感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

未知の世界の喪失 夢と希望

夢も希望もない。しょっちゅうそんな思いに駆られます。

 

世の中にはいろんな人が居るけれど、夢や希望を自分の所属する何かに見出せる人が羨ましいと感じる時がある。夢や希望なんて必要ないという事のできる人も羨ましい。そういう生き方ができるという事なのだから。

「思い描く未来の為に~」っていうことを言う人もいるけど、それは僕にあう考え方ではない。僕の思い描く未来は現実とはかけ離れて実現不可能だと自分でもわかっているのだから。

僕はそういうのはやっぱり無理。見出せたとしても「やるべきこと」であって、それを夢や希望にして生きることは出来そうにない。

 

 

はっきり言葉にするのが難しいのだけれど、もう少しこう、未知の世界(場所)が欲しい。それが有るか無いかではなく、あるかもしれないという希望が欲しい。

桃源郷でもいいし、地底世界でもいいし、誰も知らないところ。未知だから夢が描けるし、それが希望にもなると思う。

実際行くかとか、そこが住み易いかとか、そういうことはどうでもいい。『行けるかも』と思えれば心の拠り所になる。

 

ファクトがどうこうとか現実はどうこうとか、そればっかりだと僕にとっては夢も希望もなくなってしまう。世界は探索されつくしてしまったし、溢れる情報のせいで他の国に希望を持つこともできない。

月や火星は人が住む環境ではないという事実が先行してしまったので、例え植民計画があってもそこに僕の希望は見だせないし。

 

結局寝てる時の夢の世界がどこかに繋がっているのではないかとか、パラレルワールドを想像したり、スターゲイトのように他の文明のある惑星を想像したり、友好的なエイリアンに連れて行ってもらうとか、アトランティスがどうのこうのとか、あるいはマッドマックス的な文明の破綻した世界を想像するとか、そういう方向になってしまう。でもそれは妄想であって、頑張れば夢にはなるかも知れないけれど、希望にはならない。

もっとこう、手の届きそうな未知の世界でないと難しい。でも手の届きそうな未知は既知にされてしまった。

 

ほんの150年ほど前まではそんな未知の場所を誰でも描くことが出来た。

ヒトが移民として生息域を広げてきたように、未知の世界に夢や希望を思い描く人がいるのは、そうでない人がいるのと同じく自然なことだろう。

でも今の、ある種の人達にとっての『現実』『事実』『正しさ』『論理』『客観性』なんかが重視される世の中では、非現実的な夢をみることも許してもらえない。ヒューマンネイチャーだと思うのだけど。

映画『モアナ』で彼女の祖先たちが冒険航海をしながら新しい島を見つけ、村を築き、その繰り返しで広がっていったのは、太平洋諸島だけでなく人類の歴史そのものだと思う。衝き動かされるのにも理由があるように、その未知そのものが希望でもあったのだろうと思う。

 

でも現代にはもう未知の場所、探検・冒険の行く宛てがない。すべての場所が境界線で囲まれてしまった。衝き動かされても生き辛くなるだけ。そういう意味で夢も希望もない。

だから人には物語りが必要だし、アニメやゲーム、インターネットの世界も必要なのだと思う。一神教的な死後の世界もそうなのかな。それらが好きな全ての人がそうとは言わないけど、一部の人にとってはそうだと思う。希望にはならなくても、心の拠り所として。

現実や事実に生きる人たち、それが多数の社会は、人が縋るそういうものまで否定しようとするから更に夢も希望も無くなる。同じプラクティカルな世界に住んでいても、根っからのプラクティカルな人と、そうじゃない人が居ること、その違いが自然なものであることは理解すべきだろう。

それさえなくなれば、例えその先が分からなくても、窮屈で生き辛い生からの『解放』を求めるしかなくなってしまう。それはある意味で自然な本能の成れの果てなのだから。そしてそれが解放であるという側面がある以上、僕はそれを否定することができない。

 

 

さぁ文章がいよいよ怪しい流れになってまいりました!元気がないと文に出ますね。

また明晰夢の練習でもしてみようかなぁ。でもいつも変な夢見るんだよなぁ…。