感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

逆トイレトレーニング

本当に美しい花に触れた時、その花は記憶に焼き付き、大切なイメージとなった花を自分の内側で愛でる。その花だったものは同時に僕を形づくっていくのだけど、それが溶け込んでいけばいくほどイメージはその姿を曖昧にし、求める気持ちばかりが鮮烈さを増す。

この生が終わった時にその花たちと触れ合うことができたなら、ただ一言でも交わすことができたなら、一瞬でも目を合わせることができたなら、全てに意味が貫かれ、柔らかさの内に帰ることができる。

その確証が得られるなら、どんなに僕は救われるだろう。それは荒れる海が一瞬にして静まり返ることで、砂時計が川の流れの中にいることに気づくことで、麗らかな風に揺れる花たちがすぐそこにいたことに気づくことで、僕の存在が薄まり空気に溶け込むことが許されることで、天使と堕天使が双方の傲慢を赦され再び微笑みあうことができるということだろう。

 

その花たちがただ其々に咲いただけだとしても、僕は魅せられ、愛でることで肩を抱かれているのだから。血肉になったわけではないとしても、でも、だからこそ求め続けるのかな。

 

 

シラフだよ。イメージと感覚だけ追って極力理屈の介入を避けて書いた。意味はよくわからないけどこれを願望というのだと思う。

はっきりとした文章に当てはめた僕の願望とこの意味不明な願望、どちらの方が形を保っているのかと聞かれればこっちだと思う。

 

不思議とちょっとスッキリしたかもしれない。

 

この行為、『逆トイレトレーニング』が思い浮かんだからこれを題名にしよう💡<ピコーン!

 

怪しい響き、それでいて最大限の反逆の魅力を備えた題名に惹かれて来てしまった方ごめんなさい。僕はまだやったことがないです(嘘か真か)。興味がある方はGoogle検索でどうぞ。

 

なぜお漏らしがいけないのか。トイレでこぼさないように用を足すことが刷り込まれることで失っているものがあるのではないか?とか勢いで書いたけど、これ喩えだよ?

 

でもそれを実行に移すことは別に悪いことではないと思う。どっちもね。

おしっこうんちは出すものではなく出るものだとする価値転換は、我々の多くにとっては寧ろ回帰なのだ。

 

それを以って初めて忘れていたものを思い出し、理解に至る場合もあるだろう。例えば老人のお漏らしを責めるのはお漏らしを『した』と思い込むからだ。排泄物は『出る』という前提に立てばそこまで怒り狂う必要もない。ということも言えると思う。

僕が欲するのは寛容ではなく理解なのです。その為には…

 

鎖を引き千切れ!