川の淵 井戸の底 メランコリー
自分の手を眺め、それが動くのが不思議に思う時。指と指を合わせて、そこに感触がある事が不思議に思う時。そういう時はいつも溜息が多くなっている。
当たり前であることを不思議に思うのは、その当たり前が当たり前ではないという感覚があるからだろうか。
この手は僕の物で僕が動かしているという事実とされるものが根底から揺らいでいる。
大体こういう時は何もかもが分からない。いや、普段から分かっていることなんて分かっていないのだろう。
このメランコリーの奥底は、何かこう、僕にとって非常に大事なもののような気がしている。もし僕が川であるなら、生き急ぎ流される急流や浅瀬に今僕が探しているものはない。
ただ表面を流れていてはたどり着かない、蛇行の内側で静けさを保つ淵の深み。忘れ去られた落ち葉の溜まる、冷たく仄暗い岩陰。深い深い井戸の底。
そこに誘われ沈む時、普段なら見つけられないものがその先にあると感じる。抗うのをやめてからそうなった。浮く時になれば浮くのだから、身を任せること。そうするとこの寒く暗い場所も意外と悪くないものだ。
沈まなければならないのは、そこでしか癒えないものを癒すためだとも思う。ジム・キャリーの言う深い休息がそれに近いと思う。イメージに近いのは、深い海底で休眠状態となって、時間をかけ再生するゴジラだろうか。
僕にとっては、より深いところに沈む、時に意図的に潜るのは、純度の高い自分の見え方を取り戻す為とも思う。そうして井戸の外へ少し出ては外の世界に触れる。しかしそれは濁り淀みを同時にもたらすから、耐えられなくなりまた戻る。外の世界が森や海ならばそんなものは必要ないのだけれど。
川の淵、井戸の底。
『井の中の蛙大海を知らず』というが、大海と個の深い水の底は繋がっていると思う。澄み渡っているのに沢山のミネラルを含んでいる深層の水は、どこかで深海と繋がっている、暗く冷たい奥底から湧き出てくるものだ。その純粋で清らかな水は、癒し清めてくれるものなのだと思う。
人の数だけある沢山の深みもまた繋がっている。だから何かを共有しているのかもしれない。
それは言わば、色々なものと、本当に色々なものと隔絶された世界だからこそ、僕たちが失ってはならない色々な自然、本来性との接点であり、水脈を通し無意識下で共有しているのだと思う。と勝手に集合的無意識を持ち出したようだが、感覚的にはそれは存在、内在するような気がする。
それを感じる時、僕は自分の手を不思議に思いながら眺めている。そこで得る死生観や人生観が普段と全く違うことは、見方を変えれば当然のことだろう。そういう意味で、ここで得るインスピレーションは多分、僕にとって大事なのだろう。
悪魔の囁きという人もいるけど、そんなに悪いものとは感じないよ。
井戸。暗く先の見えない奥底。
井の外の蛙が大海を知ることのように渇望しているものは、彼らも既に持っているのではないだろうか。井の外に探すか井の奥底に探すか、アプローチが違うだけの話ではないだろうか。
深い所で溺れ死なないために大事なことは、潜るのを怖がる人達の言葉には耳を貸さないことだ。それは違う自然に根差した言葉だから。
抗わず身を任せれば案外悪いものではないよ。沈むのは再び浮くためなのだから。