感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

愛着の続き から 記憶の中の感覚 コーヒーミル "Passes" - Helen Jane Long

最近またこれについて考えてる。

 

hasriq.hatenablog.com

 

自分の中で色々繋がっていくけれど、決定的なことはまだ分からない。

このことを考える時浮かぶのがこの曲で、思った以上にこの感覚とリンクしていることが分かった。大好きな曲で時々本当に必要になって聴いてたのね。この曲に温められていた部分が、自分の愛着の部分と繋がってる。と言うかそのものかも知れない。

単に外の世界が辛くて、それに疲弊した自分の安全地帯のようなものかと思ってたけど、呼応している部分はもっと奥にある。

ハンガーゲームって観たことないんだけど、姉が妹を寝かしつけるシーンからインスピレーションを得て作られた曲らしく、この歌詞の「大丈夫」とは裏腹に姉妹は大丈夫じゃないことを予期してる。それが色々と被るみたい。本当に色々。本当に…

 

現実からも目を背けさせようとする強い優しさ。

この感覚、記憶の奥底にあるこの安心感をなぜ求めるのかと考える。僕はこの類の安心感を実際の経験を通して感じたことがないように思う。

頼ること。

 

色々あったことも手伝って、昔から家族に色々頼って迷惑をかけてきたとそれについて負い目があった。そういう意味では頼ってた。お金とか生活とか。

でもこの僕が渇望する安心感に足りないものの一つとして浮かんだ言葉が、relyで頼るなので、少し困惑していた。でも昨日ふっと浮かんだのは、精神的に誰かを頼るというのは、物質的に援助を受けるのとは意味が異なるということだ。

 

愛着については親から上手く受け取れなかったと書いたけど、それは母が僕にとって同情の対象だったから。DVを見て育った影響は思わぬところであるんだなぁという感想。仲は悪くないんだけど、ただ、僕にとって割と早い段階からそういう対象にならなかっただけで。

兄弟は5歳下の弟と7歳下の妹だから、長男をやらないといけなかったしね(ちゃんとやったかは別として)。

そうなると僕は精神的により深い意味で人に頼ったことってあっただろうか?と思う。多分無い。依存させてしまったことはあるけど、怖くなって逃げだしてしまった。

頼ること、浅い部分ではできるんだけど、コントロールを手放すほどに誰かを頼ることはできない。でもそれが唯一できた記憶というのが、この朧げだけど生々しさのある、誰だかも分からない、実際に会った出来事なのかもわからない、お姉ちゃんという存在との記憶。そしてそれと同じものを求めたのが、死んでしまったあの姉さんとのひと時。

うーん…

 

コントロールは防御という言葉と結び付いた。防御。防衛反応。でも何から防御しているというのだろう。必要ないものが錆びついて取れなくなってるだけかもしれない。その状態に慣れ過ぎてどうしたらそれが外せるかが分からない。そもそもそれが外れたことなんて色々壊れてた期間くらいしかない。

解離。解離?解離か。そっち側に置いてきてしまったのかも。下手な業者が手を加えた配電盤みたいに配線がこんがらがって、どれがどこに繋がってるか分からなくなってる。解離だとして、どうしたら抜け落ちた自分は戻ってくるのだろう?そっちは今は置いておきたい。

でも確かに、姉さんとやり取りしていた時期は奥の方から別の自分が出ていて、頼れる気がしたんだよね。頼るっていうのは、身を任すこと。力を抜くこと。

どんなにリラックスしようとどこかで力んでる。一人で居る時でさえ。動かし方の分からなくなった筋肉みたいにずっと緊張している部分。温かさに包まれればそれが溶けるような気がした。今そんなこと思っても無いものねだりだけど。

 

人を頼る事って大切だというけれど、どうやったら頼れるかって調べても中々出てこない。どうしたら頼り過ぎないか、どうしたら依存から抜け出せるか、そんなのばっかり。

自立自立って、適切に頼れないのに自立もないだろう。無いものねだりなのは分かるけど。

 

ただでさえ人を頼るって難しいのに、精神的に頼るって本当に難しい。少し前から意識してみてはいるのだけど… どうしてもどこまでって考えちゃうんだよね。それは当たり前のことなのだろうけど、それを考えてる内はコントロールも外せないというのも当たり前なのだろうなぁって。だってどこまでって考えて出すって、結局内部処理して表現してるわけだから。難しい。

でも他者が居ない空間でもできないっていうのが分からない。防御も何もないのに。あ、でもそれは恐れなのか。コントロールを失うことの恐れ?何が出るか分からないことの恐れ?

仮に自分自身がコントロールしているとして、コントロールしている自分は自分なの?顕在意識側から見て自分の一部なのか、それとも自分だったものなのか。それで意味が変わってくる。きついな。

 

この感覚をどうしても突き詰めたくて、Pinterestで姉弟・姉妹の画像を集めたボードを作って眺めてみたんだけど、凄くこう、引き出されそうなものがあるんだよね。泣きそうな感覚もあるけど、やっぱりそれを知覚したとたんにスイッチが切り替わっちゃう。

朧気なのに生々しい感覚。一つ一つの画像を見て浮かぶ像が重なっていくと、それが一つの存在に近づいていくような感じ。知っているとしか思えない。それが過去の想像の産物だとしても、願望の生みだした幻想だとしても、僕が今、そしてずっと前から必要としてきたものには変わりない。誰なの?君は居たの?中に居るの?なぜ今は居ないの?なぜ僕は縋るの?

うぅ…

 

休憩。

話しをかえよう。

 

そういえばね、新しくコーヒーミルを買ったの。手動のセラミックのやつ。

挽いた方が電動で粉砕するよりも柔らかい感じがする気がする。

まぁ味はともかく、手動っていいよね。コーヒーは僕にとっては大切な嗜好品だから、もっと丁寧に味わいたくて買った。雑な造りの製品だからちょっと手が疲れるけど、淹れて味わうというプロセスに挽くが加わると、感謝も増してより丁寧に味わえる気がする。カリカリ回すという動作と共に香りも味わえるしね。

おすすめ。

 

今日はこの辺にしとこうかな。

 

 

そうそう、ここ数日はSafe & Soundばっかりだけど、この曲も時々頭に浮かぶの。

流れる風と共に揺れる木の葉のようでとっても好き。


www.youtube.com

 

Helen Jane Longはイギリスの人らしい。大好きな曲いっぱいあるんだけど、特にこの"Passes"が入ってる”Intervation"っていうアルバムが大好き。もうすぐ新しいシングルを出すらしくて楽しみ。