感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

雨が降りそう。

 

僕は雨が好き。

雨は籠っていた空気を押し出し、空の新鮮な空気を運んできてくれる。特に熱帯の雨は一気に空気を冷やしてくれ、日中でもとても過ごしやすくなる。雨は外に行かない口実を与えてくれ、感じる必要がないけど感じてしまう罪悪感に囚われず、より気持ちよく過ごすことが出来る。

 

僕は雨上がりも好き。

雨は全てを洗い流してくれる。泥や汚れ、埃もそうだし、その空間に残った残り香や、念の様なものさえも。すべてをリセットしてくれると共に、沢山の生き物にとっては恵みでもある。

雨上がりの清々しさはそういったものの気配を身体が感じているのだろう。

 

でも僕は大雨は嫌い。

大雨の度に言いようのない恐怖に襲われる。それは頭で考える恐怖とは違い、身体が直接的に感じ・訴える言いようのない本能的な恐怖だ。振り返ると何かいるような感覚。シャンプーをしている時の恐怖と同じだ。

恐らく、雨音に包まれると全ての音が打ち消され、匂いが届く距離も短くなり、屋外では視界も遮られ、濡れれば触覚も麻痺し、自分のパッシブな警戒センサーである感覚達が十分に働けなくなり、安全を認識できなくなるからであろう。

大雨の時は自分がもの凄く小さく、無力に感じる。そんな時に見るストロボのような雷の閃光や、皮膚から心の底までも揺るがす程の雷鳴は、過剰な刺激でしかない。出来るのは音楽を聴いて気を紛らわすことだけだ。

この感覚は恐らく、人間が狩られる側だった時の名残なのだろう。その恐怖はホラー映画の中で狩られる人間として描かれていることが多い。きっと多くの人が感じることが出来る感覚で、見方を変えれば祖先から受け継ぎ、共有している感覚なのだろう。

 

世代や時間を越えて旅をする恐怖という感覚。そんなことに想いを馳せているうちに雨が止んだ。今夜は清々しい散歩が出来そうです。