食事でもなんでも、味わうということにフォーカスする時、それは二次的な精査というか、実験というか、探求というか、そういったものなのだと思う。
一時的な刺激である情報、例えば食事なら味覚や触覚、嗅覚、時に視覚や聴覚への刺激をどう処理するか。
パンチという言葉があるけど、直接的な刺激は強いと一種の快感になるようだ。しかしその刺激は強ければ強いほど感覚を鈍化させてしまう。だからより強い刺激を求めなければならない。食事の途中で飽きて調味料で味を変えるという試みはそこからのものだと思う。
感覚を刺激するという意味で化学調味料はそれそのものだろう。確かに一口目で花火は弾けるけれど、そのあとは麻痺して食事そのものが苦行になる。
刺激を求めていく食事はなんというか、交感神経優位的。悪く言えば浅い快楽、良く言えばお祭り的。アグレッシブ。直線的で男性的なオーガズム。
味わうという行為は一時的な刺激を元にしつつも、もっと次の作用にフォーカスするものだ。より繊細な刺激が好ましく、優しければ優しいほど深く感じ入ることができる。微かなフェザータッチに悶えるように、気づけば集中力を使っている。集中が必要な分リラックスが求められるから、より副交感神経優位的な反応なのだと思う。それゆえにパッシブになる。
内側へのフォーカスはどこか瞑想的で修行的。深め、沈みいく女性的なオーガズム。
多分僕はこちらが優勢だから、例えば食事でもあまり雑多なものだと疲れてしまうし、集中できないと食べた気がしない。
味わうことはより貪欲に情景を追い求めていく姿勢と思うから、どちらがストイックかと聞かれると前者だと僕は思う。
どちらもそれなりの良さがあるのだろうけど、性質上両立は出来ないし向き不向きがある。
外見上アグレッシブであれば内面的にはパッシブなことが多いし、外見上パッシブであれば内面ではアグレッシブなことが多い。当たり前だけど。前者がストイックだと思うということは、僕はやっぱり後者が優位なのだろう。
これは気質に近いものだろう。赤ちゃんを見ていても、例えばどんなマッサージが好きかとか、既にある程度の性質は持っているものだ。
意識高い系ラーメンと呼ばれるものがある。
系がつくように、卑下の対象として話題になる。
でもそれは、シンプルで材料にこだわっているあっさり系のそれは、見るからに味わう事にフォーカスしているのであって、ラーメンを先の『味わう系』と『刺激系』に二分化して見るならば、片側において正統な進化先だ。
その対極の刺激を追求する樹形の先に位置するのが家系ラーメンたちであって、極端にピーキーなのが二郎というものなのだと思う。濃厚系。
ラーメンについてそこまで知らないのにイメージで語っていて滑稽だと今ふと思った。
でももうちょっと続けたい。いつも通り僕の勝手なイメージによる感想だと留意してね!
昔ながらの中華そばというのは、その樹形の元にあって、いわば両ツリーの祖先にあたる。15年ほど前、どんどん濃厚系のラーメン店が増える中それを好まなかった僕も、近所の中華料理屋の昔ながらの中華そばは好きだった。
それまでは大抵のラーメン屋が両者を備えていた(いわばニーズがあった)けど、濃厚系のものだけを出す店が突出してきた。そういう意味で、刺激の追求においてはこちら側も同じく意識が高いと言えると思う。ラーメンを求める意識は高度化し、食としての専門性を増した。それは、しばしば結びつくものの、大衆志向・高級志向の枠を超えたものだと思う。
そういう意味では、どちらの進化先も意識が高いとも言える。
だから僕は意識高い系ラーメンという名前は、ラーメンは大衆食であるという不当な先入観が生み出したもので、よろしくないと思う。
それらの樹形はお蕎麦にもあるし、おうどんにもあるし、パスタやスパゲティにもあるし、ピザにもあるしお寿司にもある。
同じ料理の中で両者が生まれその両者が先鋭化するというのは、それだけ食に対してこだわりがあるということの表出であって、それは誇っても良いことだと思う。
でもやっぱり僕は味わう系が好き。それは趣味趣向の問題なのだろうけど、きちんと機能に根差した個々の違いの反映でもあると思う。
味わいを求めることと刺激を求めること。
そう考えると、いつか話題になった『味覚が敏感な人は乳首が敏感』という一見関係ないフレーズも、とても納得がいくものになるのではないか。
はい。それありきで書きました。