感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

孤独月間 から 要塞 LonelinessとSolitude 新居昭乃『城』『氷の城』

今月は孤独月間になりそう。慣れ親しんだ孤独、Solitudeな方向にもっていけば辛さは少ないと思うんだけど、寒さや孤独感、Loneliness的な部分に何かあると思うと今無理やりそっちに持っていくのはなんかこう、開き直りな気がしてしまう。大体こういう時は必要なものがその感覚の中にあって、しっかり感じて内側に何があるのか見つけておかないと同じことを繰り返す。

そういう意味で今は孤独感やその周りにある感覚に浸からなきゃいけないような気がしていて、その感覚に合うプレイリストを作った。やっぱり昭乃さんが凄い。他の好きなアーティストだとこういう気分の時はこの人のこの曲が合うって感じだけど、昭乃さんは僕がどんな気分の時でも合う曲が見つかる。

 

この曲

城

  • zabadak
  • J-Pop
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

昭乃さんの"Another Planet"っていうコンピレーションアルバムに入ってて、一曲だけならこのItunes storeのZABADAKの"IKON~遠い旅の記憶~"っていうアルバムからも買える。

 

歌:新居昭乃

作詞:新居昭乃

作曲:吉良知彦

 

針金でつくる
入り組んだお城を

 

テーブルの上の
中庭に日が射す

 

夏の部屋 夜明けの部屋
いいことだけを飾るの

 

ひとりひとり閉じこもる
子供の頃の私が

 

笑うこと しゃべること
棚の奥 しまい込んで

 

誰にも見られずに
眠るの 鍵をして

 

入り口 守る人
知っている 誰なの?

 

剣を向けている
この世界すべてに

 

からだ中を傷つける
針金 永遠の罠

 

自分の手でつくったの
外に開くドアはない

 

考えること 思うこと
もうやめてもいい?
お願い

 

静かな絶望に
ただ ただ耐えるの
誰にも見られずに
眠るの 鍵をして

https://lyricjp.com/ats/a004450/l04ec4ah

 

遠い目をした子供みたいな昭乃さんの歌い方も平坦なメロディもすごくて(語彙不足)リピートが止まらなくなる。ただ横たわって天井の向こう側を眺めながらずっと聴いていたい曲。

何よりすごいのは歌詞で、一言一句全部自分が持ち合わせてる感覚になって、情景が浮かぶどころか自分の中で再体験してる感覚になる。

 

城。僕は要塞とよく書いてたと思うけど、僕も自分の中で持ってるもの。中に色んな自分が住んでて、でも誰が住んでいるのか自分は知らなくて、記憶を仕舞った場所や物の置き方が勝手に変わってるから誰かが住んでるのは分かる。中には入れるけど、僕が入れるのは2つの広間だけで、基本は浮かぶそれを眺めるだけ。多分、僕はこの曲で言えば「入り口守る人」でしかない。この歌の主の視点っていうのが僕から剥がれ落ちてしまったものだから。聴いているとそれがどこかで満たされるんだと思う。

なんだろう。インナーチャイルドっていう言葉もあるけど、どっちかというと僕が反応してるのは解離的な部分な気がしてる。その辺は聴く人にもよるのだろうけど。

 

この曲を聴いてて思うのは、当たり前だけど、彼らも人格なら気持ちや思いがあるんだよね。自分の意思で閉じこもってるのか、出て来られなくなってしまっているのか、それは分からない。多分本人にも分かってない。ただそうなってしまった。そうするしかなかった。必要なことだった。でも同時に、永遠の罠っていうのもよく分かる。自由に出入りできる熟練したバウンダリーみたいなものなら良いのだろうけど、それとは全然性質が違うから意識せざるをえなくなる。自分の中に得体の知れないものが入った、大きなブラックボックスを抱えてるようなもの。変化の中それが互いに苦しいし、苦しい理由もその中にあるからどうしようもない。

 

 

それでね、昭乃さんの"ツバメ"って言うアルバムがあって、そこにもう一つ城がテーマの曲、”氷の城”が入ってて、これも今回のプレイリストに入ったのだけど、これもまた別の方向に破壊力が凄かった。今までは何故かあんまりちゃんと聴けてなかった曲。

とても寂しい時に聴いてたからなのか、油断していたからなのか、泣いたと言っていいくらい涙が出た。枕が濡れるくらいに。でも泣くってこんな感覚じゃなかった気がして、はっきり泣けた!とは言えないのだけど。この前もあったのだけど、ただただ涙が滴ってくる感じ。これって泣いたの?わからない。でもこの量は多分15年以上ぶり。

 

こっちはその城の居心地の良さを認めてくれながら、そこから出ることを促してくれるような内容。綺麗なメロディも浄化してくれるよう。

 

歌:新居昭乃

作詞:新居昭乃

作曲:新居昭乃

 

夜明けに積もる雪 並んだ窓の街
ニードルレースの模様のように

 

あなたは目をさまし ドアを押し開ける
世界にたったひとりきりのように
優しい夢があなたをつつむ

 

やがて溶けてなくなる
砕けてただ壊れる
氷のお城は居心地がいいの?
なぜ…

 

荊の椅子だけがあなたを守る
空を駆けるオーロラを待つ

 

そこは風も吹かない
寒くて淋しい場所
何を見てるの? ガラスの目の奥で

 

こんなに近くにいて
たどり着けないその手を
弱い光があたためる
今すこし笑ったの?

