感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ローマの休日

久々にローマの休日を観た。やっぱり好きだなぁ。

オードリー・ヘプバーンが好きで実家の部屋にポスターもあるのだけど、この映画は特に好き。彼女の魅力が最大限に活きていると思う。

教養もあって落ち着き払っていないといけない王妃という立場と、内に秘めている童心。その解放。それが彼女にとても合っていると感じる。

世間知らずのアンの行動も、時折見せる王妃としての振る舞いもコメディ調なので安心して見ていられる。

ブラッドリー役のグレゴリー・ペックの落ち着いた演技もとても相性がいいと思う。落ち着いていながらも、微妙な感情の動きを仕草や表情、時に目線だけで表現できる俳優さん。

 

彼も当時主流のダンディ系の俳優さんだけど、ダンディな男って見た目だけではダンディとは言えなくて、クールな雰囲気の中に見え隠れするそういう微妙な人情味だとか、時に見せる本当の男らしさとか、そういうのが必須なんだろうな。日本人で言うと藤田まこと的なイメージ。

 

そういった感情表現の巧みさや多彩さは彼だけでなく、役者さん全体に言えることだと思う。技術的な演出技法の少ない当時だから、そういう役者さんがより重要だったのかな。

 

現代のように演出技法が多彩なのはそれはそれでいいと思うし、そういう演出が先走る作品が多いのは制作側の伝えたいという気持ちの反映なのだろう。だけど、それに甘んじて『どう感じて欲しい』っていう所ばかりになってしまうと、同じように感じない人は置いてけぼりだし、自らの感情を支配下に置いていたい人にとっては攻撃を受けるようなものだ。それでもそういう作品がウケるのだから増えてしまう。

例えば感動ポルノというのがあるけれど、感動ポルノという言葉がポルノを一括りにしてしまうのはポルノ作品に対して失礼と思うくらい、単純で型枠ばかりの感情の押しつけが目立つ。表現と操作の境界は非常に曖昧だけど、手軽に使えるからこそ操作側に片寄ってしまうのだろう。それは制作側の良心云々ではなく、性質と価値観に委ねられてしまう部分だから難しいのだと思う。

 

だからこそ逆に、感じ方を視聴者側に委ねる作り方が貴重性を増して一つの技法となるし(ある種のドキュメンタリーのような)、クラシックな映画作品が意図せず持っている感じ方、捉え方の余地、幅というものがより魅力的に感じるのかなと思う。

ただそれは、作品そのものが再評価されるだろうということであって、むやみやたらにリメイクが作られるのはナンセンスだと思う。それじゃ売れないのだろうけど…

 

ローマの休日で僕が一番好きなシーンはアンが美容院で髪を切ってもらう所のやり取り。美容師に"Are you sure Miss?"と聞かれた時の、オードリーの"I'm quite sure, thank you."の言い方とか、とっても好き。気品に満ちていながらもとても人間らしい。

それと二人の別れのシーンでアンの言う、"Promise not to watch me go beyond the corner. Just drive away and leave me as I leave you." 複雑な彼女の気持ちが表れた台詞。

 

最後はやっぱり切なく寂しいけれど、どこか強くなったアンは王室の鳥籠に戻ってもきっと、ローマやブラッドリーの思い出を大切に生きていけるだろう。公務という彼女にとって苦痛な時間にあっても、思い出やデイドリームは逃げ場となり支えとなってくれるはず。だからこそ切ない。

 

僕にとってはそれが人生像と重なって反復する切なさに身を焦がすのだけど、その中に見える希望があるから、切なさの中の温かさが心地よい。