中秋節でしたね。この時期スーパーで見かけるけど、月餅って何であんなに高いんだろう。
昨夜は雨で月は見えなかったなぁ。今夜もダメそう。
昔ね、小学生の頃。草花を切ってきて瓶に挿すのが好きだったの。一輪挿しだったり、混ぜたり。それが、全体的に「これだ。」っていう形に整ったときがとても嬉しかったし、誰かの目にさり気なくでも留まるのが嬉しかったな。
園芸はどちらかと言うと愛着になるのだけど、今考えると挿し花は表現だったのかな。僕はその辺りに生える草が好きだったから、挿し花と言うより挿し草になっている時の方が多かったかもしれないけど。
中学校時代まではアクアリウムも好きで、自転車でアクアリウムショップに通ったものだった。水槽内は2つの要素があって、流木や石、砂利の勾配とか、水草の配置は魚やエビにとっての住環境でもあり、住民達を含めたそれは外側からの景観でもある。前者を優先しつつ後者を形作る的な。感覚的にはそれは、挿し花に感じていたものに近かったと思う。
因みに僕が父親を完全に嫌うようになった切っ掛けがこのアクアリウムだった。それについては長くなるので別にする。気づいたらこの続きに千文字近く書いていたけど、今はそういうことが書きたいんじゃなかった。
でまぁ、アクアリウムはそれ以来やってないのだけど、高校に入ってからは小さめのアクアテラリウムを作った。クラスメイトと隣の市の端っこまで自転車で行ってイモリやホトケドジョウを捕って、分けて。丹沢の麓にはそういう場所が結構あった。そういえば、彼はどんな水槽を作ってたのだろうか。あいつも僕に続いて転校したと聞いたけど、生きてるのかなぁ。
あのアクアテラリウムも気に入ってた。自己満足だけど、住み心地は良かったんじゃないかと思う。高校2年になった頃には色々あって世話もできなくなって駄目にしてしまったけどね。
そういったものを作るとき、僕は、身近にあって魅力的だと僕が感じたものを散りばめるのが好きだった。普段見向きもされないような雑草なんかも、全体の整え方で主役としてその個性を発揮できるし、意外なものを組み合わせても全体的な調和は取れたりする。それが好きだった。
今思うと大切な趣味だったなぁ。価値観が変わった今でも近いものを探せるかな。
線路のそばに住んでたのだけど、柵のすぐ内側にススキが沢山生えてるところがあって、十五夜の季節にはこの場所の夕暮れ時の景色が浮かんでくる。
肌寒さを増す風、色が落ち着いていく景色、寂しげな遮断機の音、沈みかけの夕陽を受けながら揺れるススキたち。静かに鳴くコオロギの声。
ススキはススキだけで一本、多くても三本くらいが好きだったな。近くの和菓子屋さん、よくすあまを一個だけ買いに行ったのだけど(今思うとおかしなお客だっただろうけど、優しいおばちゃんが時々おまけくれた!)、この時期はそこでお団子を買って一緒に飾ったりもした。
お月見もしたけれど、やっぱり十五夜はススキのイメージだな。黄昏れの記憶。
あと、歌もあったよね。「十五夜お月さん かかさんに も一度わたしはあいたいな」って。そのフレーズだけ頭に残ってる。それが丁度あの情景に重なる。母とはずっと一緒に住んでたし、今も健在だけど、あの歌の雰囲気なのかな。
十五夜、中秋節。そういう季節のイベントっていいなって思う。ここにいると特に。
中秋節を祝うここで生まれ育った華僑の人達、この人たちの中では中秋節はどんなイメージなのだろう。家族と食べる月餅かな。ケチらないで買えばよかったなー。