感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

海 自然と心

今日は日曜朝市で買い物をした後、海に行きました。

 

晴天の下、ココヤシの生える白い砂浜の先に広がる空より青い海。

海に来るととても落ち着く。自分という存在が海の一部として存在することを認識するのだろう。「ただ生きているんだなぁ」という感覚。ジャングルに居る時と同じ感覚だ。

僕の感じる『生きている』という感覚は安心感や解放感、心地よさだけでは成り立たない。やはりどこかで、広大な自然と自分の中での『自分の小ささ』、『取るにたらなさ』、『抗えないくらい弱いものだ』ということを身体が感じないといけないらしい。

説明できないような恐怖感が入り混じった安心感。それがあって初めて『生きている』と感じることができる気がする。公園にはそれがないから本当の意味でリラックスができないのだろう。

どこからか流れる風、時間をかけ砂浜を形作ってきた砂、転がる貝殻や珊瑚の欠片、流れるコウイカの骨は、時間の中でさえ僕らが他愛のない存在だという事を知らしめてくれる。ジャングルで川や木に時間の流れを感じるのと同じだ。「自分は今この一瞬に存在しているだけなのだ」と。そこに恐怖感と安堵感を感じる。

 

例えようもない自然の雄大さと恐ろしさ。それは僕が小さな頃から魅かれていたものだった。自然の中ではいつも想像の外を行くことが起きる。波に攫われかけたり、川に流されかけたり、想定しない生き物と出遭ったり、釣りをしていて海から雷の電流を感じたり、突風に飛ばされかけたり、倒木に潰されかけたり。

それでもそこに『生きている』という事を感じるのは、そこに僕らの祖先が生きてきた環境があるからだろう。自然と隔絶した生き方に多くの人が疑問も感じなくなったのは、西洋思想が入った後の、つい最近のことだろう。

 

環境教育に大事なのは自然への『畏敬の念』だという事を昔環境の授業で習った。今感じるのは、その畏敬の念は本来学ぶものではなく、自然と触れ合いながら、伝統文化の中で育つことによって自ずと感じるようになっていくものなのだと思う。神話や妖怪、常に人は自然の中にあった。それは日本でも、この国でも、恐らく世界中どこでも変わらなかった。

 

ここ100年ちょっと(場所によって期間の違いはあるが歴史に比べれば些細な期間)、その前提は崩れた。人と自然の関係は全く違うものになってしまった。それが良い悪いの話をするつもりはないけれど、やはり僕らの心は、恐ろしくも雄大な自然の中にあるのだと思う。多くの人の心が自然を忘れ、心が完全に都市生活に適応するには、数百、数千年単位が必要なのではないかと思う。人は自然を服従させたと思っていたとしても、人の心は自然に服従しているのではないだろうか。

 

美しく、広大で恐ろしい海を前にして、そんなことを思う日曜日でした。