 

溶けてなくなる
砕けてただ壊れる
氷のお城を抜け出して
さぁ行きましょう

 

https://lyricjp.com/ats/a004450/l04ec4fh

 

「砕けてただ壊れる」ってとても救いを感じる。

壊れなければどうしようもないけれど、どうしても壊せないから壊れてくれればって思うんだよね。それが自然に訪れるならそれは希望。

弱い光っていう言葉選びもすごいなって思う。それが針金であれ氷であれ、自分の中の城、そしてその中に居る自分を知っている人の言葉選び。

 

アルバムのページに曲解説が書いてあって、やっぱりそうなんだなぁと思った。そういう思いを込めて作った曲で、実際にそう感じさせてしまうのだから魔法みたいって思う。そんな思いに触れたら、柄にもなくお礼のファンレターでも書いてみようかなと思った。込めてもらったものを受け取ったこと、そしてその気持ちは伝えたいと思った。

 

”氷の城”はツバメの時の新曲だったと思うから、上の”城”からは20年くらい経ってると思う。その歳月を経ての繋がりや変化を感じさせてくれるところもいいなって思う。昭乃さんは僕にとっては先を行って行き先を教えてくれるような人であり、僕がどうある時もそれでいいんだよと包んでくれるような人。

 

最初にLonelinessとSolitudeって書いたけど、これはクオートなんか見ててもよく出てくる分け方。そして大概が「Lonelinessはまやかしです、孤独を受け入れSolitudeを楽しみましょう」って感じ。

言いたいことは分かる。僕の場合、ここまで『僕にとって』を深める前はそれでも良かった。でも果たしてそうだろうかっていう部分が一つの引っ掛かりだと思う。

 

大概こういう一見強く見える突き抜けた捉え方って、自分が強く生きたいがためのものであって、言い換えれば自分の弱さから目を逸らすためのものだと思う。だから自分に言い聞かせるように聞こえるし、そこにある正しさ(と思っているもの)を他人に投射するのだと思う。全てがそうとは言わないけれど、そういう人が多い。

勿論その理屈が合う人ならいいのだけど、自分に合わないならこういうのも捉え直していかないと縛られっぱなしになる。

僕は、人の感覚に必要ないものはないし、遠ざけるのも違うと思う。確かにSolitudeは心地良さが勝るけど、Loneliness的な孤独感もそれはそれで生むものがある。何より、自らのLonelinessから目を逸らすためのSolitudeであるのなら、それは一部しか見ていないのではないだろうか。本来水と油ではない筈の2つの概念がそう見えるというのは、水と油的な考え方の人の手垢が染み込んでいるということだろう。隠遁志望の僕にとってはそんなSolitudeならlimiting belief以外の何物にもならないと思う。ハーモニーの欠如。

 

なんてことを、昭乃さんの歌を聴きながら書いてたら出てきた。ということはそうなんだと思う。弱さでもいいんだと思う。受け容れた先の世界が見たい。

ある意味、当たり前になり過ぎていて孤独感にしっかり目を向けてこなかったから、そして以前なら見つめようともしなかっただろうから、今になってそういうタイミングが回ってきたんだと思う。

 

 

プレイリストコピーしたからお裾分け。Spotifyあんまり使わないんだけど。

城はないけど、氷の城は入ってるよ!

結構渾身の曲順。

open.spotify.com

孤独の苦しみ から パニックと思考 身を任せること 内面のランドスケープの変遷 Spiritual Loneliness

あれからというもの数日間本当に苦しい思いをしたけれど、サポートを貰えたおかげで持ち直して、今は大分落ち着いてる。こういう時に頼ることのできる存在が居てくれることは、本当にかけがえのないもの。同時に、そうではない人を思うと心苦しい。

 

今回の苦しみは多分、ある意味で縛られ、ある意味で守られていたものを外したことで、感覚の質が大幅に変わったこと。そしてその感覚に基づく内的な世界が変化したこと。(実際の所は、どっちがどっちに基づいてるかは分からないけど)そしてそんな中で、急な変化にパニックになったことだった。

 

