本来は生きることに意味なんてないのは分かる。
でも生きるだけでこんなに辛くて苦しいから意味が必要になってしまう。
それは作られた世の中ではいろんな意味が作られ、いろんなものに込められているからだろう。
それらの意味から自分を保つ為に自分なりの意味が必要になる。そんなものが必要なければ一番良いのに。
人として生まれ、生まれた時から様々な社会に組み込まれ、その中の意味や条件、ルールに縛られる。それらは本当に必要なのだろうか?ないと本当に社会が成り立たなくなるのだろうか。
意味や条件やルールは態度によっては暴力になり排斥を生む。勝手に組み込んだ人を勝手に排斥することが起きる。
この前死刑制度について考えていたことと同じで、社会はそれを黙認する。色々な社会問題がそうだと僕は感じる。
神経症や精神病の多くは置かれた環境が合わない等のストレスによって起きる。
ストレスはそれに起因する症状は警告信号であって、そうなったらその場を離れるのが動物。いや、人間であっても社会の在り方によってはそれは許されている。
それを個人の問題としてその場に縛ったままにするからおかしくなる。薬で押し込めてそのまま繋ぎとめられても、根本のストレスがなくならないなら疲弊するだけ。休職してもストレス源が会社という社会なら同じこと。転職してもストレス源がもう少し大きな社会なら同じこと。
個人のせいにされるから根本と向き合えない人が多い。
それは個人のせいなの?
問題なのは社会環境やそのスピードが合わない人がいることを無視し、犠牲が出ることを黙認している社会であって、その問題を直視しなきゃいけないのは成員の一人一人じゃないの?
税金を払ってそれで壊れた人は補助するから関わってる?その態度は嫌い。
自殺も他人事。幸せは人それぞれなのに、一部の価値観で日本は幸福だと思い込み、思い込ませ、自殺を個人の問題にすり替える。自分たちとは違ったと排斥し、一人一人の死に目を向けようともしない。
子供のいじめ自殺のケースなんかは目を向けるけど、それはセンセーショナルだから。死自体は見ようとしない。
犯人を探して吊るし上げようと、学校や教師やいじめた側の問題にする。そこに問題の一部があったとしても、これだけ一般的にある事象をそこだけの問題と捉えて目を逸らして、結局他人事で終わる。
条件は個人の在り方も否定する。ヒトとして持って生まれた才能が社会の中では病気として扱われる。
勝手に組み込んでおいて、社会活動に合わない部分は勝手に障害や病気と定義し、障害者や病人として扱う。
「障害だからしょうがないよ」「病気なんだ、大変だね」そうやって一見認めているような態度でそこに押し込まれたら、その中で頑張らなきゃいけなくなる。
居場所を与えて人を縛り付けて、ストックホルムシンドロームと同じ構造にしか見えない。居場所はね、本当に人を惑わせるから。
病人として、障害者として特徴や才能を押し込めて、時には薬まで使ってその中の人にならなければならないことも起きる。
でも社会はその人本人を認めない。そこに合わせようとする悲しい努力を、当然の義務としてそこしか見ていない。それも自分とは違う存在と線を引いて。
その無意味な努力や苦しみを見つめなければいけないのは、成員の一人一人でしょ。社会として個人に責任を強要するならね。
社会と関わることすらやめたくなる。だから外側から関わろうとするけど、それでも辛い。
関わり方が関わり方だから、自分の中でも矛盾が生まれてしまう。合わせるつもりがなくても、合わせなきゃいけない場所も出てくる。未来が見えない。
生きるだけなのに辛いから、生きる意味が必要になる。
でもそれすらよく分からなくなる。
前世とかよく分からないしあまり興味もないのだけど、もし前世があるとするなら相当な大罪人だったんだろうな。いっぱい殺してそう。
最近いろんな欲求が減っている。睡眠欲はあるのだけど。
健康的ではないなぁと思うけど、どうしたら不満を覚えずに生きられるだろう。
楽しいこと考えたいな。