感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『楽しいこと』から 人との関係 夕暮れの公園 一人の世界

楽しいことを書くと言ったので。

楽しいこと。うーん。たまには人との関わりで楽しいことを考えてみよう。

 

僕はソーシャルな場面に居るとすぐ疲れてしまうのだけど、楽しくないわけじゃない。

特に、どんな人かわかっている場合や、その人に傷つけられることはないとわかっている場合には、より積極的に関われるのだと思う。

そういう場面はとても楽しく過ごせる。

 

相手が僕の領域を侵すような人の場合はあんまり楽しめない。

常に笑顔を作っているから、1時間以上そういう場面に居ると顔が筋肉痛になる。

 

気心が知れた人や、分かり合える人との時間は、僕にとってはより深く大切なものになる。ただ、そのための条件は1対1であること。仲が良くても3人以上になれば自分として関われない。それは多分、自分は自分でも、相手によって別の自分で接しているからだと思う。仮面をかむっているとか、道化のような気がしだすと落ち込んでしまうので、どれも自分なのだと思うしかない。

 

多分関係性によってコミュニケーションに望むもの、それが持つ僕にとっての意味も変わるんだと思う。

それは、それぞれの人間関係に付随する気持ちや感情の原因となるものが違うからだと思う。ヒトとして、人間として、その関係性に望み、予感するものへの気持ちがあって、そこからそれぞれに湧く複数の感情が同じ媒体を通してぐちゃぐちゃになる。

動物として、人間として、共同体の仲間として、子供として、大人として、多分男としても、もしかしたら女としても、僕一人の中で色んなものがそれぞれ、その関係性に望むものがあって、与えようとして、そして受け取っている。

そういうのって煩わしいけどすごく面白い。分解してみたい。

 

楽しいからずれてしまった。

 

 

どの場合にも楽しく過ごしている間は楽しい。ただ、居心地が良くない集団だとその楽しい時間の継続時間が短い。こればかりはどうしようもない。

居心地のいい場合は最後までとても楽しく過ごすことが出来る。でも楽しいから、そんな瞬間は僕にとって貴重だから、別れる時間が来るのが辛い。

 

楽しい時間。

 

時間は僕にとって連続の瞬間であって、楽しい時間が過ぎ去るのも止めることが出来ない。

僕はいつも皆が帰ってしまった夕暮れの公園の中に居るような寂しさの中に居る。

時間という止めることのできない流れの中で、楽しい時間は全て楽しかった時間になってしまうから。でもそこに伴うのは、寂しさ、孤独感、哀愁。せめて楽しい時間を想起した時、楽しいと感じるんだったら良いのだけど。

 

僕の中では過去が苦痛の牢獄にばかりなってしまう。記憶の中で、苦痛は最後に残るのも苦痛だから。解放があったとしても、苦痛は苦痛の体験でしかない。

楽しい体験。それはいつも儚い瞬間であって、必ず終わりがきてしまう。僕はいつも僕一人しかいない世界に取り残され、名残惜しさが哀愁や孤独感に変わっていく夕暮れの公園に一人取り残される。

それは僕の内側に世界があって、交流が別の様々な世界との交流である以上避けられないこと。

未来の楽しい瞬間に希望を持ちながら、既にそれが過ぎ去ることを予感して怯えている。僕は得る前に失うことを恐れる人間だから。

 

でもそれが悪いとも思わない。だからこそより大切に今の瞬間と対峙できるのだから。

 

 

今を生きればその瞬間に生きれるというけれど、それは僕の生き方ではない。多分別の世界の住人の理屈なんだと思う。僕の世界には当てはまらない。

そうやって生きたこともあったけど、その生き方はいつも渇いていた。

 

その生き方に戻るくらいなら、僕は浮くために沈むし、沈むために浮くことを選ぶ。

平坦なダンスは僕の趣味ではないから。時にはより壮絶に、時にはより軽快に、時にはより深く踊りたい。

 

過去の苦痛、未来の不安。

それがなければ今という瞬間の素晴らしさの見え方は、僕にとっては単調になってしまう。

だから死ぬまでには、深淵の中を自由に泳げるようになりたい。僕は深淵からしか天にアクセスできない人間だと思うから。

 

きっとその先には、今まで出逢った、過ぎ去ってしまった様々な関係が、祝福される瞬間があるのだと思う。(思いたい)

宗教染みた願望で笑ってしまうけど、そうでも思わないと希望がないから。

 

 

あれ?楽しいこと?

まぁきっと、こういう支離滅裂なこと考えてる時が楽しいんだろうな。

おめでたい人間だからね。

 

他の人達はどんな世界に生きているのだろう。すべてが終わったら、覗くことが出来るのかな?