感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

現実 から 二元と力み 眺める Chad Lawson "breathe"

現実は非現実の中にあって非現実は現実の中にある。であるならこの二つを区別する意味なんてあまりないのかもしれない。夢だってそう。現実の合間にあるのが夢なのか、夢の合間にあるのが現実なのか、そういう見方ばかりする必要もないのかもしれない。

変性意識に入れば夢と現実の曖昧な波打ち際に身を置けるけど、その境界を区切る意味は果たしてどこまであるのだろう?海と陸は別れているようで、一つの地形として同時に存在し続けている。どちらを見るか、それだけの問題なのかも。変性意識の心地よさだって、意識の状態を意識しない方が混沌に揺蕩える。

そもそもの現実と呼ばれるものが夢の中にあるような感覚が強い僕にはその方が合うのかもしれない。並行現実みたい。

 

幻想だって、何をもって幻想と言うのだろう。そもそもの現実が現実と言う確証がないのに。度合?

幻想だって知覚されたそれが思考によって現実か幻想か選り分けられる。そこで現実というものの観念が揺らげば、そこには幻想が侵食できる余白が生まれる。

現実の観念?いくら現実が概念のように振舞っていても観念としか認識できないのかも。少なくとも僕にはそう。だからってその存在そのものが固定観念だとは言わないけれど、え?現実の存在って何?現実は存在するの?ほらこうなる。

バークリーが言ってたのってこういうことなのかな。僕は懐疑的だから自分に悪魔の証明を求めてるだけなのかもしれないけど。でもまぁ、感覚的にはそんな感じ。

知覚の檻に閉じ込められているというか、自分自身が存在というより観念でしかないような感覚があって、だから外側もそうなってしまう。そうなってしまうって言葉が出るということはその感覚に引け目を感じているのだろうけど、そこには外側、現実と呼ばれるものに対するある種の刷り込みがあるわけで、だから自分の感覚を肯定しきれずにいるわけだろう。

現実(という固定観念)に囚われている反動なのかな。感覚に生きれば現実は色んな意味で薄らいだし、その中でより明確に現実と感じる場面も経験してきた。逆に、非現実とされるものの中に色々な意味を見るようになった。そういったものを通して色々見え方が変化してきている。この虚無感もそう。今は結構好意的に捉えてる。

そんな中で、二元の外側に意識が向くようになりつつあって、さっきも現実と夢を陸と海と書いたけど、陸と海と波打ち際ではなく、海岸の風景でいいんじゃないかって思うようになってる。その方がなんかこう、色んな意味で穏やかな感じだし、しっくりくる。

 

二元ってどれも無理してる部分があるのかも。現実はこれ、非現実はこれって力みが入る。自分の内側に出来上がった概念に従おうとするからかな。自分の中の厳密に、無意識に疲れている部分があるんだと思う。でもそれを、そもそも観念でしかないんだし、くっきり分かれてなくてもいいじゃん?重なっててもいいし融合してる部分が合ってもいいし、そもそも両方があっての風景なんだから、ぼやけててもそれでいいじゃん?感じてその美しさを楽しめばいい。そういう見方にするととても力が抜ける。

しっかりとした目で陸がどういう陸かを見るより、眺めた全体を澄ました感覚で感じている方が性に合うんだと思う。どうフォーカスするかが違うから重点も置き換わる。何をどう使うか、何を大切にするか。そう、そこだと思う。分かりそうで分からない。うーん。

 

眺めるって言葉よく出るよね。視覚もそうだけど、感情を眺めるとか。いつも眺めてる。何かをしていてもそれをしている自分の内外を眺めてる。自分にとっての事実と言い切れそうなものが知覚ぐらいしかないからかな。特に僕を内側で取り巻く自分の感情はそう。こうやってここに感じたことを書いてきたのもそういうものを文章化したかったからなのだろう。前はよく揉みくちゃになっていたから。

でも今は大分眺めるのが好きになってきた。結局それは景色を眺めるのと変わらない。激しい雷光が内側から照らす積乱雲にはその美しさがあって、穏やかなピンクがかったクリーム色の夕暮れにはその美しさがある。それは内外どちらに眺めたとしても「ああ、こんな景色があったんだ」って、似たようなものを繰り返し見たとしても時間の花のような新しい感動を与えてくれる。結局、それが好きなのだろう。好きだから眺める。そしてその瞬間こそが何よりも僕にとっての現実であり、非現実。

 

だからだ。それが現実か、非現実か。現実か、夢か。現実か、幻想か。そういう目で見ている限りは眺めきれない。無意識の思考の枠の中で眺めることになるから、より純粋な姿は捉えきれない。

光景や風景を、ただ映るままに見ること、眺めることがどれだけ難しいことか。でもそれを求めてしまう。澄んでいる方が感動の深みが違うからなのかな。わからないけど。

でもそういう意味では囚われを外していくことは、それがいかに儚い試みだとしても純粋性を高めようとすることは、自分にとっての価値なのだと思う。この現実というものにくっついている手垢、観念による囚われも、取り分け二元的な使われ方をする現実に対するものは特に、この先に続く自分の価値観、その高まりを阻害しているってことなのかな。と思った。思った?わかんないけど。

はい。

 

この前壊れかけてたイヤホン、また同じのを日本から買った。final E3000。同じ製品のはずなのに聞こえなかった音が沢山聞こえてちょっとビックリした。劣化して聞こえる音が減ってたんだと思う。取りあえずとっても満足。

とても好きなイヤホンだけど、耐久性を考えるとお外用には別のイヤホン買った方がいいのかもしれない。

 

 

これ好き!


www.youtube.com

 

Chad Lawsonはbreatheっていう最近のアルバムに好きな曲がいっぱいある。

Chad Lawson 'breathe' Album - YouTube

 

オーケストラルとソロピアノの両方のトラックが入ってるのも素敵。そして大体両方好き!ってなる。

 

これもとっても好き。


www.youtube.com

 

これはソロピアノの方が好き!


www.youtube.com

 

もう10月…?何かまだ2022年始まって2カ月くらいな感覚なんだけど、時間感覚バグってるのかな。いくら合わせても指す時間がどんどん遅れていく壊れた置き時計みたいになりそう。

時間って嫌いだから嬉しい。