『やられたらやり返す』、『やられっぱなしにしない』これらは僕にとって本当に難しい。『ノーと言うこと』もそれに近い。そしてこれが元でトラブルが舞い込んでくるのも知っている。
知っていることと出来ることは違う。
『人を傷つけてはいけない』、『自分が嫌だと思うことを人にしてはいけない』大人たちは先ずこれを突き付けてきた。これらは自分にとって分かり易いからか、前提になった。誰よりも傷つき易いから、傷つけることが良くないということはすぐに染み込んだ。後者も同じようなものだった。
そうなった時、『やられたらやり返す』は僕の中ではその前提をひっくり返すものになる。「やってきた相手なのだからやり返していい」、その割り切り方を僕は出来ない。痛みの感じ方が人によって違うことも僕にとっては前提だった。どうやり返せばフェアになるというのか。フェアにする必要がないと言われても、それでは何の為にやり返すのかが理解できない。相手に抵抗の意思を見せる為なのだろうが、それは僕にとって繋がるものではない。
DVを見て育ったのも大きいのだろう。いや、こっちが本丸かもしれない。
大切なものを傷つける暴力の恐ろしさ、抵抗の無意味さ。
後先考えないで行動して悩む人がいるが、僕はその逆だった。後先ばかり考えて何もできない。感情に任せて行動できれば楽かもしれないのに、すぐに色んなものが勝手に天秤にかかって、僕の行動を、感情を、気持ちを縛り付ける。
打算的な狐というか、そういう卑しさを感じていた。
優しいと言われても、温厚であると言われても、その言葉を受け入れるのが難しかったのは、自分の見る自分はそうではなかったからだと思う。
やったらまたやり返してくるだろうし、もし変なところに当たっちゃったら危ないし、体格の小さい自分がやり返すことのリスクは計り知れないし、一瞬その行動でスカッとするかもしれないにしても、その後に罪悪感で落ち込むことは分かりきっている。
相手より傷つき易い人間が内側の自分を通して傷ついた相手を見る時、相手以上に傷つくのは自分なのだから。
割り切れない性格の僕が相手と抗争状態になることも考えた。結局のところ、何より自分が傷つくのが怖かった。やり返したところで傷つく自分、落ち込む自分しか見えない。
(これらは勿論はっきりした言葉にはなっていなかった。ただ、そういう感覚があっただけ。)
その天秤は前提を持ち上げることはなかった。
前提はやがて、やり返さないことを美化し始める。特に幼い頃は、その一縷の正義は自分を維持するためには必要だったのだろう。思春期を過ぎる頃にはそんなものは意味がないことには気づいていた。でも前提は崩れなかった。
そうやって犠牲に回るようになる。結局それが自分にとってベターな選択だから。
逃げと言われようが何と言われようが、それを選ぶようになってしまう。自分にとっては合理的なんだもん。
そういう子がどのくらいいるのかはわからない。
でも犠牲の星の下に生まれたような子は、やはり犠牲を選んでしまうものだと思う。そこに外側の感覚で「やり返せ」と言っても、その子をサンドウィッチにするだけ。
外側の感覚ではなく、彼ら自身の感覚で納得がいく生存術を自分自身で見つけなくてはいけない。それは容易ではないし、辛い運命だと思う。でもそれしかない。
彼ら自分の感覚に生きる人間は、他者の感覚に根差した言葉に救われることはないのだから。
ヘイトの犠牲になる子は少し性質が違う。あれは性質がどうであれ関係ない部分がある。人(どちらも)を変えてしまう恐ろしいものに感じた。これの場合は親が出来ることは、引き離すしかないのかなぁと思う。親は現場を見るわけじゃないから難しいだろうけど。
人を変えるというよりは、人はそういうものなんだろうなぁとも思う。
高校の頃、一度だけ暴力の恐怖に負けて、命令通り傘の柄で年下のこの頭を殴ったことがある。その瞬間は今でも焼き付いていて、自分の掌を見ると思い出す。クリーンヒットしてぱっくり割れてしまっていた。赤かった。
彼は不良の下っ端として生きていたから、そんなのは慣れっこだったのだろう。怒らず、すぐに状況を察して責めることもしてこなかった。
責めてくれれば、やり返してくれればよかったのに。
ここまでやり返すことの無意味さを正当化しながら、自分の暴力にはやり返して欲しかったとか、もの凄い自分勝手だなと思う。矛
盾もここまでくると清々しい。呪われているのだろう。
今誰かに暴力を振られたらやり返すのだろうか。相手によるんだろうな。打算だから落ち込むんだろうな。反動でやり返せば正当化できるのだろうか。
前提は僕の中では薄れてきている。もっと違った、より陰湿な暴力が大人たちによって(子供たちの間でも)まかり通っているから。でも割り切れるものではない。染み込んでしまっている。自分の中で肉体的な暴力の像も変わってきている。でもやっぱり良いものではない。
結局は天秤。前提が持ち上がれば、それだけの正当性を得られる状況なら。
必要ないのが一番だけどね。
大人の世界の良い所は、関わらないという選択ができるという所でもあると思う。そうやってどんどん人々と距離を置いてしまうのだけど。