感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

許容と嘲笑

今朝運転した時の出来事。ラウンドアバウトの出口の渋滞で間をすり抜けようとしていたバイクが僕の車が邪魔ですり抜けられず、喚きながらクラクションを数回鳴らした後一生懸命すり抜けて、通り過ぎざまにこちらを振り返り、叫んだ後走り去っていった。

 

その時感じたのが『かわいいなぁ』だった。嘲笑を含み、見下すように。

 

精神的な余裕があって、彼が無害なことも含めてすぐに分かった。

車の中は外殻に覆われ、顔が見られづらいという余裕が発生するというけど、僕の場合は自分が広がって車になったような感覚なのでそれは少ないと思う。

それよりもこちらに非がないという感覚が大きかったのだろう。

 

故意にブロックしたわけじゃないし、場所的にそうなっても仕方ないし、ルール上バイクのすり抜けスペースを残さなきゃいけないなんてことはない。急いでたなら悪いなぁって思いはするけど、僕は感情を剥き出しにする人を性格的に好まないところがあるので、それも相殺されてすぐには考えなかった。僕は彼のその態度を攻撃と受け取ったのだろう。

 

ほぼこちらに非がないという自信とそれを見ている多数の目。それによる余裕だった。

僕がその状況でそれを感じたということに、面白いなぁという思いと嫌悪感が混じる。

それだけイレギュラーな出来事だった。感情的な攻撃を受ければすぐに動揺してしまう僕にとって、そういう状況が頻発するからこそあまり好まない車の運転中にそれを感じたのだから。

 

嘲笑だった。

 

もともと、自分が冷静な時は感情を攻撃的にばら撒く人を上から見ている感覚はあった。気持ちに素直で羨ましいという気持ちの反面、羨ましくないと思う。真逆の顔をしたものが入り混じり、溶け合っている。

自分の内側のどこかで感情的なものを抑えているという意識があって、そこに美徳なりを感じていたのだろう。かなり根底にあるものだ。縛り付けている側と縛られている側、双方がそれぞれ相容れない主張を持ち、美徳を抱き、冷静な時ほど縛り付ける側が優位になる。

そんなことはその状況によってどの心理機能が優位になるかとか、いくらでも説明がつくし分かっていたことだった。

 

問題は『その時』としてハッキリと記憶に残った明朗だけど複雑な感情と思考を、想起する度にどう捉えるか、どう考えるか、そして回を増すごとにどう変わるかだろう。

ほんの数時間前の出来事。でももうそれに抱く感覚は二転三転している。

恐らく、最終的にはマイナスの出来事として記憶に固定されて滑らかさを持つようになる。

 

 

何に翻弄されているのだろうか。

行動自体に非がないとは思っているけど、その自らの嘲笑に対して動揺してる。

 

最近ずっと思っていた。

人が他者を『許容』する場合、飽くまでパッシブに、倫理的に「しなければならない」というプロセスの末に他者を認めようとした場合、その多くは嘲笑になるのではないかって。

それが極端に強い人がいて、僕はその態度に嫌悪感を抱くとともに僕自身にそれがいることも分かっていた。集団になればそれは強まる。いや、集団だからこそなのか。多数の目による「自らが正しい」という後押しを得たときに。今朝の僕のように。

だからこそその集団の中での正しさを得ることが目的にすり替わるのだろう。

 

僕はそれが嫌い。嫌いだけど自分の中にもいて。それを程度の問題だとか、自然な現象だとか割り切れる人間なら良いのだけど、僕はそれが苦手。割り切れないことにまた美徳や正しさを抱いてるんだろうね。変なところに尊厳を持ってる。救いようがない。

 

そこまで自分の中で説明しておいてまだ動揺してる。いや、掘れば掘るほど波は荒れてくる。どこまでいけるだろうか。

そこには、僕はその嘲笑的な許容を認めたくないという思いがあって、でも思っていたとおり僕自身がそのテンプレート的な、反射的な行動をしたのだ。それを極端に自分の尊厳のために認めたくないと思い、自己否定にすり替えていく。エラーなんだよなぁ。WindowsやiOSみたいにアプリを強制終了してくれればいいのに。そうなったらそうなったでそれ自体にエラーを吐くという致命的な欠陥と相まって再起不能かもしれないけど。

 

 

動揺。

直視しようとして見つめ続け、下へ下へと下りていくのだけど、ある線を越えたときにふっと逆転している。

縛られている側が笑っていて、縛っている側が泣いている。それに対する動揺が一番大きい。

 

この先はやっぱり今はやめておこう。危険なダンジョン。