感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

現実 から 二元と力み 眺める Chad Lawson "breathe"

現実は非現実の中にあって非現実は現実の中にある。であるならこの二つを区別する意味なんてあまりないのかもしれない。夢だってそう。現実の合間にあるのが夢なのか、夢の合間にあるのが現実なのか、そういう見方ばかりする必要もないのかもしれない。

変性意識に入れば夢と現実の曖昧な波打ち際に身を置けるけど、その境界を区切る意味は果たしてどこまであるのだろう?海と陸は別れているようで、一つの地形として同時に存在し続けている。どちらを見るか、それだけの問題なのかも。変性意識の心地よさだって、意識の状態を意識しない方が混沌に揺蕩える。

そもそもの現実と呼ばれるものが夢の中にあるような感覚が強い僕にはその方が合うのかもしれない。並行現実みたい。

 

幻想だって、何をもって幻想と言うのだろう。そもそもの現実が現実と言う確証がないのに。度合?

幻想だって知覚されたそれが思考によって現実か幻想か選り分けられる。そこで現実というものの観念が揺らげば、そこには幻想が侵食できる余白が生まれる。

現実の観念?いくら現実が概念のように振舞っていても観念としか認識できないのかも。少なくとも僕にはそう。だからってその存在そのものが固定観念だとは言わないけれど、え?現実の存在って何?現実は存在するの?ほらこうなる。

バークリーが言ってたのってこういうことなのかな。僕は懐疑的だから自分に悪魔の証明を求めてるだけなのかもしれないけど。でもまぁ、感覚的にはそんな感じ。

知覚の檻に閉じ込められているというか、自分自身が存在というより観念でしかないような感覚があって、だから外側もそうなってしまう。そうなってしまうって言葉が出るということはその感覚に引け目を感じているのだろうけど、そこには外側、現実と呼ばれるものに対するある種の刷り込みがあるわけで、だから自分の感覚を肯定しきれずにいるわけだろう。

現実(という固定観念)に囚われている反動なのかな。感覚に生きれば現実は色んな意味で薄らいだし、その中でより明確に現実と感じる場面も経験してきた。逆に、非現実とされるものの中に色々な意味を見るようになった。そういったものを通して色々見え方が変化してきている。この虚無感もそう。今は結構好意的に捉えてる。

そんな中で、二元の外側に意識が向くようになりつつあって、さっきも現実と夢を陸と海と書いたけど、陸と海と波打ち際ではなく、海岸の風景でいいんじゃないかって思うようになってる。その方がなんかこう、色んな意味で穏やかな感じだし、しっくりくる。

 

二元ってどれも無理してる部分があるのかも。現実はこれ、非現実はこれって力みが入る。自分の内側に出来上がった概念に従おうとするからかな。自分の中の厳密に、無意識に疲れている部分があるんだと思う。でもそれを、そもそも観念でしかないんだし、くっきり分かれてなくてもいいじゃん?重なっててもいいし融合してる部分が合ってもいいし、そもそも両方があっての風景なんだから、ぼやけててもそれでいいじゃん?感じてその美しさを楽しめばいい。そういう見方にするととても力が抜ける。

しっかりとした目で陸がどういう陸かを見るより、眺めた全体を澄ました感覚で感じている方が性に合うんだと思う。どうフォーカスするかが違うから重点も置き換わる。何をどう使うか、何を大切にするか。そう、そこだと思う。分かりそうで分からない。うーん。

 

眺めるって言葉よく出るよね。視覚もそうだけど、感情を眺めるとか。いつも眺めてる。何かをしていてもそれをしている自分の内外を眺めてる。自分にとっての事実と言い切れそうなものが知覚ぐらいしかないからかな。特に僕を内側で取り巻く自分の感情はそう。こうやってここに感じたことを書いてきたのもそういうものを文章化したかったからなのだろう。前はよく揉みくちゃになっていたから。

でも今は大分眺めるのが好きになってきた。結局それは景色を眺めるのと変わらない。激しい雷光が内側から照らす積乱雲にはその美しさがあって、穏やかなピンクがかったクリーム色の夕暮れにはその美しさがある。それは内外どちらに眺めたとしても「ああ、こんな景色があったんだ」って、似たようなものを繰り返し見たとしても時間の花のような新しい感動を与えてくれる。結局、それが好きなのだろう。好きだから眺める。そしてその瞬間こそが何よりも僕にとっての現実であり、非現実。

 

だからだ。それが現実か、非現実か。現実か、夢か。現実か、幻想か。そういう目で見ている限りは眺めきれない。無意識の思考の枠の中で眺めることになるから、より純粋な姿は捉えきれない。

光景や風景を、ただ映るままに見ること、眺めることがどれだけ難しいことか。でもそれを求めてしまう。澄んでいる方が感動の深みが違うからなのかな。わからないけど。

でもそういう意味では囚われを外していくことは、それがいかに儚い試みだとしても純粋性を高めようとすることは、自分にとっての価値なのだと思う。この現実というものにくっついている手垢、観念による囚われも、取り分け二元的な使われ方をする現実に対するものは特に、この先に続く自分の価値観、その高まりを阻害しているってことなのかな。と思った。思った?わかんないけど。

はい。

 

この前壊れかけてたイヤホン、また同じのを日本から買った。final E3000。同じ製品のはずなのに聞こえなかった音が沢山聞こえてちょっとビックリした。劣化して聞こえる音が減ってたんだと思う。取りあえずとっても満足。

とても好きなイヤホンだけど、耐久性を考えるとお外用には別のイヤホン買った方がいいのかもしれない。

 

 

これ好き!


