感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

”The Last Thing You'll Remember”から 死別から思う出会いと別れ

これ

 


The Last Thing You'll Remember

 

"People often say: live everyday as if it’s your last but you hear far less commonly to live everyday as if it were someone else’s." (10:17)

 

この捉え方、僕には合うかもしれない。

自分が明日死ぬかもしれないと思って生きたとしても、その日を、そして誰かとの最後の一日を大切に生きれる気がしない。そんなことを考えたのなら、弱った猫のように人目につかないところで過ごした方がいいって思っちゃう。

 

でもそれが誰かとの最後の日だと思うのなら、大切に噛み締めて過ごそうと思える気がする。急な別れというものは本当に悲しいし、悔いがある場合はずっと引きずる。

もし相手ではなく自分が死ぬ側なら、そんな苦しみには終止符が打たれるのになって思いがちだけど、誰かとの死別の悲しさや悔い、それらを思い出した時、そこに自分を当てはめて相手に同じ気持ちをさせるのはよくないと思うこともできる。

自己中心的な思考態度だから自分以外の死に触れた時の感覚というのは大きな意味を持つのだろうか。要するに、相手側から自分を見て自らの経験を自分自身の鏡に映さないとそう考えることができない。

 

だから、その人と会えるのはこれが最後かもしれないと思うことは、別に相手の死を想う事ではないと思う。焦点が当たっているのはまだない後悔であって、それを自分が負わないように、そして相手に負わせないようにという思い。それが一緒の時間を丁寧に過ごそう、嚙みしめようという気持ちに通じる。

大事なのは、会えるのはこれが最後かもしれないという気持ちであって、ふたりを分かつものは死とは限らない。友達が急に結婚して忙しくなって会えなくなる、というのも同じことだ。死別の後悔というのは、ここでは自らの経験を通してこれからの人との関係の中での自分の在り方を考える鍵として作用するものだ。忙しくなって会えなくなった友達のことを想っても、それだけだと「これからは人との時間は丁寧に過ごそう」とは中々繋がらないものだと思う。

 

だから、「生きている人の死を想うなんてけしからん」というのは少し違うと思う。とマジノ線並みの予防線を張っておく。

 

性格的な問題もあると思う。僕の場合自己中心的で内側では感情的だから、そういう順序だっていうことで、それが合う人も合わない人もいるはず。こんな遠回りしなくても人との時間を大切に過ごせればそれでいいし、感謝して瞬間瞬間を大事に生きられるならそれに越したことはないのだしね。

 

まぁほら、僕らはmortal lifeに生きているわけで、死は必ず訪れるし、そこでの出会いに別れはつきもの。死を見つめてこその生であるなら、別れを見つめてこその共に過ごす時間なのだと思う。

だからこそ、当たり前の関係に甘えず、丁寧に全力で、与え受け取り、見つめ合い、感謝しようって思うこともできる。

 

勿論反省も込めてね。

最近消化試合感が凄くて、でもそれに身を任せすぎるのもよくないなぁと思えたのでした。自戒。

 

急な別れ、悲しみ、後悔。

この動画を見てこの気持ちになれたのはあの人のおかげでもある。ありがとう。

やっぱり乗り越えられないや。