感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

孤独と溝 から ゾンビの夢 事故のこと 『ミツバチの羽音』

Loneliness does not come from having no people around you, but from being unable to communicate the things that seen important to you.

— Carl Jung

Real loneliness consists not in being alone, but in being with the wrong person, in the suffocating darkness of a room in which no deep communication is possible.

— Sydney J. Harris

 

孤独。何に関してもだろうけど、度を超せば超すほど周囲との溝は深まる。

ただ、その周囲に合わせようとすればいいかというとそうでもないだろう。それができるならそうなってるはずだしね。そこに居なきゃいけない限りは表面的な繋がりの温かさの内側に潜む、深く冷たい孤独を噛み締めるしかない。

伝えないと、話さないと理解し合えないというのは、伝えれば伝わる、話せば分かり合えることが多い人の理屈ではないだろうか。伝えても理解されない、それだけでなく無意識に断ぜられ、否定されることが多い人間が伝えることが億劫になるのはある意味で当然の流れと言えるのではないだろうか。それにも増して、伝わったふり、理解したふり、分かるという思い込みがどれほどの苦痛を生むか。でも残念ながら多くのコミュニケーションはこの方向に向かう。それが予期される限りは自己開示は苦痛への第一歩でしかないのでは?

なんていう思考まで包み隠して人と話していれば幾重にも重なる殻の中の孤独を再認識することになり、コミュニケーションそのものまで苦痛に置き換わっていく。拗らせ太郎。

 

IQマウント合戦とか見ていると、この人たちは一体何を求めているのだろう?って思う。例えば、本当にIQが高かったと言われる人々の味わったであろう孤独を想像するだけで恐ろしくなる。所詮数値化された指標でしかないし、IQってものにそれほど意味があるとも思わないけど、それでもやっぱり抜けている人はそういう顔をしている。マウントの取り合いをしている人達はそうなりたいのだろうか?でもそうは見えない。

 

珍しい能力を持った人、珍しい経験をした人なんかも多分そうだよね。ものによっては。理解されようがないから話すことも出来ないだろうし。

ある種の覚醒と呼ばれるものもそうだろうし、元々持っているギフトと呼ばれるものもそう。良さそうな面ばかりが持て囃されるけど、別の見方をすれば結局呪いでしかない。それが何かを生むこともあれば、人を壊すことだって多分にあるのだし。それはあたかも、薬は毒で毒は薬というのと同じで、表裏も何もなくただ同じものなのだと思う。

 

今はインターネットがあるからそういう人同士で繋がりやすかったりして多少はマシなのかもしれないけど、でもそれは多面の内の一面。そういう人同士で繋がりやすい以前にそうじゃない他者との接触が圧倒的に増えるわけだから。そう考えると恐ろしい。

だからこそ、そんな中である種の人たちが連帯感を求めてまとまるということも理解し得る。でもそれは、すり替わっちゃうんじゃないかなとも僕は思うのだけど。いや、それは僕にとっての話で、それがあるべき姿の人もいるということは勿論わかってるけど。

 

僕は別に孤独の中身を分かり合える、理解されるとも思わないし、誰かの抱くそれを理解できるとも思わない人種だから、同じ前提を持った人との関係が楽かな。開示を求めない関係とか心地いい。そんな中で「寒いね」「痛いね」って、それだけでも分かち合えれば、それ以上のものはないだろうか。それは言葉にするまでもなく何となく察し合ったりするものでもあるのだけど。

 

 

周囲に合わせること。それが選択に無い人間は深まり続ける孤独を味わい尽くすしかないのだろうし、それ自体は悪くないと思う。そうすることで見えてくるものもあるのだろうし、その先に、深い淵の先に価値を見るから孤独と共に生きようと思うのだろうし。

それはそれなんだけど、時々見るゾンビの夢はやっぱりこう、抗いつつもそっちに憧れがあるということを表してるのかなぁとも思う。子供の頃みたゾンビの映画からかな、そういう感覚があるの。

必死に逃げて、でも最後は抗い切れずに噛まれて同じになっちゃう。その光景に自分を重ねて、何かこう、特殊な感情の切れ端がある。仄かな劣情と共に。主人公に対して思う「もういいんだよ」、それを自分に対して言いたいんだろうね。どうしようもないなら諦めがつくし、ある意味では解放なのだろうしね。