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Chad Lawsonはbreatheっていう最近のアルバムに好きな曲がいっぱいある。

Chad Lawson 'breathe' Album - YouTube

 

オーケストラルとソロピアノの両方のトラックが入ってるのも素敵。そして大体両方好き!ってなる。

 

これもとっても好き。


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これはソロピアノの方が好き!


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もう10月…?何かまだ2022年始まって2カ月くらいな感覚なんだけど、時間感覚バグってるのかな。いくら合わせても指す時間がどんどん遅れていく壊れた置き時計みたいになりそう。

時間って嫌いだから嬉しい。

きつい最近 お山

うーん、きついなぁ。このところずっとこの調子。悩みというか、思い詰めてることがあって、それがどうしようもない傷口と多重に直結していて、気力そのものが持っていかれてる。やらなきゃいけないことやるので精いっぱい。それでも世界はどんどん回っていって、自分だけが取り残されていく感じ。

多分ここ数年で一番きつい。一番というか質的にこう、手前側、根源的。

抜け出す方法を考えても痛みばかりが見えてしまう。っていう状態だから慢性的に視野が狭くなってると思う。

こういう時よく自分の手を眺めていて、ふと天井にかざしてみるのだけど、やっぱり誰も引っ張り上げてくれない。分かってるけど、もしかしたらって思っちゃう。

 

書き出せば何か出てくると思ったけど指が動かない。うーん。

 

あ、そういえば今は木星が一番近くに来てるらしいね。月も邪魔しないし元気が出たらゆっくり見たいな。どこか遠くで。

 

ダメだね。言葉が続かないね。連想が働かない。

 

あまりにあれだからこの前撮ったお山の写真だけ貼っとくね。

案内で行ったからあんまりゆっくりできなかったけど、やっぱり雲が綺麗だった。

景色の中に溶けたい。

久々の村のこと 内的ランドスケープ 自然と文明と隠遁 "Cicada - Hiking in the Mist"

手足の傷が化膿して熱があったけど何とか運転して街に帰ってきた。今も化膿が治らず熱が出たり下がったり。二年前の入院の時よりは軽いし、抗生物質を飲み始めて腫れも引いてきたから良いのだけど。

そういえば二年前のそれ、悪寒と共に口の筋肉が引き攣る、身体が反る痙攣があったのだけど、今日破傷風についてちょろっと調べたらまさにそれだった。単なる化膿からの熱性けいれんか何かかと思ってた。あの時病院行って良かったね。

村にずっと居る期間は抗体があるけど、今みたいに街主体の生活で時々ジャングルに入って土壌細菌に触れるからなるのかな。次からちゃんと消毒して抗生物質入りの軟膏早めに塗るようにしようかな。なんて言ってしないんだろうけどね。

 

やっぱり街には帰りたくなかったなぁ。やっぱり、もうずっとあそこに居たい。そもそも8日間じゃ足りない。草刈りして投網して草刈りして釣りして食べれる野草探してなんて続けてたら傷が治る暇もなく新しい傷ができるし、身体も常に筋肉痛だった。

 

コロナがあって、その後仕事の関係で村には2年以上帰ってなかった。でも全然そんな気がしなかった。森の感覚、人の温かさ、時間の進み方、日々の営み。何をとっても僕がより人として生きられる場所はあそこなのだという確信。

ここまでコミュニティに認めてもらえていることも喜ばしいことだろう。今回は別れ際にしか会えなかったけど、村の中で僕が特別な思いを寄せる人が力強くハグしてくれた。森の中で何でもできるとても強い人。もっと色々なことを一緒に過ごして教わりたい。兄がいたならこんな人が良かったと思っていて、勝手に兄のように思ってる。

 

電子機器からほぼ解放された一週間でもあったけど、ここまで自分が煩わしさを感じているとは思わなかった。あそこにいる限りは現実逃避の必要もないからね。そういう意味では、ここの現実はそういう類のものということなのかな。身体にとって、感覚的に現実足り得てない。

 

今自分の中にある内的なランドスケープが、どうして何もない、ただ広いだけの空間なのかもわかった気がする。このどうしようもない孤独は街に居る時の問題。自然の中に居る時は常に何かが語りかけてくる感覚がある。風一つとっても、肌に触れる感触と共に運んでくる香り、揺られて擦れる木の葉の音、雲の流れ、何かを予感して鳴く虫や鳥、空間そのものが動く。それを身体は告げられているように感じる。だから常に包まれている。

そういったものが一日中絶え間なく続くのが自然の中で、ここの生活にはそれがない。

たまに気持ち良さを感じるのは、人が少ない山側から吹く新鮮な香りの風。居場所をそっと伝えてくれるのは少ししか見えない星。そして内面を写してくれる、建物の隙間からしか見えない雲。それ以外にここにあるものは自己主張が強いものばかり。

多分、何もない空間は自然との隔絶も含んでるのだと思う。それが明白な分、広いのだろう。

 

僕は本当に街(といっても郊外だけど)での生活が向いていないようだ。

再確認させられた気分。再確認。今ホットなテーマ。

 

