感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

芸能人さんのヴィーガン時事問題 思想と大衆 (ミニマリズムへの違和感2)

ネット上ではある芸能人さんがヴィーガン食を勧めておいて肉を食べたと話題になっている。

でも僕からすればこの人の言ってることは別にズレていないし、目的のために型に嵌らずに思想を自分なりに取り込む、完全でなくても実践する姿勢と言うのはとても共感が持てる。

そもそも、なぜ批判する人の前提は思想の中に入り、規範に従い、完璧に実践する事なのだろう。ある意味で自分の捉え方を無意識に反映しているようにも見える。僕も枠にフィットしたくないという自分の価値観を反映しているので、お互い様だけど。でも思想に関して言えば、意味や目的に学ぶ姿勢は評価されるべきだと思う。

 

僕がこういったヴィーガニズムやミニマリズムといった大衆的な思想があまり好きになれないのは、宗教やある種の科学が好きになれないのと同じ。結局枠にはまる事、その中の規範行動の実践が本来の目的と入れ変わってしまうように見えるから。完全に僕の偏見だけど、本来の目的がずれることで、『群れの中の自分を肯定する為』になってしまう人が多いように見える。

感化されることで自らをistと定義するのだから、そこに主体性は感じない。学ぶのではなく集団の一部となることに目的のウェイトが置かれる。

 

ミニマリズムへの違和感1とかそんなタイトルの記事を書いて、2は放置してあるのだけど、そこに書きたかったのがこれだった。でもちょっと否定が強いかなぁと思ってお蔵入りしていた。

 

『群れの中の自分を肯定する』ことが中心であれば、それは結局『異質への攻撃性』に変わる。外側ではその枠に入ってない人に対して攻撃的に押し付ける形になり、布教と同時に宗教戦争を始めるし、こういったその人達の定義からするとズレた人も攻撃の対象になり、内側では宗教裁判が始まる。自己顕示欲が高まれば仲間内でも妬み恨みで刺々し始める。そしてそれは避けられないもののように見える。

 

規範行動の実践には報告も入る。そうすることで行動した自己を示し、肯定するものなのだと思う。そういうものなのだと思うから、別にその人達の行動にケチをつけるつもりはないのだけど、やっぱり外から見ると「その報告要るのかな?」というものが多い。それ自体はその人の想いだから別に良いのだけど、その報告行動によってその思想自体が誤解を受けるという事がいつも起きる。それはやっぱり作った人の想いに対して僕は可哀想だなぁとは思う。

 

でも、何事もその原理で動いているように感じる。本来の目的をもって始めた人達の描いた目的は、一般的な大衆の人々を取り込む過程で形骸化され、想いは踏み躙られる。勿論これも作った人がそう言ってるわけじゃないので、僕の勝手な偏見だけど。

 

ただ、そこにつけ込むのがカルトであったり、~商法であるのは間違いではないと思う。彼らは集団の行動原理をうまく利用している。乗せられる方はその行動によりその枠の中の自分を認めることが出来るので、外から見れば損しているように見えても、本人は幸せな状態にある。ある意味でwin - winかもしれない。だからやっていることは酷くても僕は一概には責められないとも思う。理論や事実、正しさだけでは辛すぎるから。世の中は難しい。

 

 

ヴィーガニズムというのはベジタリアニズムより細分化された位置にあるので、定義がより細かいという事は分かる。広義なものより狭義なものの方が許容範囲が狭くなるように思う。もしかしたらこの人はヴィーガン料理ではなくベジタリアン料理を名乗っておけば状態はマシだったのかもしれない。ヴィーガンは今は激流に見える。随伴する考えは悪くはないと僕は思うけど、やっぱり激流は危険。

ただ、ベジタリアン界隈に存在する思いというものと、ヴィーガニズム界隈に存在する思いと言うものは別であるだろうし、単純にそれだけで語ることもできないだろう。

 

枠や仲間を求める人、目的に共感する人、行動を通し学びたい人、思想を学び掘り下げたい人。社会と同じで、許容範囲が広く色々な存在が認められた方が長続きすると思うのだけど。凝り固まった規範以外を認めない人達に限って鞍替えが早いものだから。それが悪いというわけでもないし、そういうもの。でも理解されないうちに弄ばれ、捨てられる思想は可哀想だとは思う。人の想いなのに。

 

この人も可哀想。自分の感性で「良さそう!」と思って、それを自分なりに実践しながら伝えただけなのに、宗教が宗教足る現実によって双方(ヴィーガン教と反ヴィーガン教と言う名のヴィーガンに反感を持つ一般大衆)から叩かれてしまう。その現実はそういったその人本来の良さを奪ってしまう。それはこの社会で、本当によく目にする辛いものだ。

この人のスタンスは、健全でより許容範囲の広い世界であるならば、双方にとって歓迎されることだろう。自分なりに学び、自分なりに伝える。本来社会の中で必要な作用なはず。でも凝り固まった枠の中ではそのスタンスは、規範的ではない、中途半端だと否定される。それを否定することで自分たちの首を絞めているのに。

 

だから僕は流行には乗りたくないし、思想についても枠に嵌ることはしたくない。僕の中にある思想についての嫌悪感も、結局思想ではなくそれを囲う人たちにあるのだなぁというのを再実感した。無意識に人を傷つけるのは、無意識であるからこそ質が悪い。僕もそういう所があるんだろうけど、だからこそお互い直していけたらいいね。

 

全て僕の主観なので悪しからず。

 

 

そういえば最近『ツァラトゥストラかく語りき(河出文庫)』を少しづつ読んでみてる。

ニーチェという人もとても自分自身の内側で苦労したんだろうなぁというのが1/5読んだところの感想。この人の比喩はイメージがし易いのでとても読み易い。性質が似ている部分があるのだろうか、それによる内的な体験の共有なのかなぁと思う。色々とこの人に行きついていた理由が何となく分かってきた気がする。

この人の群れに対する感情はかなり強いけど、きっと自分の経験や知人が傷つけられる経験から、それを教訓として自分と同じ感覚の人を励ますために敢えてそう書いてるのかなぁとも思った。1/5しか読んでないのに適当なこと言っちゃいけないけど。でも多分優しい人だと思う。

 

その中で『徳』について

“だが見よ。君が名をつければ、それを群集と共有することになる。そしておのれ自身の徳を持ちながら、群衆や畜群になってしまう。“

この部分が今回の件を見た時に頭に浮かんだ。

僕は徳を共有することでその人自身が群衆や畜群と呼ばれる存在になるわけではないとは思うけど、やっぱりそれは色々と辛いことを引き起こすという点では共感できる。

辛い世の中だなぁと思う。

 

でも僕はその群衆と呼ばれる人々にも役割があるのだと思う。社会を安定させるのも、効率化を進めるのも、熱で変化の主体となるのも、その人達あってのことだと思う。

ただ、多数決の原理を振りかざして無意識に人を傷つけるのは良くないし、あまりに同質化ばかり優先するのは良くないと思う。それだけなのです。

 

疲れた。お散歩行ってこよう。