この孤独感は恐らくSpiritual Lonelinessとも呼ばれているもので、それは他の様々な孤独感とも少し違うものみたい。参考になりそうな情報どれを当たっても、「生涯のもの」「付き合っていくしかない」とあって、その絶望的だけど温かい断言に、まぁそうだろうなって思った。それが生涯のものというのは、実存的孤立という言葉もあるけど、多分それをある種の変容を通して本来性として受け入れることになるからだろう。

これ自体はある程度は、以前から受け入れてたものだった。それを忘れてしまうくらい取り乱したのは、とても急な変化だったこともあるし、まだ見えていない恐れに繋がっているからでもあるのだろう。この急な変化の質が、今回はとても大きかった。寒さという物理的な感覚、しかもずっと苦手意識があった部分にリンクしてくるから避けられないし、より深い部分に足を踏み入れた孤独は、インターステラーの惑星に留まり性格も変わってしまう宇宙飛行士とか、圏外の携帯電話とか、Frozen2で凍ったエルサとか、そんなイメージがとても合う。

 

この感覚はある意味、自分以外誰も居ないこと、声も届かないことを、自分のどこかが誰よりも理解した状態。それを頭は、どうしたらこの孤独感から抜け出せるだろうか、このままでは死んでしまうからどうにかしなきゃと思考するけど、そっちに行くとど壺に嵌る。それは誰よりも理解してるつもりだった。

 

森の中に独りで居る時がそう。パニックになったら、思考に傾いたら、鼓動が速まり、視野が狭まり、五感が偏り、不安に飲み込まれ、自分がどんどん森という環境から切り離されていく。それは森が殺しに来るということ。生存本能がそう認識するから、危険の可能性ばかりを拾い危険と察知するから、容赦のない森を認識することになる。

森と五感を通じて繋がり、自分が森の一部であり、森が自分の全体である時は、調和した五感に限りない平穏を覚える。ある程度の危険は飛び越えられるし、本当の危険を選り分けられる分別の余裕もあるし、そういう意味でも森は遊び場であり自分自身になる。

僕はそれを外の世界との関係で学んでいたはずなのに、自分の内側でまた翻弄されてしまった。どちらも同じ、環境と個の問題なのに。

人が外側を以って内側を認識し、内側を以って外側を認識するということは自然環境が内外に存在し、感情もその一部ということなのかもしれない。鏡。

 

抗わないこととは状況を受け容れること。焦らず、思考に飲まれず、環境の一部として流れに身を任せる。その勇気と余裕。突然来る諦めと解放もこっち。

 

ただこれは落ち着いた今だから見えることで、焦りの中に居る時は見えないもの。落ち着いた状態の人間のロジック。ということは、こちらばかりを求めれば、生存本能に流される自分を否定してしまうかもしれない。それはそれで違うと思う。

その苦しみがあったからサポートを頼めたことも事実だし、その苦しみがあったから後々見えてきたこともあるのだし、苦しみが無ければ様々な変容もなかった。経験が学びの師というのなら、その必死さもまた受け容れたいものだしね。痛みが生のスパイスであるように。

 

内面に自分をイメージした時のランドスケープ。

心理的な情景は移り変わった。それもまた外側の自然環境を内面に映し出している。

このブログを始めた当初は確か、僕が居たのは冬のベーリング海だった。船の上から投げ出されては冷たい感情の嵐に揉まれていたからだと思う。

その後は紛争地だった。瓦礫の中争う自分の欠片たち。いくらかのまとまりはあるけど、色んな自分や自分ではないものが生き残ろうと必死で相手である別の自分を殺そうとしていた。

井戸の中は今でも自分の居場所。それはある意味で外から隔離された安全なスペースで、その冷たく清らかな水に沈むことは癒しでもある。寂しさもあるけど、静寂がある場所。

暗闇のトンネルを抜けた後は暗闇の沼地だった。いつまで経っても抜けない、外が見えない場所。泥濘に足を取られて思うように前にも進めない。これは実存的危機の時。Dark night of the soulなどとも呼ばれているものだと思う。

でも最後にはやはり、夜明けの日差しを感じることができた。この日差しは二度感じたことがある。初めは高校の時、登校を続けることを『諦めた時』だった。自分を雁字搦めにしていたものから解かれたような、清々しい夜明け。二度目は思考側の一時的な死をもって、同じように感じた。

次に訪れたのは果てしない靄の中の世界。現実と夢の区別がつかないような期間。すべての意味を見失っていた時(今もある意味そのままだけど)。

 

そして今そこをようやく抜けて出てきたのが、視界はクリアだけど広大で何もない空間。ただ白い地面と冷たい空気と空だけがある。

果てしなく見えるから、果てしなく独り。こんなに周りがはっきり見えたことがなかったからとても混乱してしまった。どこまで行っても独りなんだと思い知らされたようで、体感とリンクするような寒さで本当にダメかと思った。大げさには書いてないよ。ストレスがきつかったせいか18年前のあの時と同じで帯状疱疹が頭に出てる。でもそれだけ辛かったから頼ることができた。珍しく被害妄想まで併発してたのに、温かく手を差し伸べてもらえた。本当に独りだったらどうなっていたか分からないけど、本当に独りだったらここまで来れてない。実にシンプル。