アナスタシアはまだ2巻。村でも時々読んでいて、森の中でこの本が読めるのが少し特別な感じがした。文明観とか、この作者結構僕に似ている部分があって、なんかこう、やっぱり再確認している気分になる。光の勢力とか闇の勢力っていうのは正直合わないけど。でもこれ二元的な部分は置いといて、勢力がForcesの訳って考えると少し印象も違うのかな。

この本は隠遁に意義を見出している。僕は本格的な隠遁というものに憧れがあるし、それに近い生活は村での7年間でしていた。

そこで一つ思ったのが、サレンダーについてだった。サレンダーというのは自分の置き方、意識の在り方について、特に宗教やスピリチュアル界隈で使われている言葉(適当)

自然の中での生活においては意図せずとも自然に対するサレンダーの連続になる。足ればいいのだから、生活の中で自然に対しては基本的に抗わない。抗えないというよりは、抗わない。抗いが生むものに相応の価値がないから。そういう意味で、サレンダーというのは基本姿勢になってる。現地の住民に現代の思想的なスピリチュアルを理解しろと言うのは難しいと思うが、彼らは根本を知っているし、伝承なんかを辿れば過去の知啓に触れることだってできるだろう。それは聴き手、読み手次第。

 

文明社会はそれぞれ程度の差はあれ別の軸を行く。価値そのものが転換されていて、歯車ばかりが人を差し置いて回っていく。人はそれに適応するばかりだから、自然に身を任すことすら個人で学ばなければならない。それだけでなく、人は自分自身を自然を超えたものだと思い込んでしまう。環境の改変なんかはそういった無意識の現れだろう。畏敬の前に躊躇するラインを、文明にとっての価値のために平気で踏み越えていく。

これだけだと文明批判みたいになってしまうけど、知識を蓄えたり、文化を生んだり、融和に進んだり、文明が集合としての発展を生んでいるのも事実だと思う。

ただやはり、現代においてどうしても自然が切り離された、一つの単なる分野になってしまう部分は集合としても個としても、どうにか意識的に立ち返らなければいけない部分だと思う。

 

例えば「夜だから寝よう」と言うけれど、結局時計に従って電灯を消して床に入るという動作のどこに自然があるのだろう。それは外側の自然も内側の自然も無視しているのではないか。

「いつも眠る時間だから眠くなってきたから寝よう」というように、生活リズムに従うことは単なる調教ではないか。

 

ヒトは鳥目ではないから、新月周辺でなければ夜だって行動できる。射幸心に駆られて夜間猟に出る人たちもいれば、その帰りを待って解体や料理をする人もいる。分担して寝たい時に寝て起きたい時に起きるのが集落の人たちで、そこに時計に従うようなリズムなんて無い。あるのは太陽と月と地球が生むリズムに合わせる人のリズム。

 

隠遁の意義は二つあると思う。一つは自らを社会、文明、世俗といったものから切り離し個の存在として見つめ直すこと。

もう一つは自然に身を任すことで、人間存在の根源に立ち返り、五感やその他を育み統合していくこと。

この双方をもってある意味で一人の人間としてニュートラルな状態を確立する。

 

現代の文明社会の中で知識を積み重ねるからこそ、先ずは一番大枠のバイアスである文明のレンズを外してあげることが必要なのではないだろうか。そういう意味でもある程度の期間の隠遁というのは、現代に生きる人にこそ必要なものなのではないかと思う。

そして結局のところ(内外様々な)自然と文明の統合も個々人の内で行われていくしかないし、そこでも結局ベースとなるのは自然の側でしかないのは、文明が自然に対する非自然というような類の存在ではないということなのだろうなぁとか思った。

 

 

Cicadaはこれも好き


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森のミスト。森の空気の重厚感を思い出す。どっしり。生クリームソフトみたいな感じ。

 

お気に入りのイヤホンが断線しかけてて悲しい。結束バンド2つ使って何とか音が出る位置で固定できたけどいつまで持つだろう…修理は前回失敗したからなぁ…

曖昧 美と虚無感と諦観 下の階の猫のこと 孤独と記憶 Reminiscence - Johannes Bornlöf

そこにあるものが何か分からなくても、そこに何かがあることは確か。それが何かを無理に分かろうとすれば決めつけになってしまう。明確にされたものというのは多かれ少なかれそういう部分がある。でもそれはあんまり好きじゃない。

なら曖昧でも、不明瞭でも、混ざり合っていても、自分の感じたものそのものを眺める方が合うのではないか。

 

沢山明確にしようとした。それは必要なことだったから。でも今はその必要性が薄らいだのだろう。どれが自分でどれが外側から入ってきたものかは大方選り分けたから。

 

今はただ眺めていたい。眺めているものが何かはっきりわからなくても、曖昧には曖昧の美しさがある。外に見るものもそうだし、感情も、感覚も、気持ちも。

一つの気持ちの中に色んな気持ちや感情や記憶や思考が入り乱れる。それら一つ一つの形や境界も曖昧になって一つの風景を作り上げる。あんまり気になるものがあるとそれに引っ張られると思うのだけど、そういう部分を過ぎ去ったからなのか全体として見るのが好きになった。

答えがないから揺らぐし、揺らげばまた新しい色彩を生む。自分の内側にある様々な観念が形を失い、固体ではない何かになる。見るものも、感じるものも、そして自分さえも全てが枠を失い曖昧さを増す。これはモヤモヤした辛さが伴うけど、でもずっと求めていたものなのかもしれない。雲に憧れているぐらいだからね。このまま自分が溶けてしまえれば、それは破滅ではなくただ薄まり広がるだけかもしれない。夢の中のように。ぼやけていく。

