感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

昨日買った本に対するイライラ

気になる単語を検索したときに出てきた本を衝動買いしたのだけど、読んでいてすごくイライラする。物事を同じような視点で見ているのに、なんでこんなに捉え方に違いが出るのだろう。

 

「意味がある」と断言されると抵抗したくなる。

僕はその人の見た意味を求めてるわけじゃないからなんだろう。

 

言いたいことは分かるのだけど、その解釈が理屈っぽくて押しつけがましく感じる。

理屈が理論として成り立ってるならいいけど、意味付けの為の理屈であって、何故それを断言できるのかがいちいちわからない。理論を理論として書くのか、詩を書くのか、どっちかにして欲しい。

 

「単なる偶然以上のものがある」というのは心象的にわかるけど、「根源的平等性」、それを以って宇宙の全ては繋がっていて、「すべての物はもともと一つの働きのもの」と言われると、「えぇ?」ってなる。

 

意味付けの為の理屈っていうのは、そこに救いを求める人がやる事なんだと思う。同じ宗教を信仰する人たちの中でもこちらが必然的に多くなる。それが悪いということではなく、僕にはそれが合わない。

 

答えを求めてるわけじゃないんですよ。

ただ、何かを感じて、何かを見て、想いを馳せたいというか。

答えが出ないことを求めてる。何故だかは分からない。

 

偶然性を探求すると必然性が見え隠れするけど、それが必然だと言うのはなんか違う。

 

世界に答えがあるとすれば、究極的には答えがない世界だという答えを求めている。

生に意味があるとすれば、意味などないということの意味を求めている。

僕に運命があるとするなら、運命に抗うことなんだと思う。それだけその言葉を当て嵌められそうになると拒絶反応が出る。

人間主体の意味なんて求めてないんですよ。意味というものから人間の抱く観念が取り除けないのなら意味なんてものがない世界を求めてる。

無意味の中だからこそ意味が見え隠れするくらいが僕にとっては丁度いい。

 

理屈を押し付けられると、ある意味生存権を脅かされるような気がして、ヤメテ!ってなるんだと思う。

 

主観の世界、感情の世界、内的な経験のことば。それらの文章の中には、僕にとって沢山のヒントが隠れているような気がして、どんなに辛い世界の文章でも読みたくなってしまう。どんな日常の内容でも何か僕にとって意味を持つようになるから。

それは僕の世界を読み解くヒントとして大いに役立つから。詩であれ、ブログであれ、動画であれ、そういう主観的なものは好き。ニーチェの本が僕に合ったのも、彼が自分に詩人を見ているように、内的な感情の世界を探求する姿勢、それを以て外の世界を読み解こうとする姿勢を隠さないからだと思う。

 

理屈は事象において、理論において、僕にとっても意味を持つことはある。でもそれが僕の内側の世界に適用することが出来なければ、僕にとって全くの無価値なものとなる。それどころか、なんかこう、邪魔されるというか、脅かされる感覚がある。本能的な拒絶。

誰よりも理屈っぽく生きてきて、今でも対外的にはそういう面を向けるのに、何をそんなに怯えているのだろうか。相反する自分の立場になってもこの本の内容は否定するだろうけど。

 

啓発本の類の多くがこれに当て嵌まる。その理屈が僕に当て嵌まらないからイライラしてしまう。

こういう本はその理屈に合わせられる人、そうやって変わることが励みになる人、自分に鞭打ち、自分に鞭打たれる自分だからこそ愛せるストイックな人には合うんだろう。

僕はそういう風に出来ていないんですよ。

 

この本、サブタイトルに「9つのヒント」って書いてあるのに、この著者が提示してるのは、この著者にとっての答えだと感じる。タイトル詐欺だ。

 

でもこのイライラが嬉しい。何か見えそう。そういう面ではヒントをもらった気もする。