感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

環境活動家の子 感情と扇動 環境問題 僕のお仕事

スウェーデンの環境活動家の子の話題、僕はあまり触れたいと思わないのだけど、立場的に色んな知り合いが持ち上げてるので少し考えようと思った。

 

先ず僕は僕個人の性質として人前で負の感情を露わにする人が苦手。それに反応する人も苦手。感情と感情で作用するから、僕は多分離れていたいんだと思う。

冷静な顔をしていても感情に塗れた言い分を理屈で上塗りする人もとても苦手。上と同じ理由に加え、本末転倒で理への冒涜とさえ感じるから。

+αで言えば、そういった自分の感情を意識するのが難しい人は僕の領域に踏み込んでくる。攻撃の意思はなくても僕は攻撃されてしまう。彼らに悪気はない。気づいてもいない。一方的にやられるから僕は避けるしかない。

 

これらは僕の個人的な性質によるもの。

 

集団の面前で感情を露わにすることは僕自身は苦手なのだけど、自分の感情を二重三重に縛り付けている身からすると、そういう自分は常に白昼夢に見ている。だからこそさらに縛り付けてしまう。それはそういう裏返しの自分を常に見ているから。憧れながらも嫌っている。忌みながら鏡に見ている。

深淵を覗きながら深淵に覗かれているのか、表面を覗きながら表面に覗かれているのか、彼が怪物なのか、自分の中に怪物がいるのか、自分自身が怪物なのか、本当によくわからなくなる。それが僕の中の最大のパラドックスと言っていいと思う。

だからそういう人を忌みながらも憎めない。身を守るために避けてしまうけれど。

 

 

このスウェーデンの女の子の動画もいくつか見てみた。彼女はある意味そこら辺の科学者以上に科学者だと思った。見ている尺度が違うし、純粋なのだろうから怒ってしまうのも無理はないと思う。ただ、その怒り(というより憎しみに見えたけど)を表面に出してしまうと大分話が変わってくる。感情に根差したただの対立になる。

皆ヘイトが好き。好きというより群れる動物の原理なんだろう。僕も含めて。

かわいそうなものに我先にと手を差し伸べて満たされようとするし、誰かが好きな可愛いものに群がるし、誰かが価値があると言ったものを守ろうとする習性もある。

特に、浅い感情の刺激によく反応する。扇動に乗るのも習性なんだと思う。ルアーに食いつく魚のよう。それが悪いのではなく、そういうものなのだろう。

 

彼女の講演の内容はやはりアクション、言い方を変えれば扇動的なものが多いと思った。持ち上げられる過程でそっちを吹き込まれてきたのか、自分からその道を進んだのかは分からない。

『活動家』となるならば扇動というのは一つの重要な要素だろう。団体のビジョンにもよるけれど、活動資金を集めるのに一番手っ取り早く割がいいのは寄付金だから。

まじめに助成なんかでやってたらまともに動けない。 

 

でもこの子自身は感情を利用しきれているように見えなかった。多分コントロールできていないんじゃないかなと思った。それを含めて持ち上げられるのはどうなのだろう。それも含めての扇動のカリスマといえばそうなのだろうけど、僕は勿体ないと思った。

彼女の立つ視点はカタストロフィが近いであろう現代において貴重なもの。

それをセンセーショナルな話題を好む群衆の食べ物にされ、持ち上げられ、活動家としての道に進んでしまうのは勿体ないなぁと思う。飽きたら見向きもしなくなる人々に持ち上げられてしまい、より彼女の視点を理解するであろう人達には例の会見で見放されてしまい、ある意味で道は固められてしまった。それは人類全体で見た場合、損失ではないかなと思う。

 

人類が彼女を食い物にするのではなく、仲間として活かす選択をするならば、本当に必要なのは情緒面のサポートや感情の表出をコントロールする成長の手助けだろう。彼女のような設定がピーキーな配分の人は特に、弱点を補う手助けをする人が必要。弱点が良さという見方もできるけど、それを強みと捉えかねない周りの反応はどうなのだろう。

彼女がリーダーになった時、持ち上げていた人が掌を返さないだろうか。

 

ヒトが個々は不完全であること、その振れ幅があるからこそ集団との協調の中で生かし生かされることは、有性生殖と群れを利用してここまで成り上がったヒトとして認識しておかなければならないと思う。適材適所のデザインがあるけれど、現代用にアップデートされていない。強いリーダーが必要なのに、現代の構造や通念ではデザインは否定されている。

その群れのハーモニーもまた、集団と集団の競争原理の中でこそ発揮される。でも競争は否定され、実際に闘わないからより醜く不毛な争いになるのだと思う。

直接血を見る闘いでこそ彼女のような子は本領を発揮できるのだと思うけど。そう考えるとそれも勿体ない。 

 

 

環境問題を集団と集団の問題と捉えるのか、ヒトの在り方の問題と捉えるのか。

 

僕個人としては、扇動で動くような、ヘイトを原動力とした短期的な変化では何も解決しないと思っている。だって内容が少し変わっているだけで、人はずっと同じことを繰り返しているから。そうやって人類は進歩してきた、良くなってきたという人がいるけど、本当にそれが進歩なのか、良くなっているのかと考えると僕は答えを出せない。良くなっている部分、進んだ部分も勿論あると思うけれど、その逆も多いと思う。

 

今回ばかりは違うと言う人もいる。「後世への負債をこれ以上増やさないために闘わなければならない」と。

でも僕はそこに参加しようと思えない。

そこに崇高な理念や意志があるとしても、それに根差した正義があるとしても、集団と集団の闘いとなった時点で、ヘイトの応酬となった時点でそれらは履き違えられてしまう。残念ながら。

履き違えられればその理念の中身までは伝わらない。プラスチックが減れば勝ちとか、どうせそういう方向になり、反動で逆のことを始める。問題の根本は変わらない。

 

ベルサイユの薔薇でオスカルは、その無意味さを予感しながらも『風』に身を任せて散ることを選んだけど、僕は薔薇じゃないからなぁ。

 

 

僕は環境問題はヒトの在り方の問題だと捉えたい。人類全体の。解決法?知らないよ。お会計を皆ですることになるなら皆の問題でいいと思う。

 

ヒトの在り方の問題と捉える場合、集団と集団の闘いになってしまうのは少々面倒くさい。そこに集団という観点、枠ができて固定されてしまう。原発問題のようにある種のタブーになって触れづらくなってしまう。

そういうのは極力少なく、意識として、『自然あってのヒトである』というところに還っていければ一番いいのかなぁと思う。

 

後世への負債は申し訳ないと思わないわけではないけど、文明が出来てからの既定路線だとも感じているので、まぁ同じ船に乗ってしまったのだからしょうがないよね!的な感覚。色々崩壊した後の方が住み易そうだし、精神的にはより健康かもしれない。それに巨大噴火や隕石みたいに、人類関係ないリセットもあるから。

 

最後に、じゃあ何でこんなお仕事を続けているのか?と聞かれるとどうだろう。

きっと今書いたことと別のことを思っている自分もいるし、僕にとって自分の居場所である森は特別な意味を持つからだろう。実際、別の場所の環境保全のお仕事だったらやってないから。ここだからやってるの。僕にとって特別だから。

高尚なお仕事だなんて思ってないし、特別な夢も持ってないよ。