。そんなことしたって理想の家庭像の対岸にある機能不全家庭に育った人間だと固定するだけだしね。そんなのはお前の家庭が悪かったせいでお前はおかしいんだと、個と社会の摩擦を生んだ責任の所在を個人と家庭に押し付け、目を逸らさせるために社会が立ち上げる理想の家庭像に過ぎないとも思うし。こんな数十年しか歴史のない核家族社会で何が理想の家庭像だよって僕が言うと反抗してるみたいで笑えるけど。
ただまぁ、そういう幼少期があって今があるという意味ではそうかもしれない。でもそんな幼少期抜きの今の自分なんて想像したところで自分ではないだろう。悲劇視して意味づけたところで当時から続く自分の歴史、そして今を否定することにしかならないからね。
まぁそんなことが書きたかったわけでもなく、ただ妹が母を母親として育ったらしいのが嬉しくてね。あんな張りつめた破滅的な空間に独り閉じ込められる時間の支配する毎日は過ごす必要もない。
楽しいこともあったはずなのに、それがほとんど浮かばないんだよね。浮かんでもやっぱり一人の時間。世界があって、僕しかいない記憶。崩れる前の、見える終わりの影に諦めを抱きながら感じていた平穏。
悲惨に見えるでしょ?でも実際悲惨だったのは毎日ではないんだよ。家庭では僕が故意に暴力を振るわれたことは殆ど無かったし。ただ当時の日常とその後の記憶が嫌な思いに占領されてるだけ。
でもそんな平穏の一幕がどれだけ優しかったか。誰もいない夕暮れの公園がどれだけ綺麗だったか。焦燥感や帰りたくない気持ちもあるからその光景が特別なものになる。そういう意味では、妹や弟が恐らく知らない世界の美しさを僕は記憶に持っているのだろう。
姉という存在を持つことへの憧れもそう。僕には年上の兄弟がいなかったからね。あの不条理に支配された中、誰にも理解されない自分を近くで見てくれる人が欲しかったのだろうか。誰にも感じたことを話せなかったからかな。暴行主と支えてあげなきゃいけない可哀想な人と、大分後から生まれてきた弟と妹しかいなかったからね。何を感じようが思おうが伝える相手は確かに居なかった。多分誰にも話したことがない。ここに吐露していても直接的な感情は蓋がされて出てこないし。
そういうこともあって姉という元型的な象徴を欲していたのだろう。弟や妹に与える側だった僕の影なのかな。実際何かを与えたかは別として、何というか長男って役割の名残は残ってるからね。でも実際姉がいないのに、像はしっかり浮かんでいた。バークリーの観念論読んでるんだけど、その姉の像は削られて個別化、普遍化する観念像とは違う気がするんだけどな。
これは前にも書いたけど、小学生の時、母が僕の担任の先生に、僕が一人で会話をしている事があると心配されたと言っていた。そんな記憶は全くないけど、イマジナリーフレンド的なものとか別の自己とか居たんだろうか。
憧れることができる。求めることができる。それは嬉しいこと。叶うか叶わないかは別として。でも叶わないから抱き続けることができる。記憶が縛られている分、美化された景色も残る。消えた記憶に思いを馳せることもできる。
微かなご褒美。
新年早々中々のが出たなぁ(お通じ感覚)