感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

虐待・育児放棄 ヒト、人間と社会

虐待や育児放棄のニュースを見るたびに思うことがある。

僕自身は虐待に遭って育ったわけではないのだけど、色々な意見を見ていると凄く落ち込んでしまう。

 

個別の件に関しては書かないけれど、多くの場合は母親ばかりが責められる問題だとは思えない。子供に暴力を振るう、育児を全うしないというのは倫理的には許されない問題。それは分かる。

でも多くの動物、僕が昔飼っていたウサギも、ハムスターも、弟が飼っていたインコも、過度にストレスを受け、その環境下で育児ができないと本能的に判断すればその時点で育児を放棄するか、子供や卵を食べてしまうものだった。それは子孫繁栄というミッションを持った動物にとっては当然のことで、そうすることで母体を守り、次のチャンスに備える。より魅力的なオスと出会ったとしても、養育中(人間の場合授乳中が当てはまるのかな)であれば追い返すのが普通。子供がある程度大きくなれば別の遺伝子を持った子供を求めることも多いだろうが、それでも双方を自分の子として育てるものだろう。でもこれは話がずれるのでここまで。

ではどうすれば動物は育児をしてくれるのか。簡単なことで、より環境を自然に近づけ、人の接近を控え、ストレスを可能な限り減らしてあげることだ。

 

人間が完全に同じかと言えばそれは違うと思う。社会性を持った時点でその社会環境にも適応しているので、育児体系も国によって違いが出てくる。例えば乳児期が過ぎた後、親が忙しくても家族やコミュニティが共同で子供の面倒を見ることで成り立つ場所も多い。

 

特に日本の場合、虐待や育児放棄に繋がっているのは結局ストレス反応なように思う。そうなれば異常なのは母親個人ではなく、母親が置かれている環境なのではないか。これは結局母親の置かれている社会そのものがヒトという生き物として見た場合に異常であって、そこに矛盾が生じているんだと思う。

ではもしこれが正しい場合、それでも母親ばかりを責められるのだろうか。育児に苦しみ、子を失い、社会的に制裁を受けるという三重苦に僕には見えてしまう。罰を与える側の社会はどれだけのことを母親にしてあげられたのか。倫理に反しているのは母親なのか、社会なのか。性格の違いで見える部分が違うのもわかるけど、この国はあまりに凝り固まってるように思う。

 

父親の問題も大きいだろうけど、そこだけ見ても仕方ないと思う。結局は核家族化、賃金労働者化によってすべてが核家族に丸投げになってるのが良くないと感じる。僕がいる国の村でも育児放棄が全く起きないわけではない。しかし大家族、コミュニティが機能しているので受け皿はいくらでもある。

そもそも人間の子育ては父母だけでするものなのか。しかも現代社会の賃金労働というのは現代人にとっては自然なものでも、動物としてみれば極めて不自然な、不安定な状態にあるのではないかと思う。

食べ物一つ例にしても、採ってくる術はなく、お金を稼いでそれで買わなければいけない。それはお金という間接的なものの為に働かなければいけないという、頭には理解できても心には理解が難しいことが起きる。度を越えれば適応にも限界があると思う。

親はこの不自然な社会で子供を『普通の大人』にするために働かなければいけない。その為にはお金がかかる。1000万年以上ヒトの形をしている中で、ここまで本来の子育て環境から離れてしまったのはここ数十年のことだろう。頭ではわかっていても心は追いつけないのではないだろうか。それは結局、どこかで少子化にも繋がる話だと思う。

 

こういった問題の多くは、結局はヒトの在り方を無視し過ぎた社会システム上のエラーだと思う。社会社会というけれど、その前に1人の人間であって、1匹の動物だろう。

人間だけ他の動物とそんなに違うのだろうか。僕にはそうは思えない。もしそんなに賢ければすべての問題はクリアできているでしょう。

いつまでストレス社会という言葉で誤魔化し続けるつもりなのだろう?社会にとって異常な出来事は、社会がヒトにとって異常だから起きているとは思えないのだろうか。それを認識しないと何も変わらないと思う。もちろん個人の感想ですけど。

 

もう少し人をヒトとして見てあげられれば、優しくなれると思うのです。