感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

お誕生日 から

昨日また太陽を一周してしまった。銀河内では曲線的な螺旋運動だとするとこの34周の間に僕はどれだけこの銀河の中を移動したのだろう。きっと宇宙の中では僕の小ささからすると途方もない距離を移動していて、宇宙の大きさからすればそれは微々たるものなんだろうね。西遊記みたい。昔の人は今よりもっと宇宙を理解してたのかも。

 

時間の外側では距離って存在できるのだろうか。人間の置かれた時間って本当に不思議。でも人間がその時間の中に置かれているのは事実だからその外側を想像することに何の意味があるのか。ってよく思ったけど、そっちの方が楽しいんだよね。そうやって外に外に出たがるってことは勝手に閉じ込められてると思ってるのかな。実際閉じ込められてるじゃん?でも外を見なければ閉じ込められていないわけだから、無意味に外を想像するのをやめれば?って思うじゃん?無理なんだよねぇ。

 

自由に双方を行ったり来たり出来ればいいのかな。トリッキーに色んなスイッチをオンオフして。でも僕のコントロールは僕の中でそれができるほどに及んでない。

 

その2つを隔てる障壁がなくなれば、今と想像の入り混じった世界で生きられるかな。絶対支障出そう。今が浸食されて透けていって今ではなくなってしまう気がする。

今この瞬間が限りなく今であるのは、それが実体として知覚され認識されるからなのだろうか。主観的な今と過去未来の違い。

 

ところで、さっき人間の置かれた時間と書いたけど、マイスター・ホラは時間はそれぞれの人間の中に在ると言う。モモはそれを知っていて、奥底から鳴り続ける音楽のような物だと言う。それもよくわかる。

少なくともそっちの時間は牢獄という類のものではない。今も未来も過去も完全に混ざることは無くても多分一つの音楽を奏でているのだろう。なんてことを思うとスーッと今まで書いてたことがどうでもよくなる現象。

 

 

34歳ねぇ。僕は何歳であれあんまり関係ないと思ってる。何歳からだろう。誕生日が来る度に60歳まで生きるとしたらもう1/5終わっちゃったとか、もう1/4終わっちゃったとか数えてた。いつからかその見方があんまり好きじゃなくなってた。

いつまで生きるか分からないから無意味っていう意味ではなくて、結局囲いを作って外からありもしない残りの時間を数えてるのは自分なんだなぁと思って。時間だけじゃないけど、色々そういう風に変わった。

別にその見方が悪いと思うわけじゃないけど、辛い辛いって思いながら自分でそれやってちゃ世話ないだろうって。その癖はまだ完全に抜けてないんだろうけどね。

 

 

年相応がどうのこうのとか大人はどうのとか聞くと今でも「うるせーこの野郎!」って思うんだけど、「あーそうっすねすんません(無反省)」って思う自分も居るから、段々反応は和らいでるのかな。皆それぞれでいいんじゃないかなぁって思うと共に、大人や年相応の在り方が自分にとって大事な人もいるのだろうしね。知ったこっちゃないけど(抵抗)

 

 

お誕生日で印象に残ってるのは小学校1年の時だったかな。友達を家に招いてお誕生日会をしてもらったんだけど、丁度その日は雪が積もってね、お誕生日会の後は外で雪遊びをしてとても楽しかった。うちの実家の辺りは大山っていう山があって気流の関係で雪があんまり降らないの。横浜や東京で積もっても実家の辺はあんまり積もらない。そういうのもあって記憶に残っているのだろうね。懐かしいなぁ。気付けば記憶に浸ってるねぇ。

 

 

そうそう、最近知ってよく聴いてる曲があるの。


14 - Hoshi No Koba

 

ロボットアニメの挿入歌だったらしい。

とても好きで一日に何回も聴いちゃう。聴きながらお仕事するとお仕事のストレスから救ってくれる。

こんな34歳だけどみんな友達でいようね^^