感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

金銭と自分の関係 関係の再定義 認識の整理

「皆を幸せにしたかったらリーダーになるな、アイスクリームを売れ」と言った人が居るらしい。

でもそれはアイスクリームを買えない人を無視しているのではないか。皆を幸せにする、喜ばせることが目的でアイスクリームを売るなら、買えない人には僕が奢らなきゃいけない。それで気づけば何故か自分だけが損をしていて、結局何をしているのかわからなくなってしまう。いつものパターン。

僕は何事もプロフェッショナルになるには弱すぎるのだろう。

 

それで僕以外のみんなが幸せになるなら耐える意味もあるかもしれないけど、なるわけがない。

だから僕は皆を幸せにしたいけどアイスクリームは売りたくない。

思考が捻くれてるのは教訓に学んだせい。でも結局いつも同じ轍を踏む。何故だろう。

 まぁでもこの人が言いたいのは、その覚悟がないなら「リーダーになるな」って部分なんだというのは分かる。だから僕はリーダーにもならないし、なる度量がない。

金銭の重みもやはり相対的なものだ。案外お金のない人の方が後先考えずに物を買って行ったりするものだけど、だからといってそこを食い物にするのは気が引けてしまう。

お金持ちをターゲットにすればいいという問題でもない。例え主要客層を絞ったとしても、売るというオープンな場であるなら、その心構えは誠実さに欠くと思う。

 

自分自身で金銭に関しての考え方が明らかにズレていることは感じる。多少学んでみたこともあったけど、やはり僕には合わなかった。金に負の感情が付きまとい易いことをずっと気にしていて、直そうとしたこともあった。しかし掘り下げてみてもやはり必要性には至らなかった。

どうしても僕には、実体のないものの為に格差が生まれ、人が傷ついている方が先に見えてしまう。そこに負の感情が湧くのは僕にとっては当然なことだった。事実として色んな側面があり、人は自分の見方で見て、捉え、感じ、考え、反映している。僕という人間は金銭に対してあまり比重が置けないというだけの話だ。

 

金銭は力だというが、あれば欲しいとは思っても、そこまでして求める姿勢にはなれない。そもそも求めるものが違うのだから、その力で手に入らないものを求める人生ならその力を持つ意味がない。最低限あればいい。

同じことをするにも力があった方が有利に、効率的にことを運べるというが、そもそもその有利や効率的という生き方が僕のものではない。

 

そのお金を使って人を助ければいいと言うが、僕はそもそもマッチポンプをするくらいなら離れた方がいいという生き方の人間のようだ。

何事もそうなのだけど、僕は僕が関わる事でその嫌いな物事を必要悪だと存在を肯定する姿勢になることへの嫌悪感が強い。かなり遠い抽象的な繋がりも避けてしまう傾向がある。そして主観なので他人に理由が説明できない。

 

離れた方が楽だから逃げてるんでしょ?って言われたらどうだろう。多分「何故苦しむことを前提にしなきゃいけないのか。なぜ逃げるのが悪いというスタンスなのか。」と答えると思う。実際は通じないのは分かっているので、心の中にしまって口に出すことはないのだろうけど。

苦しみがその対象から尺度まで人によって違うこと、耐性も人によって違うことは考慮されるべきだろう。そこに身を置くことの意味も。

 

 

僕にとって金銭は所詮対価としか感じることが出来ない。ならば対価としていかに適正に受け取り、付き合っていくかを考える方が自分には合う。必要な分の金銭を対価として得られる分の仕事なりなんなりしよう。くらいの考え方が丁度いい。

そうすれば苦痛な労働に相応の対価を要求する正当性を自分に与えられるし、それが守られない、望めない場合はその関係を断つことを自分の中で正当化することもできる。逆に必要のない対価(金銭以外で十分受けていると感じられる場合)なら受け取らないという選択肢もできる。僕の心にとってはそのフレキシブルさがヘルシーだろう。

 

プロフェッショナルになるには弱すぎると思っていたが、自分なりに関係を定義しなおすとプロフェッショナルに生きられればその方が楽かもしれないという気もしてくる。認識は面白い。

 

金銭に対して、肯定的にも否定的にもいろんな世の中の価値観が刷り込まれている。そこに感じる違和感はその世間の価値観のどれかと自分の価値観のどれかの摩擦なのだろう。世の中の価値観なんていうのは所詮誰か他人のものだろう。それが合わないのはある意味で当然だし、そこに合わせなきゃいけないという圧力は勘違いの上の暴力だと思う。

色々な『べきだ』『本当は~だ』『~でなければならない』色んな押し付けワードとそれを囲う人がいるけれど、それとどう付き合うかは結局自分とそれらの関係の在り方、それだけだと思う。そう思えば無意識の圧力や関係ない人による批判も的外れに感じることが出来る。

 

そもそもは、一般的な考え方に自分を合わせようとするから違和感ばかりになるんだと思う。そういった部分が世間一般とはズレていることを前提に、自己も否定せずに生きるならば、自分が感じる違和感を目印に、その物事が自分にとってどういうものであるかを再定義する必要があると思う。そこから自分なりのその物事との付き合い、関係の在り方を見つけるしかない。しかしそれによってのみ、気づかぬうちに背負うことになった錘を捨てることができ、余計な鎖を断つことが出来ると思う。

他人の考えを背負って生きていれば、おかしくなる人がいてもそれは自然なことだろう。その人にとって不自然なものを知らぬ間に背負ってしまっているのだから。余計なものを捨て

て自分に必要なものだけ背負い直せば自然な関係になると思う。

 

「アイスクリームを売って人を幸せにできる人と出来ない人がいる」

「アイスクリームを売って人を幸せにする生き方ができる人と出来ない人がいる」

「アイスクリームを売ることが人の幸せに繋がると考える人と繋がらないと考える人がいる」

「アイスクリームを売ることがある人の不幸に繋がると考える人と考えない人がいる」

「アイスクリームは売り買いするものではない、作るものだ!と考える人と考えない人がいる」

色んな2極で考えることもできるし、それぞれやその複合を傾向軸で考えることもできる。3次元で位置関係を整理しても面白い。ならそれぞれの捉え方や生き方でいいじゃん。に帰結する。

 

 

Taylor Swiftの新しい曲、"You Need To Calm Down"が気に入った。
色んな性の権利がテーマだけど、取り敢えず価値観を押し付けてくる人には

oh-oh, oh-oh, oh-oh, oh-oh, oh-oh

You need to calm down, you're being too loud

 って言ってやりたい。このフレーズ結構万能だと思う。


Taylor Swift - You Need To Calm Down