感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

距離感 宇宙 イメージ 幻想

例えば距離感が、知識を含む経験を基に脳が生み出す幻想だとして、どうしたら僕が見上げる夜空が平面ではなくなるのだろう?夜空が平面でなくなればきっと何か新しいものが見えるのに。

 

僕の中にある宇宙のイメージというのも、結局はどこかで見た、誰かが作り出した幻想の焼き直しに過ぎない。そしてそこに実際の距離感はない。それは人間からするとあまりに大きすぎるからだろうか。

例えば人間が地球に対し、地面に這い蹲る矮小な存在である時、地球が平面でも球体でもそこに大きな違いはあっただろうか。天が動くにしても地が動くにしても同じことだ。深く知ろうとする人と縋る権威を守ろうとする人以外にとっては、あまり意味のない議論だったのではないだろうか。

 

それは僕自身にも当てはまる。例えば地球が丸いという共通認識が僕にとってどこまでの意味を持つのだろうか。それが平面であっても、イメージの世界でその二つが置き換わるに過ぎないのではないだろうか。

地球でさえ僕にとっては大きすぎて、その自転や公転でさえ直接的には感じることができない。では何故その先に興味を持とうとするのだろう。公転の先の動き、例えば太陽系が銀河の中心を軸として回っているとか、その先の回転とか。どう足掻いても感じ取ることはできないのに。でも知りたい。知識としてではなく経験として。欲は果てしない。

 

ガリレオは何を見たのだろうか。それはガガーリンが見たものと同じなのだろうか。恐らく全く別のものだろう。そしてガガーリンの見る世界はその経験の前後で大きく変わったに違いない。そのガガーリンでさえ300kmくらいしか離れていない地球周回軌道からほんの少しの間地球を眺めただけだ。それでもやっぱり羨ましいけど。

38万kmという途方もないとも思える距離から地球を眺めた人々もいる。その人たちの見る世界はどう変わったのだろう?でもその人たちでさえ、例え地球の重力圏外から地球を眺めたとしても、それでもまだ地球の枠の中から出られない。所詮は衛星の視点なのだから。自分と地球の距離が遠くなったのを経験したに過ぎないとも言える。

 

星空という途方もない、時間を越えた距離にある光源たち。その実際の距離感を感じられるようになったら、恐らく僕は自分の小ささに比する宇宙の広大さに全く認識できないか、頭がおかしくなるかだろう。

結局宇宙の視点(視野?視座?なんでもいい)を得たところで、それを見るのが僕である以上僕自身の矮小さが際立つ以上の意味は持たないのかもしれない。仮に自由に宇宙空間を移動できるとして、その最小の乗り物が僕である以上、これ以上大きな目も小さな目も持てないのだろう。

 

 

惑星間でさえ、その広さは地球上のどんな海原よりも遥かに広大で、どんな山よりも高く、そしてどんな海溝よりも深い。その中の孤独はどんなものなのだろうか。でももしかしたら、僕の想像以上に塵や岩石、氷塊と呼ばれるものは沢山あって、案外暇はしないのかもしれない。でもそれも結局は場所によるという現実に直面する。

そもそも僕が求めるのは僕自身がこの身体で宇宙に行くというものではないはずなのだけれど、基準がそれしかない。超えられない。

 

でもやっぱり平面を超えたいという欲望は持ち続けるのだろうけど。

 

僕にとって知覚できるのは、せいぜい小さな山1つと谷1つくらいなのだ。それすら幻想かもしれない。少なくとも掌握できるのは、手の届く範囲でしかない。それすら…

地球という規模から見ると悲しいほど矮小な存在であって、ミクロから見ると悲しいほど粗大な存在。この現実がどれ程辛いことか。その中の孤独がどれ程大きいか。

だからこそ、その欲望が必要なのだろう。

神がいるのなら羨ましい。でもきっと僕が神の目を手に入れ、バーターとして人の目を失ったら、今度は人の目を羨むだろう。わがまま過ぎない?

 

星屑がただの星屑以上の意味を持たなかったのなら、空が単なる動く天井でしかなかったのなら、月が顔を変えながら空を浮く何かでしかなかったのなら、もっと素直に生きることができたかもしれない。

あ、やっぱり無理だろうな。それもまた1つの幻想。全てが幻想。