 

少し前ならなんでこんななんだろうとか思ったと思う。ずっと靄の中に居たのも、どうして抜け出せないんだろうって思ってた。でも今はこれでいい気がする。

厳密や精細という縛りの外側。

絵も印象派が好みだし、そもそも印象の中に生きているようなものだったしね。はっきりと生きようとするのが無理がある。

視力0.1以下の裸眼で見た世界も、はっきり見えない何かが何であるかを気にせずに、ただ全体という作品として眺める分にはそれはそれで悪くない。

対極にあるように見える鮮烈が刹那であるなら、それだって相対的により強く、大切に感じられるかもしれない。初めて眼鏡をつけて見た星空みたいに。

 

ただ、この感覚は少し、と言うかかなりおじいちゃんになったような感じがする。同じ美でも、内側から自分を引きずり出されるようなワンダー的な感覚は若々しさ、子供心を思い起こさせるけど、この美意識のようなものはどこかに諦観が混じってるからかも。それは実質的に虚無感の延長。美しさだけが理屈の無い世界に価値を与え、虚無の形を変えてくれてる。あぁこれでいいんだって感覚。世界の在り方がどうあれ美しいのだし、ならそれ以上何があるだろうって。

多分、意欲とかとは別の軸なんだと思う。枯れちゃうのかな。

そういうこと考えると少し不安もあるけど、心地良いから暫く浸っていたい。ニュートラルがこれになっちゃうとあれかもしれないけど、モードの一つってことでいいんだろうしね。能動は疲れるからね。ただ流れていたいし、ただ眺めていたい。

 

 

話は変わるんだけど、階段を降りたところにいつも二匹でくっついて寝てる猫がいて、その表情がとても穏やかで、暖かそうだなって思って見てた。兄弟なのかつがいなのかわからないけど、オスは去勢済みとは聞いていた。いつものんびりくっついていて羨ましかった。

最近、オスの方が轢かれて棄てられていたと、餌をあげていた下の階のおばちゃんが泣きながら話していた。その人は猫や犬といつも話したり餌をあげたりしてる人で、暫くの間とても落ち込んでた。

それからというものメスの方は寝場所を変えたのか時々しかそのマットでは寝ていないのだけど、その寝転がる姿がとても寂しそうで、寒そうに見える。寒さが辛いのは暖かさを知っているからだよね。ずっと一緒に居たなら尚更だろう。

 

この前は夜の散歩の帰りにその子の頭を撫でたらうちのドアまでついて来て暫く帰らなかった。オスの方が生きてる時はあんまり人のこと気にしてなさそうだったのに。やっぱり寂しいのかな。寒さも寂しさも、孤独は記憶との対比なのだろうか。相対する何かを知ってるからこその孤独。だから孤独を嚙みしめたい?

 

丁度日付が変わった。一か月。変わらないな。うーん…やっぱり孤独は孤独だし寒いや。

 

 

先週からこの曲何回も聴いてる


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Johannes Bornlöfはデンマークの人らしい。この曲大好き。

"Reminiscence"記憶の中に消えてしまいそう。特定の記憶ではなくて、記憶と同じ場所にある空間。

 

 

金曜日から8日間だけだけど久々に村に帰れる。移動があるから実質6日。これだけ短期だとほぼ草刈りと掃除で終わりそう。それでも森の空気が、空間が、肌触りが楽しみ。まだ迎え入れてくれるかな…

長距離運転。今道路酷いからちょっと怖い。前回追突されたし…運転を思うとメメント・モリな気分になる。

「執着を手放す」から 言葉とイメージ 自分の言葉に翻訳すること 執着と依存 ちょうちょ

執着って言葉をよく見かけるけど、その度に手放すって言葉がセットになってる。

多いのが直球で「執着を手放す」って言葉。でもこれって端折り過ぎじゃないだろうか。

大切なのは自分の感覚に根差した言葉、そこから生まれるイメージだと思う。だからその都度外から入ってくる合わない言葉は自分の言葉に翻訳した方がいいのかなと思う。

 

執着の僕の中でのイメージはそんなに悪いものではない。恐れだったり、そこから得られる何かだったり、何か理由があって手を放せないでいるものがある状態を執着というのだと思う。ただ、手放せないという部分がトリッキーで、日本語には手放すには複数の意味がある。握っていた状態を緩めて自由にするものも手放す(手を放す)だし、捨てるに近い意味の手放すもあるし、遠回しに誰かにあげるという意味もあるし、etc..。

 

執着に関して手放すという場合、僕は手が放れるイメージが一番合うのだけど、よく見かける「執着を手放す」って言葉はやっぱり端折り過ぎというか気持ち悪さがある。だって手を放れる対象は掴んで(縋って)いる何かであって、何故手を放せないのか、その理由が見えていないからこそ執着という形で存在していて、その結果手が放れないのだろうから。手を放せない、力んでいるのは恐れや不安、または求めている何かがあるからだろうし、そこでその対象から「手を放さなきゃ」って思うのはやっぱりなんか違う気がする。厳密に言うなら、僕の場合は、「手が放れるように促す」っていうイメージ。だから手放しとか手放すって言葉はあんまり好きじゃない。

 

