感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ぼーっとする時間 から 美しさ 尺度 "Ocean Foam" Cicada

暗闇の温かさ、苦痛の中の安らぎ、虚構に隠れた真実、重さの心地よさ、絶望が与える希望、滑稽な健気さ、凄惨な光景に見え隠れする美しさ、不条理という条理、それらの逆も然り、そんなことばかり思ってる。なんなんだろう。

 

先週はちょっと忙しかった。なんかこう、忙しいと何やってんだろうなぁってなる。

 

暇な時間が自分にとって特に大事に感じる。暇っていうのは何もしてない時間。ぼーっとしてる時とか、お散歩してる時とか。

ある種の趣味とか、映画観たり本読んだりネットサーフィンしてる時っていうのは暇な時間というよりは、より外側に向いてる時間。最近はあまりこっちに割く気力がない。

 

ぼーっとしてたりお散歩してる時っていうのは、思考や感情を整理してる時なのだと思う。浮かんでは消えるイメージを眺める時間。誰が浮かばせて誰が捉えてるのかは知らないけれど。それが冒頭の羅列にも繋がる。

その時間がいくらあっても足りないということは、そっちで処理しきれてない部分があるということなのだろうか。あ、お散歩は最近ずっと出来てないんだけどね。うちの区画ロックダウンで。はぁ…

 

捉え直し捉え直しってそればかりで行く先が見えないんだけど、でも戻りたくないし戻れないと思える分それでいいのかなとも思う。人生って不思議。思考も精神も。いったい何をしてるのだろう。

現象的に捉えて、意味などなくこれが何も生まない、ただそうあるだけというのも好き。なんかこう、背徳感。何に対する背徳?とらわれがあるのだろう。

 

昨日は美しさについて考えてた。感覚的な美しさ。いや、美しさが伴う感覚?

喜びや楽しさは勿論だけど、悲愴や虚しさ、苦しみや怒り、凄惨な死でさえもどこかに美しさだけは残す気がする。この感覚はいつからだろう。前からある気はするけど、ここまで線がはっきりしてきたのは割と最近だと思う。

 

例えば人が殺し合うのを見てそれを直接的に美しいと感じるわけではない(部分的なアートとしてはあるかもしれないけど)し、むしろ悲しいし辛いし苦しいし重たくてどろどろしているのだけど、それにどっぷり浸かって身体が慣れ、感覚が過ぎ去った頃に美しさが背景に広がっているのがようやく見えてくる感じ。そしてそれは全く別々の縮尺のものが入り混じっている。

一つは生涯的、歴史的、人類的、生物的、宇宙的なとても外側に大きな尺度。それともう一つはその瞬間の感情、思考的な一見小さいけれど内側に向かって深い尺度。

その2つがカクテルのように入り混じると、とても繊細で他にはない美しさを生み出すというか…難しい… 

 

まるで初めて見る空の色と雲の形、その流れのコンビネーションが作り出す景色に見惚れているような感覚なのだけど、これは感覚であって心象が浮かぶようなものでもない。

 

災害なんかでも被災者感情というものがあるから、そういうものに配慮せずに思った事、例えば自然の生み出す大いなる破壊力の前に無力な人間の姿に見る畏敬的な美しさだとか、人々を翻弄する恐怖や悲しみの後の虚しさに見る美しさだとか、そんなことを言うのは難しいけれど、実際誰もがそういった類のことを感じていてもおかしくはないものだと思う。

何ていうのかな、正や誤や善や悪や邪の外側の感覚、不謹慎とかそんなものよりもっと広い尺度の感覚ってきっと誰しもが持っていて、でもそれは知らず知らずに抑圧し、されている。

でも、そもそも人と人の間で生きるための相対的な尺度とそうじゃないものがなぜごっちゃにされ、断ぜられてしまうのだろう。何故双方が許容されるということは難しいのだろう。

 

前者ばかりの人は多いけどそれはとても正しさを持っていて、後者ばかりだとサイコパスになる。後者は人と人の間の視点で見ると受け入れ難いものの見え方なのかもしれない。でもそれは皆が自らのその見え方を抑圧しているからそう見え、忌避すべきものになるだけであって、本当は恐れるまでもない全くの別ものなのにって。

 

固定観念のない子供がかわいい子ブタを思い浮かべて、「お姉ちゃんブタちゃんみたい」って言うのともちょっと似てる。嫌な顔をされたり「いけません」って言われるだろうけど、無垢な子供が見たかわいさは紛れもなくかわいい子ブタ。それ以上に本物を見るということがあるだろうか。

大人は自分たちの視点で子供は経験や知識が少ないからそんなことを言うと決めつけてしまうけれど、経験や知識が少ないからこそより直接的に物事を見ているものだと僕は思う。

別に答えは無くて、僕が書いたことを読んで「いや、そうじゃない」と思った人にはそれが大事なのだろうっていう、そういう話だけど。

 

何書いてたっけ。美だった。

美というのは個人の感情と密接な感覚だけれど、人が経験的に何かを感じたりする中で、どこかに救いとして残るものはこの美だったりするのではないだろうか。それは全てが既に美しいからであって…

なんかこう、創造とか奇跡とか普遍とか生命とか運命とかの美って感じもするから、神や大いなる存在を信じる強さを持った人が愛と表現するものはこれに近いのかなとも思う。

はい。オチはないです。

 

 

そうそう、とってもいい曲を見つけたの。見つけたというか、Youtube musicが運んできたというか…

CicadaのOcean Foam。一回聴いてしゅきしゅき!ってなった。

 

Ocean Foam / Cicada


www.youtube.com

 

Cicadaは台湾のグループらしい。しゅきしゅき!ってなる曲がいくつもある。台湾の音楽はあまり知らなかったから好きなグループが見つかってちょっと嬉しい。

 

White Forest / Cicada 


www.youtube.com

 

これもいい。ずっと聴いてられる。聴きながらぼーっとしてると何時間も経っちゃう。

ぼーっとしてるけど内側はぼーっとしてないから、意識的に瞑想もして休めた方が良いのかもしれない。