感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

時間の中の点

時間の流れは不思議だ。

小学校低学年の頃から、『次の瞬間自分がお爺さんになっていて、「あんなことがあったなぁ」と、今(子供の頃)の自分を回想しているのではないか。』という恐怖があった。実際にその瞬間の映像が頭を過ぎり、間の時間をスキップするような恐怖を感じていた。

でもそんな恐怖とは裏腹に、色々な記憶が積み重なって今に至る。徐々に時間を積み重ねている感覚はある。

 

でもふとした瞬間、自分の過去を振り返っている自分が居る。その自分の過去の記憶と現在の意識はやはり『点と点』だ。間に経験した記憶は挟んでいない。それに気づいた瞬間あの恐怖が蘇り、同じイメージが頭に浮かぶ。幸い人生経験があるからか、生への執着も減ったようで、恐怖は長続きはしなくなった。ただもしその瞬間が来た時に、「やはりハッとするんだろうな。その瞬間どんなことを想い、どんな気持ちになるのだろう。」と考えると、やはり時間の存在に対する自分の存在の儚さに、例えようもない気分になる。

 

30歳手前を境に、急激に一日が短く感じるようになった。体感時間は大人になるとどんどん短くなるそうだが、人によってどのくらいの差があるのだろう。僕はもう小学生の時のように、一日の長さに退屈することもできなくなった。このまま僕の時間はどんどん加速するのだろうか。

 

頭に浮かぶ、お爺さんになった時のイメージはいつも同じだ。椅子に座ってぼーっと考え事をしてる。そのイメージがもしビジョンのようなものであるならば、そのイメージが頭に浮かんだ瞬間、僕は未来と点と点の関係なのだろうか。その答えはきっと、お爺さんになればわかるのだろう。答えが出るのは死期の近くで、その瞬間ハッと何かに気づく気がする。

 

イメージに浮かぶお爺さんになった時、お爺さんの僕は幸せなのだろうか。それはきっと、『幸せな点がいくつできるか』によるのだろう。線は積み重なり現在の点に繋がるが、記憶を辿るときに重要なのは点なのだ。

その幸せな点は既定のものなのか、増やせるのか。それも一つの課題である。増やせると思いたいな。でももし既定だとして、それが事前に分かるのであれば、もっと楽に生きられるかもしれないとも思った。

 

止まらなくなるのでおしまい。