 

落ち着いた今は大分この環境を受け入れつつある。それでも大分、色んなものに対する感覚が違う。聴いていた曲も昭乃さんに戻ったのだけど、前よりも深く感じる曲がいくつもあるし、歌の中の孤独の色、そのグラデーションがより繊細になった気がする。それは好き。こういう景色が見れるなら、この世界も有りなのかもと思ってる。

多分前よりも孤独の寒さに沈みやすくなってはいると思うけど、それがまた感覚の変化や在り方の捉え直しにも繋がってきているし、今はある部分では独りではないから、多分、慣れる時間があれば大丈夫。ここで何を探すのか分からないけど、孤独が薄まることはなさそうだし、慣れながら流れていくしかない。

やっぱり、色んなものの形が変わった。

 

ところで数日前、Spiritual Lonelinessという言葉に行き当たった時、それを紹介しているブログの著者の電子書籍を買った。Anna LeMindという人の"THE POWER OF MISFITS"という本。多分この人のブログの焼き直し。北欧の人みたいで英語は第二言語らしく、とても読みやすい。彼女のミスフィットとしての人生は共通点が多く、随所で共感しまくりだった。

この人は孤独を社会的な孤立から生まれるSocial Loneliness、感情的な孤立から生まれるEmotional Loneliness、自分にとって意味のあることをその深みのせいで他者と共有できないIntellectual Loneliness、そして未知への憧れや帰属先のない自分から生まれるSpiritual Lonelinessに分けている。

 

www.learning-mind.com

 

これらの違いは、僕の場合は自分の変遷を思い返すとよく分かる気がする。

Social Lonelinessに関しては僕は割と早期に自分にとっては幻想だと気づいたから、あんまり苦しむことはなかったけど、一般的にはこれに苦しむ人が多いのだと思う。

Emotional Lonelinessは僕視点では皆まとまって流れて来て皆まとまってどこかへ流れて行ってしまうのがこれだと思う。これを、当の人たちは繋がりを保つために感じ、無意識に同じ方向の感情を共有しているのだと思う。個性なのかな。僕はこの孤独はあまり知らない。というのは、感情は孤立している方が楽だし自然というのが小さい頃からの感覚だから。昔から巻き込まれると生理的嫌悪感がある。

Intellectual lonelinessはとてもよくわかるし今も深まり続けてる。興味が周りとズレすぎていて、深さも違うから誰とも共有できない感覚。見ている世界が違うという異邦人感。結構苦しい。

そしてSpiritual Lonelinessはここ数年深まり続けているものだと思う。Spiritual pathとも言われる変容と内面への旅。その過程で個が深まればより他者から外れていく。それはただぼっちになっていくという類のものではなくて、個への流れの中で様々な他者の手垢の付いた概念を自分なりに捉え直すことからきているのだと思う。自分で在るために、切り離すべくして他人軸を切り離していく。自分の内側に居る他者によって苦しまないためにそれらを脱ぎ捨て内面から孤独になっていく。だから生涯続く孤独なのだとすぐに納得できたし、じゃあしょうがないねって思った。

僕の中では下の二つが深まり続けるから、増幅し合ってる部分もあるのだろうと思う。

 

このことに関してはもっと書きたいことがあった気がするから、また次飽きてなければ書くと思う。

最近考え過ぎなんじゃないかって言ってもらい、確かにそうだなって思った。一時期考えるのをある意味放棄したのだけど、やっぱり考えるのが好きなんだなって思ってからこっちに傾きが戻ってる。前ほど思考一辺倒ではないとは思うのだけど。でも確かに、インスピレーションは思考の外側から来るし、思考の質も感覚の質も落ちるだろうから、バランス的な意味でもまた少し意識的に頭を休めようと思った。

 

 

これずっと好きなんだけど、今はもっと好きが深まってる。


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この感覚なの。やっぱり好きだなぁ。調和できるだろうか。 

寒さ から 節目 進む弱体化 孤独感 ”ヘミソフィア”

うーん、きつい。

一個抜けて少しすっきりしたかと思ったらもっと寒い所に出てしまった。

この寒さ。避けてきた寒さ。気になっていた寒さ。死に意識が向く寒さ。

節目、確かに節目だけど…

 

