感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

お金の難しさ 僕にとっての原罪

以前も書いたかもしれないけれど、僕はお金が絡むことがとても苦手です。

まずお金というものがよくわからない。

 

僕にとってお金は何かといわれれば一番しっくりくるのは対価だろう。

その対価という観点なら自分を納得させられることもあるが、でもそれが本当に対価という実感がない。

性格上悪い面ばかり見え、感じてしまうのも良くないのかもしれない。

 

でもお金がないと生活できない。選択肢が狭まることになる。

お金がない状態の人は選択肢が少ない。やりたいこともできなければ資格も取れない。その負のサイクルは代を越えて続くことになる。

お金がなくても幸せな人はいるとか、お金があっても不幸な人がいるとか、そういうことはどうでもいい。

スタート地点があまりにも違う。別世界の人として割り切る?でも同じ価値のお金を使って生活している。貧困者が不健康な食事の選択肢しかない人もいる一方でお金持ちは体にいい選択をすることが出来る。

 

 

僕が現代に生きる上での大きな問題の一つが、自分の抱える価値観に合わないものに参加することへの困難。

参加すること=参加を選択すること=認めること という感覚がある。それが生活そのものをものすごく困難にさせている。

僕にとっては価値観の合わないことばかりの世の中なので、生活するだけで価値観に反するものを選ばなければならなくなり、ストレスばかりになる。

 

お金もその中の一つだろう。金銭自体が実際に対価として存在し、僕の価値基準に合うものであれば困難はないと思う。でも現代社会においては金銭は僕の価値観に相反するものを生み続ける大きな機械の重要な歯車としての役割をお金が担っている。いくら子供時代からお金を使うことに慣れ親しんでいたとしても、得体のしれないそのお金というものを使うことでその構造に組み込まれることを容認するというのはとても抵抗がある。

 

ただでさえそんな価値観なのに、僕はDV常習の元父親が金の為に家族、特に母を苦しめるのを見て育った。

僕は高校時代、ヤクザ見習いグループにアルバイトをさせられ、その労働対価を全て持っていかれていた時期もあった。

彼らの支配下にあった頃、忙しい母が弁当を作れず昼食代を渡してくれた時は、昼食を食べられないことを意味していた。必死に小銭を少しだけ隠して、呼び出しと呼び出しの隙を見て駄菓子を買って食べたりもした。

 

お金と僕はそういう関係だった。直視したくないけれど必要なもの。

直視しなくていいだけ恵まれた家庭だったのかもしれない。でも、目を逸らしつづけたことがずっと尾を引いている。

 

その状態から解放されても、価値観は僕に根差したままだ。その価値観のまま世界を見て知識を集めれば、嫌悪感はさらに増すことになった。

 

お金と僕の関係は原罪というのに相応しい状態になった。

その罪は僕に償えるものでも誰かが赦してくれるものでもない。

どうやって割り切ればいいのだろうか。

 

 

生活の中でお金は使うが、より困難な瞬間は知人や友人とお金をやり取りする時だろう。先日の割り勘の時もそうだった。

僕にとっては単なる対価でも、人によってお金に対する価値観が違う。それがとても困難。

きっちり公平に分けようとすれば場の空気を乱すかもしれない。

今まで生きてきた中で一番手っ取り早いのは、自分が金銭的に損をすることで場の空気を保つことだった。

少しの額だし、お金なんてって考えればどうという事でもなかった。

 

相手に損をさせたくないから、場の空気を保ちたいからという勘定をしてしまう。仕事と給料も似たようなもので、ストイックに求めていけない為にどんどん自分が追い込まれていく。

お金なんてどうでもいい?でも必要なものだ。

 

損を買って出るのは、結局は自分のどこかに損得勘定があるからだろう。目を逸らしていても、積り積もる内に『対価』という意味が頭をよぎった時に自分のしてきた行動が分からなくなる。

損得ではないと思っていても、その時の感情次第で思考が色んな方向に引っ張られる。

色んな基準で、色んな尺度で、いろんな角度で見えてくる。そんな時やはり『対価』という意味がある以上、損得は目に映ってしまうものだ。

お金に価値を感じるつもりがなくても、『対価』という意味があり、労働者によってその対価が異なる現実があるのなら、人の価値がお金で測られている部分もあるという事だ。

どんなに認めないようにしても、それは目に映る。そして寧ろ目を逸らしている部分を中心に現実は回っていて、自分がその構造の中に居ることに苦しむ。

 

 

お金のやり取りに対して同じような『難しさ』を共有する友達がいる。

昨日半年ぶりに合うことが出来、とても楽しかった。その人はやはり敏感で、割り勘の時の僕の行動を見抜いていた。

今朝、その差額としていくらか僕に差し出してくれようとした。でも受け取ることが出来なかった。

額は関係ない、気持ちのこもったオファーだった。でもやはり受け取れなかった。僕が受け取れなかったことで気分を害していないだろうか。気持ちを無下にしてしまったのだろうか。

結局は自分の中にダブルスタンダードがある。差し出すのに受け取れない。傲慢ではないか。

 

遠慮、気持ち、心遣い、気遣い、なぜお金が人の行動だけでなく内面にまで踏み込んでくるのだろう。何故ドライになれないの?

なぜちっぽけなお金なんかの為に気持ちまで巻き込まなければいけないのだろうか。

 

お金が必要不可欠だというだけでなく、お金が可能性であることもわかる。お金で救われる人がいるのも分かる。

でも別の面もある。別の角度もある。その延長もある。

使う人の問題なのだろうか。回す人の問題なのだろうか。お金に関し、どこかで働く意思が、どこかで僕の内側と合わない。その意思に飲み込まれるのが怖い。

 

お金に良い側面があっても、それを認めることは僕にとっては難しい。

この罪はどう洗い流せばいいのだろう。いつ解放されるのだろうか。


 

これを書いた後、今日は久々に瞑想をした。瞑想はやってる最中は落ち着くし好きなのだけど、色々とコントロールが効かなくなることがある。よくあるのだけど、今日は悲しさ、寂しさ、切なさ、そういったものでいっぱいになり、息が詰まって涙が出るので途中でやめてしまった。ざわざわが収まらない。