感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

感情と対義語のイメージ 負の感情と内面の世界 感じること

負の感情と呼ばれるものはなぜそこまで嫌がられるのだろう?

今日少し考えたのだけど、言葉としての感情や気持ちにあてがわれた対義語という存在も大きいのかなと思う。

 

『悲しい』の対義語にあたる『嬉しい』、『苦しい』の対義語の一つにあたる『楽しい』

これが多分、負の感情、正の感情という言葉のイメージと結びついて

”『とても悲しい』----『悲しい』---- 0 ---- 『嬉しい』----『とても嬉しい』”

のように直線状のイメージができてるのかなと思った。なんでもポジティブが良いとされる世の中では、『嬉しい』と『悲しい』が同一線上にあるならポジティブを感じるべきという認識になるのではないか。

 

でも『感じる』という主観の世界において、少なくとも僕の内側ではこれらは同一線上にはなく、負の感情と呼ばれるものも正の感情と呼ばれるものも、感じるという意味ではどれもプラス方向のものだ。そこに見る意味に正と負をつけて混ざりづらくあたかも同一線上の正負の関係にありそうなものを対義語にしてあるのだろうけど、まったく違うものだと思う。

そもそも感情や気持ちという複雑なものを言葉という記号で比喩も用いずに表し、更に理解しようというのがすごい高等テクニックだと思う。

視覚的に色を使ったり、音を使った方が表し易いというのは美術や音楽の世界そのものの存在意義の一つにもなっていると思う。

 

例えば、同じ事物に対して『嬉しい』と『悲しい』を同時に感じることもある。

実際は様々な要素が絡み合うから更に複雑だと思うけど。感情や気持ちに該当することはどれも同一線上にはないから同時に感じるのだし、負の感情のマイナスというのも正の感情のプラスというのも、結局のところ一要素でしかない。これら恐らく便宜上対義にされているものは、ただ状況的に同時に発現することが少ないだけで、実際は全く別のもの(絡み合う要素はあるけれど)だと思う。それが混ざり合うことはまた繊細なイメージをも生み出す。

 

僕にとって感情は別の味が混ざり合い新しい味を生み出すカクテルの様なものであり、様々な別の音をコントロールし音を混ぜ合わせるボリュームミキサーの様なものであり、色相・明度・彩度の様々な幅の中混ざり合う色の様なもの。そこにマイナスという概念はない。

混ざり合うからこそそこに色々な情景が浮かぶわけであって、それが例え沈むようなネガティブな要素を持っていても、そこまで忌避するものでもないと思う。ネガティブだからこそより深い、潜在的な景色を見れることもあるし、実際それはある意味で楽しいものだ。

明るい、柔らかいものは確かに希望で温かいけれど、暗く、冷たく、ドロドロしたものを見るからこそそれが引き立つという面もあるし、案外その二つが調和してしまったりもするものだ。

 

あまりに鬱々とするとストレスで早死にするかもしれないけど、でもそういうものを見て早死にするならいいかなと思う。多分精神病や神経症が原因で早死にした作家や芸術家や哲学者なんかは賛同してくれると思う。それだけ僕にとっては負の感情も魅力であるし、そればかりか欠かせないもの。

思春期辺りからおセンチな映画が大好きだったのだけど、そこに魅かれるというのはそこに感じる何かを求めていたのだろうし、何かを養うプロセスでもあったのかもしれない。単にそうではない世界からの逃避だったのかもしれないけど。

 

感情の海の中、その情景やその世界を追い求め冒険をするのは寧ろ宿命づけられてると感じるくらいに、生き甲斐であって導かれるもの。それが一種の必然性と感じていて、その視点に立つと色んなものがつながって受け入れられるものになる。時々「早死にしそう」と僕が書くのは、僕がストレスを受けるべくして受けていることに必然性を見てからのことで、それを拒否することをしなくなったから。

 

だからではないけれど、そういった通常避けられるような感情であっても、特に僕に近い性質を持った人なんかにとっては大切な要素である可能性は高いと思う。その感情、気持ちがその人にとってマイナスであってもプラスであっても、感じること、そこから思うことこそが重要であるのだと僕は思うから。その人達が辛い、悲しい、怖い、孤独と感じるものからただ遠ざけてもその世界は色褪せてしまうと思う。勿論正解なんてない世界だし、それぞれの辛さがある中で、手を差し伸べることも必要なのだろうけど。ケースバイケースだろうし、尊重と理解の姿勢はあってもいいと思う。

悲しいことをその人なりに悲しいと感じることに、そこに何かを見ていることに変わりはないのだから、だからこそその辛さに耐えられるように、ただ『寄り添う』ということが一層の意味を持つのかなぁと思う。

 

例えそこに物質的に、社会的に、経済的に、生活的に意味は無くても、内面の世界にはそれを超えた世界が見えるわけです。それは辛くも美しく、情熱的で、血生臭く、深く沈む陰鬱の世界でありながらすべてを飛び越える飛翔であって、孤独な愛の世界であって。その冒険に、その闘いに、その孤独に生きる人をあまり責めないであげて欲しい。それがある種の必然性、本能に根差したものであるならば、彼らもまた急激に変わりつづけ、全てが狭く速くなる世界に役割を見失い、取り残された犠牲者であるのだから。それが逃避であり無意味と見做されるようになったのはここ最近のことなのだから。それが創作や仕事に繋がらなくても、本来的には生そのものと繋がっているわけであって、自然と何かに繋がる『はずだった』ものなのだと思うのです。

 

適者生存もいいけど、適者が偏れば種の全滅もまた近くなる。作業効率の良い、細く長い梯子ほど弱い風で倒れるように。

 

 

結局またいつもの自己弁護に走ってしまった。

 

 

*追記

適者生存。個体として不完全であること、個性のふり幅と社会性を武器にのし上がった人類なら、その原理は同種の一個体に対し振りかざすものではない。適者生存もいいけどって書いたけどやっぱり違う。これは僕の言葉ではない。

群れから不要だとその構成員によって主体的に排斥されることは、適者生存と同義ではない。でもその排斥する側が適者生存という理屈で自分を言いくるめてる場合が多い気がする。