いつからだろう、ずっと寒がりだった。

単に寒さに弱いとか、周りより寒さを感じ易いとか、そんな風に思ってた。

オーバーなんじゃないかとか言われたりもしたけど、本当に寒さには耐えられない。外側の寒気から一気に奥底の寒さが来る。それが本当に、凍死するんじゃないかと思うほど寒い。凍えるって言葉があった。それに近い。実際なら歯がガタガタする感じの寒気を感じるんだけど、歯のガタガタは来ない。ウイルス感染の時の悪寒は歯がガタガタしたけど。歯のガタガタがない以外は本当に凍える感覚に近い。

日本の冬はトラウマがあるから避けるのもあるけど、普通に寒さから逃げてる部分もある。

 

今日は雨が降ってるからそれで冷えたのかなと思って重ね着してみたら暑かった。薄いロンTを重ね着して暑さを感じてると寒さは紛れるけど、普通に暑くて汗をかいてくる。それでロンTを脱ぐと風が当たってる部分から中心に吹き抜けるように、そして奥から芯を通って全身に走るような寒気が来る。自律神経がおかしいのかなとも思ったけどそういうわけじゃないみたい。

それが孤独感やらなにやらと凄く結びついてどうしようもない寒さになる。

 

孤独感。自分が深まるにつれてその寒さが単なる寒さではないことを意識するようになっていった。孤独の寒さにも近い。だから10代の頃から酒井法子の碧いうさぎに感情移入してきたし、多分今も聴けばする。でも今は怖くて聴けない。

 

本当にどうしようもないから小雨の中夜風に当たってきた。こういう時はその感覚に集中できないと余計に辛い。家に居ると気が散ってだめだった。それこそ気が狂いそうになる。もう十分狂ってるとか横から言わないで。

風自体はそこまで寒くない。多分普通の感覚なら肌寒いとも思わないくらい。でもその風が吹き抜けると芯から凍えそうになる。深呼吸をすると風自体はまたあまり冷たくなくなる。

歩いていて浮かぶのはただ広い世界。暗くはない。そこをただ歩いている。見渡す限り誰も居ない。誰も感じられない。何だろうこれ。

暗くないから見渡せてしまって、その分独りが強調される感じ。

 

孤独には耐性はある方だと思うんだけど、それも段々弱くなってきた。

色んなものを脱ぎ捨てる内に色んな耐性もどんどん剥がれ落ちてる気がする。認める度に弱くなっていく。当たり前の話だ。だから泣くことができないのが余計に辛くなっていくし、凍える時間も増えていく。

 

これでいいのだろうか?とも思う。これじゃ普通に生きられなくなるんじゃないかって不安にもなる。普通?ふざけてるの?今はいいから。

ほら、最近出て来なかったのも出てくる。さっきから一々茶々入れてくるのも居るし。でもちょっと嬉しい。まだ居たんだ。

 

はい。

弱体化。どんどん弱くなってる自覚があるんだけど、でも逆戻りも出来ないしするつもりもない。変な話途中でだめになっても、壊れても、そこで朽ち果てても、行けるところまで行くしかないと思う。何に意味を見出してるのかすら分からないけど。

 

それでこう、この寒さの心当たりはやっぱり昨日スッキリしたことなんだよね。一旦終了とか書いておいてあれだけど。いや、終わったからなの。あの感覚をアルバムの片隅に仕舞ったと思っているんだけど、だからだと思う。ある意味、というかあらゆる意味で支えてくれてた感覚を、今はもう大丈夫だからって仕舞ってしまった。さっきの言葉を使えば脱いだ。そうしなきゃ次に進まないと思ったから。

だから寒いんだと思う。だから前よりも広い場所で、前よりも寒くて、前よりも独り。

いくらそうじゃないと思おうとしても。

 

これが思い込みかどうかは知らないけど、一回脱いじゃったら着れないし、進んじゃったら引き返せない。

きついけど、これが悪いことだとも思っていない。落ち込みながらも楽観視してる。

この寒さの感覚がずっと気になっていたから。そっちを意識する順、その段階が来たということだろう。

だから味わうしかない。見つけるために。

何を求めているのか、何を伝えようとしているのか、何をさせようとしているのか、何を思わせようとしているのか、何を想い起させようとしているのか。

水が澄み穏やかになれば見える時が来ると思う。

 

ずっとそうだった。だから今回もそうだと経験の積み重ねによる無根拠な楽観を信じるしかない。

 

自分が近づく度にどんどん耐性が無くなって弱くなっていく。何か間違っているのではないかと不安にもなるけど、でも確かに、前よりも生き辛いけど生きやすい。矛盾は解けてきた。膿や狂気と共にその辛さも薄まっていった。

自分が自分でない辛さは、自分は自分という生きやすさの中から出てくる、自分なりという辛さに置き換わっていく。でもこれはいつまで続くのだろう?終わりはあるの?安息を求めるあまり安息に手が届かない自分を演じてるの?