日本での手放す観が捨て去る的な意味で使われることが多いのは、「~を手放す」の形で使われるからなのかなとふと思った。

英語ではLetting goになって、これはやっぱり自由にするという感覚で多く使われていると思うけど、日本で多く見られるような捨てるに近い感覚ではあまり使われてない印象。制御を解いて放出するみたいな感覚の使われ方(FrozenのLet it goみたいな)やリリース的な使われ方は見かけるから、やっぱりイメージは言葉に引っ張られるのだろう。

 

例えば「思い込みを手放す」っていう言葉。これも捨てる的な意味になってる場合が多い。だから余計に混同するんだと思う。似たような言葉で別の用法がされてたりするから。

「思い込みを手放す」も僕が気持ち悪さを覚える言葉。だって思い込みは思い込みだと気づけないが故に思い込みとして存在するのだから。気づけば勝手に組み変わって消えるものにわざわざ手放すなんて言葉を付ける必要があるだろうか?って思っちゃう。だから上手くそれをイメージできない。見え方が違うのかな。

それとも「手放す」って言葉に商業的な価値が付いているのだろうか。そういう類の流行り方。断捨離と同じ。

 

10年以上前だけど日本語教師のコースを受けた時、あり得ない状況の例文を作っちゃだめって教わった。「これはペンです。」という文を使いたいなら、無理にでもその前後の状況も作らなきゃいけない。普通のペンに対してこれは何ですか?って聞く人はいないから、特殊な形のペンに困惑して「これはなんですか?」って聞いた人がいるとか。

それだけ一連の(自分にとって)自然な流れとしてイメージすることは理解のために大切ということ。

 

内的なものを表す言葉ほど、誰かが作った言葉は誰かの感覚の土台に作られた言葉だということを肝に銘じておかなければいけないと思う。自分の感覚で他人の感覚の入ったままの言葉を無理やりイメージすると色々とエラーが起きるしね。

 

僕が受容と統合という言葉が好きなのは、それがとても色んなことを包含できるだけ器が大きな言葉だからかも。シンプルだけど結構強引にイメージしても何でも当てはまるし、そこに気持ち悪さが湧かない。それは自分に合うということ。

 

執着というものの僕のイメージを書いてみる。

先ずは何かに必死で縋って掴んでいる状態をイメージする。手を放そうとしても放れない。何故それから手を放せないのか、どういう感情があるのかを見つめる。

そこにそれを自由にしてしまうとどうなるか分からないという不安や恐怖があるなら、または欺瞞の空気があるなら、それは執着と言われる状態の場合が多いと思う。その場合は先ずはその不安や恐怖を認めてあげることが大事なんじゃないかと思う。「そうなんだね」って。そうするとその感情に一歩深く踏み込めるようになるから、より内側を繰り返し見つめていればいずれ思い込みを思い込みという形で認識できて、「あ、じゃあ手を放しても大丈夫なんだ。縋らなくてもいいんだ。」って奥底から思えた時、その不安や恐怖の対象からは自然と手から力が抜けて放れる。手を放れて自由になったものはちょうちょのようなもの。自分の中を勝手にひらひらと舞飛んでいる状態で、また飛んできて肩にとまっても微笑ましく思えれば、それはもう執着と呼ばれる状態ではないのだと思う。(でも自分の肩にそのちょうちょをとめてる状態を、自分のそのちょうちょを抑圧してる人に見せるのは避けた方がいいのかもしれない)

 

この手放しブームみたいな状態の中では、「手放す」を「捨てる」に近い意味で使われていることが多いと感じていて、それがなんかこう、歪な状態を生んでいる場合があるんじゃないかと感じる。「執着を手放す」もその一種だと思う。

SNSなんかで、この人は自分にとって大切なものを捨てようとしてしまっている(抑圧やすり替えを生もうとしている)んじゃないかなって何度思っただろう。それを生んでいるのは、何でもかんでも執着と一緒くたにしてしまう思い込みだったり、執着はいけないものという刷り込みだったり、セットの手放すから繋がる執着は捨てるものというイメージだと思う。

 

それが合う人ならそれでもいいのだとは思うけど、トレンドという強い流れは違う見方を惑わすから。人はそもそも千差万別。僕のようなタイプは、外側の捉え方がまとまっている時は特に警戒した方がいい。だからこそこういう世界で自分に入ってくる言葉は、自分の言葉に翻訳し直すということが大事になってくると思っていて。

 

執着を捨てることに執着があるように見える人。これってでも当然で、執着を持つことに恐れを抱いているから、それを持たないようにっていう気持ちが執着という状況を作るのだと思う。しかも見つめきっていない曖昧な状態だから、執着が執着のままで、それを持たない・捨てる自分をぎゅーって掴んでる。

じゃあそれをさらに捨てようとすればいいのかと言えば違うと思う。やはり必要なのはその執着を抱く自分を認めてあげることだと僕は思う。人間だものっていう気持ち。そして執着というものに対するイメージを書き換えてあげること(善悪、二元の外に置いてあげる)。執着をちょうちょに例えるなら、それが飛んできて自分のどこかにとまっている時、恐らくそこには癒えてない傷があるのだろう。このちょうちょはそういうちょうちょ。だから守ってくれているものとしても、見えない傷を教えてくれるものとしても、感謝してあげればいいと思う。もう一つは、しっかり見つめてあげること。執着かもという曖昧な状態だから執着として認識されるわけで、しっかり見つめれば形は変わって見えてくるし、そのものの在り方も変わっていくはずだから。

