感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

「他人の痛みを分かるようになりましょう」

「他人の痛みを分かるようになりましょう」「他人の気持ちを分かるようになりましょう」 そういうことを言う教師がいました。

でもそもそも、他人の痛みや気持ちは分かるのでしょうか。僕はそうは思わない。

 

痛みは他の感覚と同じで、その人による感じ方があると思う。それは物理的な痛みも精神的な痛みも同じ。

同じ強さで殴られた痛みであっても感じ方は人それぞれだ。その時に発生する感情やその強度も人それぞれであるし、その後の経過も人それぞれだ。そもそも同じ人間ですら、その時の状態によって違うのだから。気持ちも概ね同じだと思う。

これは僕にとっては前提であった。

 

でも世の中の多くの人にとってはそうではないらしい。

生きているだけでいろんな強制や強要に遭う。

 

「他人の痛みを分かるようになりましょう」 互いの感じ方の違いに気づかぬまま教えるには、とても危険な言葉ではないだろうか。推し量ることは大事だが、分かると断定してしまえるのであれば勝手な思い込みだろう。

 

僕は他人の感情に敏感な方だ。痛がってる人を見れば痛みを感じることがあるし、苦しんでる人を見れば辛い気持ちになることが多い。でも決してその人の痛みや苦しみがわかるとは言えない。分かるはずがないのだから。

『共感』は科学的に証明されているようだ。でも決して相手の痛みを同じように感じているわけではなく、自分なりに感じているのだという事は理解しておいた方がいいと思う。

 

痛みを感じ易い人、落ち込み易い人にはそういった部分を理解している人が多いと感じる。そんな人たちにとって落ち込んでいた時に受ける「分かるよ」という強制力を秘めた言葉は、彼らにとって余計なお世話であるばかりでなく、何となくその二人を繋いでいた信頼すら破壊してしまう程の威力のあるものだと思う。「やっぱり分かっていなかったんだ」と。

本当に共感できるのであれば、落ち込んでいる人が求めているものが強制性を持った言葉や感情ではないことも理解できるはずだろう。

例え本当の意味で、本当に相手の痛みや気持ちが分かったとしても、それを口にしていい理由にはならない。望まれていない言葉は口にした時点で自己満足なのだから。 

想いを寄せながらも、相手自身の感じ方を尊重し、理解を示すことに留めるのが肝要だと思う。

『共感』は「同じものを共に、同じように感じること」ではなく、「同じものに対して、同じ方向で共に、しかしそれぞれ感じること」だと思うのだ。

 

「他人の痛みを分かるようになりましょう」 この世界にはこういった同質性を根幹とした言葉が蔓延っている。言葉に籠められた想いと逆のことが起こるのも当然だろう。断定してしまったその言葉は同質の人だけに有効で、それ以外の人にとっては暴力なのだから。

違いに無自覚であるがゆえに優しい顔をした暴力が蔓延る。狂気の沙汰だが世の中そのものであると思う。でも多くの人にとっては無自覚で問題なく暮らせるのだ。だから狂気も痛みも繰り返すのだろう。

 

皆が色んな違いを認識しない限り、優しい世界には近づかないと思う。そんなことを思う週末でした。