 

今回は表情に出るらしく、今日も何度も具合が悪いのかと心配された。話す意味もないからただ取り繕う。元気を装うことにも疲れる。

 

 

あとこれさ、僕が中学校ぐらいの時のアニメなんだけど、この曲大好きなんだよね。


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当時はこのアニメ見てなくて、20代になって観たのかな。ストーリーとか雰囲気も好きだよ。曲を好きになってそこから作品に入る、僕によくあるパターン。

全体的には神秘的で儚いんだけど、色々な感情や気持ちのようなものを記憶やアニマ、投影のような繊細な心理描写を運命や意志、不条理や愛情のような土台の上で表現していたりもしていて、独特の美しさがあると思う。なにより迷子には刺さりまくるアニメだと思う。それが取っつき辛いとか難解って言われてるから人には中々お勧めできないけど。頭で分かろうとしなければいい。

また観ようかな…

 

それでこの曲が今朝頭に浮かんで、今日多分100回は聴いた。車の中でも仕事中も散歩中もずっと聴いてたから。

この前は別の曲だったけど、なんだろう、こういう何かに引っかかってる時ってどこかで、多分反応する感情がリンクする曲を聴いてる。

 

2:36からのサビっていうの?ここの歌詞に凄く反応する。

遠い昔 何処から来たの
遠い未来に何処へ行くの
知らないまま投げ出され 気づく
前に時は終わるの
始まりの荒野を独り
もう歩き出してるらしい
僕は灰になるまで僕で在り続けたい

 

今日一日中聴いてるのに集中して聴くとやっぱり泣きそうになる。そこで泣ければ楽なんだろうけど、やっぱり力が入っちゃう。多分こういう時は眉間にしわが寄って歯を食いしばって、泣くのを我慢してる子供みたいな顔になってる。

この~なの?~なの?って何でも知りたがる子供っぽいのって僕の中にも居るんだよね。結構中心に。それが重なるのかな。

ずっと迷子やってるけど生まれてから今までの感覚ってこんな感じなんだよね。どこから来たのかもどこへ行くのかも分からなければ、それが何れ分かるという確証もない。切ないね。

『荒野』って言葉も好き。東京砂漠とか好きだし。『独り』は今特に意識させられてるし、『歩き出してる』も、何で歩いてるんだろう?人は何で歩くんだろう?って同じ道を散歩しながらよく思う。それに、歩き出してるってことはさ、終わるまで止まれないんだよね。立ち止まりはするけど。

最後の部分はまぁ…

 

二番?のこれも凄く重なる。

ヒトは歩き続けて行く
ただ生きてゆくために

この虚無感。どこか希望も見え隠れするけれど。

 

あとは経験のタトゥーとかもそうだけど、『深い大きな何処か』が直線的に重なるかな。深いって好きだよね。深く深く、奥へ奥へ。一体君は何を目指しているの?

一番最後の『僕は僕のことが知りたい』も切実すぎるんだよなぁ。

 

もう人生の半分はとっくに生きたと思うけどさ、やっぱりこの曲、好き以上に好きだなぁ。歌詞や坂本さんの歌い方も好きなんだけど、作曲菅野さんなんだね。調和してる。

でもなんでhemisphereなんだろう?半球の存在はもう片方の半球、そして球があったことを示すから?対極?影?不完全?片割れ?シンメトリー?切望?

 

それにしても4日間に3回も更新したのっていつぶりだろう?

しかも公開するボタンをクリックするくらいにまとまって出てくるって。最近は気になること少し書いて下書きポイってパターンが多かったのに。

排出。燻ってる?アウトプットが必要なのかな。それだけ内側が動いてる。ぐちゃぐちゃしてる。だから色々出てきてる。何人も。自分が何人居ても寒さは変わらないや。うぅ。

愛着の続きの続き 依存 欲求 内観と自己理解 健全な関係 『形が変わる』

記憶の中の感覚について、気になってどうしようもないので以前ブログで交流のあった方に相談してみた。とても広い方。

 

内容自体については僕自身が確かめることができるものではないから何とも言えないのだけど、こういう自分より広い尺度の見方に触れると何かしら気づきがある。というのは多分、何かに囚われている時は普段よりも更に狭いものの見方しかできなくなっているからだと思う。今回も呆気なく引っ掛かりが溶けてくれた。あんなに深く悩んだのに。

 

温かい姉のような存在の感覚意的な記憶。僕はその記憶の扱いに困ってたんだなって思った。事実かどうかわからないのに何でこんなものがあるんだろうって。そして何の根拠もないこの感覚がどうしてこんなに大切なんだろうって。

 

引っ掛かりが溶けた時に思ったのは、それでいいんだと思った。その記憶は僕が必要な時に守ってくれたし、小さな頃家庭で上手く育めなかった愛着の片鱗を与えてくれたし、それを通して姉さんと僕を繋げてくれた。