 

さっきも書いたけど、よく見かける手放しってあれに似て見える。ミニマリズムとか、断捨離とか。アーリーマジョリティ辺りの性質によるものなのかな。
全てがとは言わないけど、中には、物を持たないことに執着があるように見える人も居るし、捨てることに執着があるように見える人も居る。特にSNSにはその性質上そういう人の発言が目に付くことが多い。(そしてSNSはその性質上近い悩みを持った人を一つの流れに巻き込んでしまう)

断捨離と言って大切なものを捨ててしまって、その大切さに後から気付いて後悔している的な投稿を何度見かけただろう。その度に他人のことなのに悲しい気持ちになる。中でも物への愛着を執着と履き違えて捨ててしまう内容が一番見ていて悲しい。気付かれなかった思いが泣いているように見える。

物を大切に思うこと、捨てられないことは別に悪いことではないはずなのに。

 

内的な方も、執着の手放しクラスターみたいな人達(最近はもっと一般的に浸透してるけど)の中には同じ構図が多く見える。だからこそ、何かを執着と決めつける前に、しっかり感情を見つめてあげた方がいいと思う。自分の中の大切なものを執着と決めつけて、しかもそれを捨てようとしている人は沢山居るように見える。その藻掻きがいずれ気付きに繋がるなら無駄ではないのだろうけど、でもね…

僕から見てそう見えるということは、自分もそういう部分を持っているということ。僕の場合は他人のまとまった感情には反感を覚える方だから、割とすんなり抜けたけど、人々の感情と親和性の高い人は相当この隠れた他人軸に惑わされる部分なんじゃないだろうか。それを思うと心苦しくなる。

 

みたいに、ここまで書いたこと全てが僕の自分の言葉への翻訳なわけだけど、それは言葉の他人軸を自分軸に変換することだと思う。自らの感覚の土台にイメージを築くために。だからこそ、合わない言葉は無理に使わない方がいいのかも。僕は「手放す」が合わないから自分に合う「自由にする」を使うとか。よそはよそ、うちはうちでいいと思う。

 

執着について書いてみたけど、依存っていうのも色んな意味で似ているよね。

執着と同じで依存する自分を恐れている人はとても多い。対面にあるのは世間の自立観に植え付けられた、自立しなきゃという強迫観念だろう。自立が善くて依存が悪いという白黒観念。(でも自立とは?)

執着は自分が抱いている恐れや不安について直視できないが故のもので、(精神的)依存は依存している対象をなぜ求めるのかという理由に、より深い部分で無自覚であるが故のものだと思う。だからどちらも見つめれば形が変わるし、悪いものだというジャッジメントとは違う目で見ればその言葉に付きまとう思い込みも外れていくのだと思う。

どっちも綺麗なちょうちょで自然の一員だよ。

受容の儚さ から 慣れと鈍化 冒涜 縁と可能性 雲 アナスタシア

受容の儚さはそれが自分の中でしか完結しないことなのかも。そりゃ自己を通して外を見るのだから当たり前だけど。弱さであっても愚かさであっても、自分のそれを血肉に宿した在るがままというのは、例えばそれらを穢れとする人からすると嫌なものなんだよね。嫌っていう自覚があるなら外側から断じてくれるだけだしまだいいけど、そうでない場合は嫌悪感を呼び起こすだけでなく内側からダメージを与えてしまうのではないだろうか。やり取りしているだけで触れちゃいけない傷を抉ってしまうというか。だとすると自分を突き通すことに正当性はあるのだろうか。浅い付き合いなら自分を出さなければいいだけなの話だけど、深い部分での繋がりだとこの変化は切れ目になるくらい大きなものなのかもしれない。その必然性というか、そういうものは大分前から意識してはいたんだよね。

 

孤独っていうのはその孤独なのかな。人と人が本当の意味で理解し合えないのはある程度前提だとは思いつつも、あまりにも広大なスペースでの孤独を突き付けられているような感覚。孤独感の受容も自己受容の一部だから尚更だろう。大体こんな、受容だとか統合だとか、この軸は他の人たちと相容れるものなのだろうか。共有できる気もしないし、表に出せば嫌がる人が多い感覚もある。多分出さないけど。

まぁ、だからもっと浅い部分での繋がりにも感謝して生きましょうっていうのは分かるけど、僕が普段過ごしているのは井戸の中なんだよね。地表じゃなくて。性質はどうしようもない。

孤独が深まるのはイメージできるけど浅くなるイメージは浮かばない。これを後何十年も続けるとなるとやっぱり辛いな。先人はどういう世界を生きて死んでいったのだろう。

 

慣れる?でも慣れるってなんか妥協みたいで嫌いなんだよね。慣れってある意味で鮮烈さを失うことだと思う。鈍化。昔食べれなくて今食べれる食べ物って色々あるけどさ、長ネギとかね。それが一概に良いことなのかと考えると分からないんだよね。美味しさは今わかるわけだけど、味覚が歪むほど強烈な匂いが口内から鼻に広がる気持ち悪さっていうのを失ったわけじゃない?バーターだよね。

