感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

「命の重さに差があるのか」について

「命の重さに差があるのか」という話題を聞いた。僕は直接的にそのやり取りに参加していないのだけど、ちょっと考えてみようと思った。

 

命に重さがあるのか 

それが平等だとなぜ思いたいのか

先ずはそれが頭に浮かんだ。

 

「命の重さに差はあるのか」という問いは「命の重さが平等である」「命の重さが同じでなければならない」という一般認識、前提があって、そこに疑問が生じるから起きるのだと思う。

 

でも平等なんてどこにあるのだろう。

 

僕が犬が苦しむのを見て辛いのは、痛みに苦しむ姿を自分に重ねるからであって、命の重さ云々はあんまり関係がない。撥ねられた動物に命があって息があれば苦しいのだから。

 

子供の自殺が辛いのも自分が過去に見たものや、やはり自分の感覚を重ねているに過ぎない。必要があって多様に生まれるのに、この社会はその多様性が不必要と言わんばかりに彼らの死を無下にする。でも僕はそう思わないから彼らが消えてしまうのが辛い。だから彼らの命は僕にとっては重い。

 

死刑については、常日頃命が大切といっている人たちが、死と向き合う覚悟も無しに死刑継続に目を瞑るのに腹が立つ。汚い所は執行人や裁判に押し付けて、自分の手を汚さずに暴力性を発散しているだけに見えるから。皆が執行を直視してその死を背負うのならわざわざ反対はしない。

 

平等とはなんだろう。 

『神の下の平等』をこちらの人は信じている。不平等に目隠しをしてるだけじゃないかと僕は思ってしまう。

みんな不平等に文句を言ってるのに、神の下の平等という言葉には誰も反論しない。できない。宗教だから仕方ないのはわかるけど、だからこそその性質が好きになれない。

人は何故平等を求めるのだろう。ポリコレもそうだけど、それを求めれば求めるほどおかしくなると思う。「平等でなければいけない」という形で捉えるからより一層そうなるんだと思う。

等しいとは何が等しいのだろう。それぞれ別の人間なのだから、等しいはずがないと僕は思う。みんな同じという前提は気持ちが悪い

平等でないことを前提に、格差は減らしていこうとは考えられないのだろうか。

 

 

命とはなんだろう。

それがさも生きている人の中に在るようなイメージが植え付けられていると感じるけど、僕にはそれが合わない。生と死は良いのだけど。『命がある』、『命がない』というのがしっくりこない。

なんでもそうやって『ある』『ない』にしないといけないのだろうか。

 

漢字の命の語源を調べると「祝詞を唱えて祈りを捧げる人に、神のお告げとして天から与えられたもの」と出てきた。電波が悪くてリンクを貼ったりできないので、興味のある人は調べてみてください。

平等とは繋がるのかなぁ。繋げるとすると神と人間の関係は『神の下の平等』と大差がない一律の関係になるのだろうか。神は一人一人に対してではなく一律に、平等に命を与えるという考え方なのだろうか。

 

 

別のページでは日本の仏教界はいのちを意味するとき、『命』という漢字は用いないという説明が引用してあった。和言葉の『いのち』か『生命』という漢字を使うらしい。

和言葉の『いのち』には『息の道』『息の内』という意味が込められているらしい。これは僕の感覚には合うかもしれない。使い方にもよると思うけど。

 

生・死はすんなりイメージできる。状態、現象を意味しているからだと思う。

命は名詞だけど、僕は知覚することが出来ない。出来る人もいるのかもしれないけど。

でも知覚することが出来ない時点で僕の中では霊や魂と同じで、あるかも知れないし、ないかも知れないもの。それなのに命は市民権を得ている。存在するもののように扱われている。それがしっくりこない理由の一つかもしれない。

 

僕は自分の生に関して、ただ生きている、ただここに在るという感覚がある。それを当てはめるから他の生きものにも同じ感覚を当てはめている。だから結構ドライなのかもしれない。

生きているという表現、ただ存在しているのではだめなのだろうか。重い命がないといけないのだろうか。

 

 

重さ。

僕の中で重さを持っているのは、命ではなくて関係なのだろうと思う。それも重さというのは、その中で自分が架しているものであって、実際に重みがあるわけではない。重くなければいけないと自分のどこかが勝手に決めて、背負わなきゃいけないものとしている。

苦痛に喘ぐ存在は重いし、でも死体を見てもなんとも思わないし、知り合いなら死んだら重いかもしれないし、僕が殺したら重くなくてはいけない。そういうよくわからないもの。

だから命の重さと言われてもしっくりこない。

 

 

バーッと考えてみたけど、『命の重さに差があるのか』に対して僕が思うのは

「命というものがしっくりこないし、その重さとなるともっとわからないけど、差しかないと思う」

 

生や死に替えてみよう。「生の重さに差があるのか」「死の重さに差があるのか」

やっぱり重さには差があると思う。重さそのものも見る人によっても変わると思う。重さなんてないと言われてもそうだと思う。

『命』も『重さ』も『平等』も手垢まみれなんだろうな。気持ち悪いな。

それらを大切と言う人達が遠回しにそれらを奪うためにあるような言葉に感じてしまう。

 

どうしてこんなに捻くれてしまったんだろう。もっと素直に生きたい。

でも連想ゲーム楽しかった。

 

 

 

*今日は10kg弱のエイが刺し網に絡まった。いや、刺し網が絡まった。大きめの魚が絡まるよう『コの字』になるように網の上下を縛っていたので。鉈を置いてきてしまっていたので外すのにとても手こずった。仕方がないのでオールで押さえつけて素手で毒棘を折った。木に登れば落ちるイメージが浮かぶし、車を運転すれば事故るイメージが浮かぶ人間なので、今日もイメージの中で病院に運ばれた。幸い刺されなかったけど。

 

100kgになる大型の淡水エイなのでまだまだ小型。この数日おかずに恵まれなかったけど、自然の恵みへの感謝を感じる瞬間でした。本当に、自然と「川がくれたんだなぁ」と思った。クジラが浅瀬に迷い込んだときの我々の祖先もこんな気持ちだったに違いない。