僕にとってはそれが事実であって、この記憶に客観的な根拠なんて求めるのはそれこそ無意味だと思った。記憶が朧気ではっきりと見えないのは歯痒いけれど、それはそれで儚いものが好きな僕にはぴったりじゃないか。そう思えた。

だからすーっと、今はもう必要のなくなったこの記憶、感覚に囚われる必要も感じなくなったし、感謝と共に記憶のアルバムの片隅に大切にしまっておこうって思えた。
手放すのは性に合わないしね。

 

戸惑いもあったけど別の場所で心理的なサポートもあったし、一瞬で整理できた。後押しが欲しかっただけかもしれない。

感覚は囚われなければ形を変えることができる。この愛着も次に繋がるのだろう。そう思えた。泣くこと、感情を解放することの鍵に、力を抜くことの鍵に、委ねることの鍵に、この感覚が必要だと思ったのだけれど、仮にそうだとしても姉だのという概念に縛られる必要はないなと思った。ただこの感触と香りを覚えておけば、次の何かに繋がるはず。そう思った。

 

これが解決しないと次に進めないような焦りから前のめりになってしまっていたけど、今は大分穏やか。そもそも今までハードモードでやってきてここで色々解決しちゃったらこの後の楽しみが減っちゃうかなと思う程度には迷子エンジョイ勢だからね。

自分は一向に分からないけど自分の性質は大分わかってきた。

 

ということでこの課題は『一旦』お開きかなと思う。姉さんありがとう。

 

 

愛着に関しては、特にそのスタイル・性質については、やっぱり自分の個性として捉えるの心地良い。それだけ深い欲求を生むものだし、変えようとするよりは受け容れる方向が僕には合うと思う。

愛着の形も依存も、問題になるのは無意識、無自覚の場合だろう。これって自覚し、意識した時点で徐々に形が変わるものだと思う。そうならざるを得ない。自覚してても繰り返すなら中身がしっかり見えてないだけではないだろうか。すり替えや欺瞞ではなく自分が本当は何を求めているのか、自分が目を逸らさず見つめてあげればいい。自分以外に誰が理解してやれるというのかという話で。薬物依存とかになるとちょっとあれだけどね。

これは僕の感想で一般化できるものとは言わないけど。

 

お腹が空いてる時に水を飲んでお腹が膨れても一時的に少し満たされるだけ。本当に身体が求めるものを食べればこの上なく満たされるし長持ちする。だからって満たされようとし過ぎてお腹が空く前に食べ物入れてもあんまり満たされない。それと同じ。

本当に満たされたいなら自分が何を求めているかをしっかり見つめた上で、満たす機会が溢れる現代では、ちょっと我慢して身体がそれを求める感覚を味わうことも必要なのだと思う。だからって我慢ばかりしてると我慢の達成感に味をしめて別の欲望にすり替わっちゃうのだろうけど。

だから無自覚に欲求に流されることは問題を生むし、負のサイクルやスパイラルに陥るし、報酬の質的な意味でも勿体ない。

それが本当に生を楽しむために自己理解や内観が大事ということだと思う。僕が快楽主義者なのに自制的なのはもっと上の快楽を目指してるからなのかもしれない。

 

僕の場合は、お姉さん願望的なものがあることに気付いて、そこから自分の人間関係を振り返って、そこには年上の女性が多いことに不安に駆られ、また姉さん役になってくれたあの人との記憶に繋がり、その幼少期の記憶にそれらが繋がって、愛着を意識することになって、でも知り合いに年上の女性が多いのは単に僕の性質上波長が合いやすいだけだと気づき、愛着には与えられた強い優しさや温かさ、感触があって、結局求めていたのはそれに包まれた時の安心感であり、その安心感が欲しい理由は身を預けることでコントロールも何もなかったから。そしてそれは今解けないコントロール、緩まない緊張に翻弄されているからで、泣けない現状を抜け出したい、感情をどうにか解放したいと思っていたから。という風に要約すると短いけど結構な時間をかけて繋がっていった。

捉え直しを意識すれば、お姉さんである必要はないし、この安心感に対する欲求は現状必要なものだし、っていう風に集まったピース使ったパズルゲームが始まる。これはご褒美の楽しいミニゲーム。

 

 

愛着の投影と依存の問題は僕は捉え方の問題だと思ってる。

そもそも依存を恐れて忌避する理由が分からない。依存そのものを恐れるよりその形が健全か不健全かを自分、そして関係の二つの視点で評価して健全ならそれでいいし、不健全ならどうするかを摸索すればいい話だと思う。投影なら自己理解を通して形も変わる。

 

欲求や健全な関係と言うと同性カップルや変態文化に関してのエマ・ワトソンの言葉がやっぱり僕はしっくりくる。

 

A lot of the healthiest relationships I’ve seen have been between same-sex couples because, I think, they have to sit down and agree [on] things. They agree [on] things between them as opposed to [accepting] certain sets of assumptions and expectations that are made.