孤独に慣れれば強いとか、そんな意味の分からない欺瞞に満ちた理屈に染まってまで生きたくないっていうのもあるけど、単純に感覚っていうのが好きなんだろうね。芸術に触れる時も作者のそういう感覚に触れるから、そういった部分での美意識に内側から共鳴するのだろうし。そっちの方が自分にとっては大事だから、そういった様々な感覚は大切にしたいのだろう。

 

あれもなんか合わないんだよね。マイナス感情とかいう言葉。感情に正も負も無いだろうって思う。マイナスをプラスに変えようとか意味わかんないし、マイナスにも意味があるとか言うなら、じゃあマイナスっていう見方を先ず捨てたら?って思う。感情が可哀想。ある意味で冒涜を感じる。駿風に言うと「極めてなにか感情に対する侮辱を感じます」。

まぁ、それだけ自分にとって大事なんだろうってことでしかないのだけど。

冒涜って言葉久々に出たな。感情に対しては初めて出たかも。面白い。冒涜かぁ。

 

冒涜ってさ、人間しかし得ないことだよね。それは崇高や清らかさを見るのも人間だからであって、そういう前提に立っているからなのかな。それだけ崇高や清らかさというものと自然に同一な状態から切り離された存在だってことだよね。その意識故に。人間であることの辛さの一つ。自己意識なんてなければなんて思ったところで仕方ないけど…。

 

縁の結び代わりとかいうけど、それもオープンに生きてる人の理屈だよね。まぁでも交差した糸が別の方向に流れても、川と同じで流れは常に一定ではないからね。いつかまた交わる糸もあるだろうし、そうでなくても可能性は永遠に生き続けるものだから楽観が生まれるんだろうな。人生レベルの視点での繋がりなら尚更ね。関係性も個々の性質があってのものだから、それぞれの変化の先ではまた違ったものになるだろうしね。今合わないことがずっと合わないことを意味するわけではないし、変化を許容するなら合わない今も許容するというだけのことで。それもまた必然。信じるからどうのっていうのではなくて、想えばこそというのもあると思う。

そういう意味でも一概な縁のあり方などないのだろうし。

 

最近雲がとても綺麗。最近というかいつもなんだけど、見る度にまた違った綺麗。この前モモを少し読み直したんだけど、雲は時間の花みたい。

昨日は凄く色んな雲が一つの空に浮かんでいて、まるで雲の見本市みたいだった。今日は夕方、雨の合間に傾いた日がクリーム色に輝く雲の世界を作っていて、ヴァルハラみたいだなぁって思った。ヴァルハラ行ったことあるのかよって話だけど。

雲は、空はいつもそこに居てくれる。

 

今はウラジーミル・メグレのアナスタシアを読んでる。

アナスタシア、なんかこう、作者の思想的な部分はまぁあれだけど、文明の価値観に左右されず自然と共に生きる人って憧れるし共感する。

この本はとても運命を感じる出会いだった。アナスタシアって名前以前からなんか好きで、よく頭に浮かぶ。特定のキャラが頭に浮かぶわけでもないんだけど、なんか好きなの。響きかな。アプリの捨て垢名にもAnastasiaってつけたりしてた。この時も二元の統合の本を探していたら、あなたへのおすすめか関連書籍にこの本が出てきて、あ、アナスタシアだって思った。電子版買おうか迷ってたらkindle unlimited2カ月99円来てたから丁度良かった。解約忘れないようにアラームもセットした。ケチくさい。

 

そういえば今日も車を運転してたら前の車に『Anastasya / アナスタシア』って丁寧にもカタカナのフリガナ付きのステッカーが貼ってあった。スペルはAnastasiaの方がなんか好きなんだけどね。はい。

 

 

またKai Engel聴いてた。この曲も大好き。


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反戦思想 から 二元の統合と二元を認めること 目印としての中庸 内外という二元

毎年この時期になると思うのだけど、終戦の日に慰霊や平和に思いを馳せるのは必要なことなのかもしれないけれど、平和という観念に混じり込んだ反戦思想を振りかざして過去の戦争そのものを過ちと断ずることはどうなのだろう。平和を謳いつづける国としてはそういう平和の捉え方は短絡的過ぎるし、時代の流れの中で様々な思いを抱いたまま戦い、または戦わず、その結果死んだ人からすれば慰霊どころか凌辱にすらなっている場合が多いのではないだろうか。

 

反戦が悪いって言うんじゃなくて、節度というか。その節度を忘れさせるのは正しさでしょ。その正しさは誤り・悪が反対側にあることが前提で、その思いの抱き方だと結局土俵を作ってしまうだけじゃないのだろうか。争いは同じレベルでしか発生しないっていうのはそういうことだと思うし、平和平和と言いながら感情の方向性というのかな、それは好戦的な顔をしている。そしてこのまとまり方、この流れ方が一番何かが起きた時に手のひらをくるってするタイプでしょ。歴史に学ぶっていうのは目を逸らして一部分だけ見ることを意味するわけではないと思うのだけど。別にいいんだけどね。

 

節度と書いたけど、時代の表舞台から退いた人たちに対して死人に口なしの態度でいいのだろうか。個々としても集合としても、あまりに報われないのではないかと思ってしまう。今の世代の考え方は今の世代の考え方だしそれはいいのだけれど、その短絡的な平和観がなぜ祖先に対しての敬いよりも勝るものになれるのだろうか。短絡的っていうのは悪い意味ばかりではなくて、それこそある意味では純粋なエネルギーなのだろうから、それ故にってことなのかもしれないけど。

 