 

 

話は変わり。先週の火曜日追突事故に遭いました。片道300kmを往復強行した日の行きの200km辺り。その日は朝から嫌な予感がしてた。道はほんとにボロボロで山道も長く、そのくせみんなスピード出すし日本だと考えられないような過積載車両やらおんぼろがいっぱい走ってる。

追突されたのは丁度保護区の近くだったかな。アスファルトが全面剥がれてて避けれないから減速した時にゴンって硬い衝撃と共に一瞬意識が飛んで、でも何とか察して路肩に上げた。初追突体験だけどこの速度でもやっぱり凄いんだなぁって。暫く朦朧としたし、一週間経った今も軽いむち打ちが残ってる。こちらは軽で向こうは4WDのピックアップ。あの時は僕の前方から何台か連なってたんだけど、多分追い抜こうとしてそっちに気を取られた時の減速で突っ込んできたのだろう。

街から離れすぎてたし、悪そうな人じゃなかったし、修理費は出すって言うから警察は呼ばなかったのだけど、修理云々の話はやっぱり少し面倒くさいことになった。

幸い向こうが指定した彼の友達の修理工が「破損が多くてこれは警察にレポートして保険使わないと直せるものじゃない」って向こうに伝えてくれたから、時間はかかるけどちゃんと対応してもらえそう。ぼったくり修理工が多い中、朝青竜似の気の良い兄ちゃんで助かった。

延期に延期が重なりまだ警察には行けてないんだけど何とかなるとは思う。事故現場がここの管轄外だから相手と話を合わせて警察に虚偽のレポートを出すようにと保険屋に言われてるのが少し気乗りしないけど、まぁ仕方ないね。

今回の学びは、僕は外国人で色々不利だし、すぐ相手に合わせちゃうから気に病むことになるのは目に見えてるし、やっぱりすぐ警察を呼んどくべきだということかな。ドライブレコーダーも着けよう。めんどい…色々翻弄されっぱなしだけどまぁ授業ということで…

 

 

そうそう、昭乃さんの『ミツバチの羽音』はハイレゾ版を買いました。DL版だから発売後すぐ買えて、海外でもすぐ手元に来た。そういう意味では良い時代ですね。とっても好きでもうずっと聴いてる。

『01. ミツバチの羽音』淡く優しい世界に誘ってくれる曲なイメージ。「Ah.. 知識の服を脱いで つつまれる 今 それは少女の 永遠の 眼差し」ってフレーズが好き。

『02. 舟は森を行く』僕の中にある森の夜明けの景色と重なってとっても好き。『レインフォレスト』っていう曲も森を歌ってるけどこっちの方が抽象的な感じで景色が呼び起こされる感じがする。

『03. 金の糸の話』珍しく物語り調。「そして誰も口々に正しさを語り合う」これを眺めてる感じに孤独感を揺さぶられる。どこか救いがない中で愛や祈りにもっていくのがとても昭乃さんな感じがする。

『05. 無言の詩』これもとっても好き。「ためらうように水は流れ」にじんとくるの。

『06. Plastic Forest』深い虚無感に沈みながらそれでも続く世界の神々しさが同居してる感じ。

『08. dream, dream』とても昭乃さんらしい変化球な曲だと思う。とっても好き。ベッドで夢を見てる時が一番楽しいかもしれない僕はこの曲を聴くととても元気が出ます。

『10. tabinosphere』希望や淡い明るさを感じるこの曲が最後にくるのがとても好き。

 

好きな人のアルバムだと全体通して聴くとアップダウンも含めて浸ってとても心地良く過ごせる。このアルバムは昭乃さん色が濃いってことだけど、ずっと一緒に曲を作ってる保刈さんの存在の大きさも同時に感じる気がしました。

やっぱりこう、昭乃さんの曲は聴いている時の感覚に全てが肯定される感じがする。孤独も含めて。ハッピーな曲ってわけでもないんだけど、ほら、ハッピーもハッピーでハッピーの種類によっては僕は否定されちゃうんだよね。無理にハッピーになれる人間でもないけど、自分なりのハッピーはあるわけで。そういったものまで霞の中で包み込んでくれるような感覚。

 

森に帰りたくなる。