エミールを読み始めた。岩波文庫のkindle版。
僕本読むの時間かかるから、全部読むには3ヶ月くらいかかりそう。
ジャン=ジャック・ルソー、時代的な部分は置いといて、基盤となるこの人の感覚はとてもよく分かる。その見え方、感じ方ゆえにこの本を書かなくてはならなくなったのだろう。
色々拗らせてる感も変に共感し易くて良い。そういう人からの方が僕は学べることが多い。
ところで、1700年代中盤のフランス都市部ってそんなに空気が悪かったのだろうか?産業革命前で手工業が主流、運輸も馬車や帆船の時代な気がするけど、どうしてだろう?
空気は微細で柔らかな皮膚に染み込みー
乳母が都市の悪い空気を吸うよりも子どもが田舎に行ってよい空気を吸う方がよいー
と言っているので物質的な意味だと思うのだけれど。
人口過密なら下水、ゴミ処理、衛生の方かな。不衛生な空気の悪さを嫌ったのか。ハイヒールがどうのとかも聞くし、フランス革命前となるとやっぱりそっちかな。
公害を経験し、まだその影響の中にある21世紀的に、そして公害に関する教育や光化学スモッグがどうのという防災放送で大気汚染が脳に刻まれた僕にとって、都市の空気の悪さと言うと専ら大気汚染に気がいくけど、それは衛生が頭に浮かばない程度には育った場所の衛生管理がしっかりしていたということでもあるのか。
僕の世代よりも少し前は下水も酷かったらしいけど、僕のころは改善されかけていた。水質管理の努力が大きな目で見て良いものであるかはさておき。
確かに不衛生に対し僕は鈍感だ。衛生にこだわる人から見れば、衛生観が一部欠落していると言ってもいい。
ゴミが散乱し腐臭が漂いネズミが走り回っててもあまり気にならない。仕事で下水処理施設の水質チェックをするのもそんなに抵抗がない。
でも黒い排煙を撒き散らすトラックが目の前にいるととても嫌な気分になる。刷り込まれた恐怖と視覚や嗅覚からの知覚情報が合うから、不安の相乗効果を生む的な。
伝染病を経験し、衛生観念が発達している頃の人たちがネズミに抱く不安も似たようなものではないだろうか。
時代が変われば、そういうギャップも大きいということなのかな。
では、仮に彼が現代の都市に来たらどう感じるのだろう?どういう反応をするのか、どんな印象を抱くのかとても興味がある。
代わりに僕も当時のフランスやスイスの都市を見てみたい。
同じ文明嫌悪を抱く者同士、そこでイメージを交換したらどんなものが両者の間に生まれるだろう?
自らの知識や感覚を省みて柔軟になるか、それとも都市は人を堕落させるという共通見解がより確信に近づくだろうか。
この本を読み始めたのは、文明どうこうというよりも啓蒙について知りたかったから。人間不平等起源論もそのうち読みたいとは思う。
啓蒙ってかなり抽象的な概念だけれど、僕にとっての抑圧を生んだ教育というのも、啓蒙思想から発展した教育学の権威の下に組み込まれている。と僕は思っている。
ただ、理念としての啓蒙と、その発展の内に様々な思想とともに入り込み、僕らの中に根付いた啓蒙というのはもはや別もののなような気がしていて、単純に啓蒙が敵、ということもできないだろうと思う。
ただ同時に、感覚として、本来的な人間性のための教育、僕にとって理想的な教育というのは、現代的な所謂教育というものの影響の届かない、完全に外側でしか実現しないような気がする。それがなぜなのかは分からない。漠然とだけど、社会よりももっと個人レベルで、一人一人の内側にある啓蒙という発想と結びついた、概念的な大人と子供の関係というか、その辺りにあると思う。ただその個人もはやはり、社会の中の個人という条件の中の個人にもなるだろうから、切り離すのは難しいと思う。
僕はこれから教育に関わるつもりはないし、それは誰よりも不適当であることを認識しているからだと思う。でもここまで引っ張られるのなら、その外側で、教育としてではなく、でも何らかの関わりは子供たちと持ちたいと思っているのかな。
僕が失った僕にとって大切なものを彼らが持っているからだろうか。
その辺りを少し整理したくてこの本を読み始めた。
先ずは啓蒙と教育を分解したい。その中でより本来的な啓蒙を取り出してみたい。
その為には、啓蒙の時代を生きた僕と少し近い感覚を持っているであろう人が、その中の教育を見ながら、自らの内の子供と大人を見つめながら書いたであろうこの本は最適だろう。
このタイミングでこの本を手にしたことに運命を感じるほどだ。多分この人の本は何冊か読んでみることになると思う。
抑圧と書いたように、僕にとってはコンプレックスと繋がる(何かを奪われた的な)のだろうけど、それ無しに自分にとって大切なものに気付くことってないでしょ。まぁ、僕はそうなの。だからその辺は言いっこなし!