この節度っていうのはことあるごとに思う。最近だと元首相の件だってわーわー言うのはせめて49日ぐらい待てばいいのにと思ってたし、コロナ陽性で死んだ人に対する当たりとかもそうだし。

普段は礼節を重視するような人が、人から人々になった時それを簡単に踏み越えてしまうのがなんか怖い。理性の儚さ。仮に前世というものがあったのなら、これに殺されてるんじゃないかって思う。

 

分断っていうのも、これがなぜ起きるのかと考えると、結局感情なんだと思う。本能。不安や恐怖に対する防衛反応による共有。ヒトの持つ社会性って曖昧だから仕方ないのかもしれない。でもその感情をせめて気持ちになるくらいまで一人一人が見つめたのならここまでの激流になることもないんじゃないかとも思う。

でもフランス革命を劇薬と書いた人は、その劇薬も歴史の中では必要なものだったというスタンスだった。それはそうだと思う。歴史を外側から見つめるならそう在るべきだろうとも思う。だけど、じゃあその繰り返しで何が生まれるのだろうかとも思う。この辺は主観をどこに置くかってことなのだろうけど。

 

こういうのもさ、個人的な思いとしてはそういう部分は越えていけたらいいなぁと思うけれど、それも結局自分の感覚に基づいた価値観でしかなくて、他の人たちは個性や個人的な経験をもとに別のものを見ているのだろうし、それはそれで多様性として認めたいっていうのも個人的な思いで。そんなことしてるからどんどん自分が自分の価値観の中で閉じ込められていくんだよね。それも嫌いではないからいいのだけど、押し潰されないようにしないとなぁとは思う。

 

人間の価値観って面白いよね。

執着を手放そうとすると執着を手放すことに執着してしまい、依存を越えようとする人が鞍替えした自分の依存から目を背けて自立した自分を生きる。(どれも言葉のイメージの弊害とも取れるけど。)

 

二元の統合っていうのが難しいのもそういう所だと思う。(言葉のイメージとしては統合が一番僕には合うのだけど)

本当に二元を統合できたのなら、二元に対して少なくとも反射的な感情は湧かなくなるはず。防衛の必要が無いのだから。

最初の反戦だって様々なイデオロギーだって、在り方が二元の片方になると片側としての自分というアイデンティティ的な在り方を守ろうとするあまり、敵としてのもう片側を必要とする好戦的な部分が出るってことでしょう。これを僕は多分いつも土俵と書くのだろうけど。

 

なのに二元で断ぜられた時に「そうじゃない」って咄嗟に思ってしまうのも、外に見る二元に否定的な感情が生まれるのも、内面の二元を投影しているに過ぎないってことになる。

二つの〇を包む一つの大きな〇、そこから見れば何を言われても大体は「そうかもなぁ」でいい話なのだろうからね。

「そうだね。まぁでも~」っていうテンプレ的な回答の素晴らしさ。それは双方向性のものなのかも。鏡の双方。

 

それが言えない時は、それはつまりそこに否定性が生まれ、自分の内面で勝手に土俵を作り出して上がってるとも言える。二元の非統合に対する否定という二元。

 

そういう意味では、本当に統合というレベルで二元を認めるなら、二元に引き戻される自分も居ていい(そういう自分も内包している)ってことになるのではないだろうか。それは大きな○の自分も居れば、その中の二つの小さな〇の双方に自分の内面に居る自分を見ることでもあるし、それはバランスが崩れればどちらかに寄ることを意味するのだから。弱さを認めるというのはそういう意味でもあるのだろう。

その上で、そのそれぞれの○の中のどの辺りが、普段のそれぞれの自分として心地良いのかを、考えるのではなく感じ取ること、それが中庸であって、目印なのだと思う。

 

目印。目安。『自分なり』が変われば位置も変わるし、常にそこに立っている場所ではなく、ズレた時に「あ、今こっちに振れてるなー」って思えるような目印。見通し不安じゃないけれど、何でも見通せていれば余裕も生まれるしね。

 

この辺は自分の内面のことだけど、その二元は多分、自分の外側にも言えることなのだろう。

内外。内面と外面。鏡の両面。僕のように外側に内側を写し見てる人間は内側に偏りがちだけど、内側がなければ外側はないし、その逆もない。そういう意味では、鏡で区切られている内的な世界と外的な世界、それを合わせたのがさっきの外側の○の世界であって、『自分が経験可能な世界』ということになるのではないだろうか。

これは『観測可能な宇宙』という言葉に似ていて、経験可能領域は拡大されていくけれどそれと同時に反対側にある経験不可能領域がある二元(経験領域と非経験領域でもいいけど)で、その捉え方で言えば、その外側が実存的な意味での世界になる。

 

途方もないけれど、経験というものに価値を見るなら、やっぱり内外の両面に目を開いていくことなのかな。

外で得たものは内で生かされ、内で得たものは外で生かされるのだから、片側だけで見るよりも質的な変化は早いだろう。ただ、その中で迷子にならないように、自分なりの中庸は意識した方がよいのだろうし、それは飽くまで目印。揺らいでもええんやで、人間だもの的なね。

 

僕の場合はやっぱり内面に傾いてるから、元気が出たら井戸の外に冒険に行くけれど、疲れたら無理せず戻ってきて水に浸かってるくらいの気持ちってことになるのかな。水面が内外を仕切る鏡ってなんかいいね。このイメージちょっと好き。