そのもの自らが発する光というのは、他の灯りに頼ってそれを見ている時には見つけることが出来ない。
夜光虫、ホタル、発光キノコ。電灯を消して初めて見ることができる。
強く光る星の一つ一つの輝きでさえも、太陽や満月の前では見えなくなってしまうし、街灯りの中にいれば本当の星空は見ることが出来ない。
光、灯りは視界を照らすもの。それを消せば周りが見えなくなる。それは危険なことでもあり、怖いことだ。街灯りから離れるのも、街の灯りの中に生きる人にとっては怖いことなのかもしれない。
でも、そうして初めて気づき、見ることが出来る美しいものがある。少しの間立ち止まって灯りを消すのも、勇気を出して暗がりを進むのも悪いことではないのかもしれない。
光は一つや二つだけではない。色んな色があるように、色んな光がある。強い光ばかりが世界を照らす。僕の身体を照らす光も。
でも淡い、暗闇の中でしか見ることのできない優しい光は心を照らしてくれる。小さな光は何も照らしてくれないけれど、色々なものがその光の中に見えてくる。
新月の夜、暗闇に包まれる川を小さなボートに乗り流れると、僕は星空に包まれる。自分の手も見えない暗闇だけど、僕は星の中で自分の位置を感じるし、星空の中に色々なものが見えてくる。
オールを漕ぐと夜光虫が青く光る。本当に小さな光だけど、沢山の青い光が水流を照らし、渦を描く。神々しい青い光の渦。創造神が空をかき混ぜるように、僕のオールのひと漕ぎが美しい光を得る。かき混ぜられる夜光虫はたまったもんじゃないだろうけど。
驚いて駆け抜けるボラの群れも夜光虫に照らされ、魚雷というか、暗視装置から見る巡航ミサイルのように進んでいく。
マングローブに集まるホタルもまた強い光を発する。クリスマスツリーとよく表現されるけど、その光の鼓動はリズムを刻む心臓のよう。
夜光虫が目くらましとして光を出すのに比べると、仲間、特に異性へのシグナルとして光るホタルの光は炎のように自信に満ちている。子孫を残すため、情熱に命を賭す覚悟の光。真夏に鳴くセミたちの力強く意志のある鳴き声と同じ。
発光キノコは本当に淡い光。暗闇に浮かび上がる幽霊のよう。子実体が光っているのだけど、それを前提に沢山生えた森を見ると彼らの支配下に居るような気分になる。
前提がないとなんだろう、ところどころにある淡い光。人の世界で繋がり、共鳴できる光たち。難しいなぁ。まぁいいや。
たまには頼っている灯りを捨てて、それそのものを自分の感性で感じるのも悪くないと思う。光のせいで見過ごしてしまうものが沢山あるから。本当に沢山。