I’ve also kind of become slightly fascinated by kink culture because they are the best communicators ever. They know all about consent. They [understand] that stuff because they really have to get it — but we could all use those models; they’re actually really helpful models.  Emma Watson

 

www.emmawatson-updates.com

 

 

健全な関係のための対話の重要性、そして後半の変態文化の部分では自己理解の重要性も説いてる。自らの欲求を満たすためには自己理解が必要で、それを満たせる健全な関係のためにはコミュニケーションが必要。

 

以前から僕は赤ちゃんプレイに興じるおじさんについて似たようなことを思っていた。赤ちゃんになりきるおじさん。そのおじさんにミルクをあげる女性の動画。アメリカ人だったかな。そのおじさんを馬鹿にするような内容だったと思うけど、僕はただ凄いなぁ、幸せそうだなぁとだけ感じた。その理由はその時は分からなかったけど、後々物思いに耽っている時に上のエマ・ワトソンの言葉と同じような結論に至っていた。

社会通念的な価値観を通して見ると不健全なものが、その人やその人達にとって不健全かは別の問題。そして大概前者は自らは健全側の一員でありたい、不健全になって弾かれたくないという類の恐れがあって、それに根差した単なる表面的なジャッジメントだと思う。

だからある意味、そういったアブノーマル(僕はそうは思わないけど)と言われる欲求を合意の上で満たし合えている人達は、社会的に見て健全とされるモデル的な関係の中で深い欲求を抑えている人達よりも健全と言えると思う。

これもエマ・ワトソンの他のインタビューなんかで似たような文言を見かけたような気がする。この人、僕とは全然違う人生なのに同じようなものを見てるんだなぁって思った。

 

幼少期の愛着に端を発する欲求もこれらと同じだと思う。欲求や欲望も満たされるために必要だから在るもので、忌避するものではないはず。何故それを恐れるのか、そこにある不安や恐れだって自覚すれば形が変わるものだろう。社会的にはその不安や恐れの源を認識してるはずなのに、なんでそのものを避けようとするのだろう?でも多分、そうやって避けるという行動が合う人も居るんだと思う。キラキラ(チクチク)したある種のスピリチュアル系の人とか(叔母とか)も、ある意味そういう突き抜けた部分的な肯定で幸せを感じて生きているのだから、それはそれでいいのだと思う。

ただ、受容とか統合っていう方向が合う人がそっちに巻き込まれると災難だろうなとは思うけど、結局はそこも自己理解のためのステップなのだろうから…

 

長々と書いたけど、今は大分気分が晴れてる。また自分の方向性が、流されてる川の流れが見える範囲が広がった。

それにしても今日は『形が変わる』って何度も書いてる。多分今はそこに何かを求めてる。長州力になりたいのかな?

っていうのは冗談だけど、こういう時はまだ本当の意味で理解していない。落とし込んでいないけどその言葉にどこかで必要性を感じていて、それで使ってる。いつもそう。

投影なら受け容れる方向に意識をすれば形が変わるのは当たり前だけど、もっと根本的なものな気がする。いずれにせよ、新しいキーワード。

 

それにしても、非物質的なものに対してかなり受け容れることが出来るように気がする。今回も物質的・客観的な事実への固執が結果的に負けたという側面があると思う。

あの人の死に対するどうしようもない悲しみも少し薄れた。妥協したいわけではないのだけど…でも少しぐらい可能性を想うことは、悪いことではないのかもしれない。

愛着の続き から 記憶の中の感覚 コーヒーミル "Passes" - Helen Jane Long

最近またこれについて考えてる。

 

hasriq.hatenablog.com

 

自分の中で色々繋がっていくけれど、決定的なことはまだ分からない。

このことを考える時浮かぶのがこの曲で、思った以上にこの感覚とリンクしていることが分かった。大好きな曲で時々本当に必要になって聴いてたのね。この曲に温められていた部分が、自分の愛着の部分と繋がってる。と言うかそのものかも知れない。

単に外の世界が辛くて、それに疲弊した自分の安全地帯のようなものかと思ってたけど、呼応している部分はもっと奥にある。

ハンガーゲームって観たことないんだけど、姉が妹を寝かしつけるシーンからインスピレーションを得て作られた曲らしく、この歌詞の「大丈夫」とは裏腹に姉妹は大丈夫じゃないことを予期してる。それが色々と被るみたい。本当に色々。本当に…

 

現実からも目を背けさせようとする強い優しさ。

この感覚、記憶の奥底にあるこの安心感をなぜ求めるのかと考える。僕はこの類の安心感を実際の経験を通して感じたことがないように思う。

頼ること。

 

色々あったことも手伝って、昔から家族に色々頼って迷惑をかけてきたとそれについて負い目があった。そういう意味では頼ってた。お金とか生活とか。

でもこの僕が渇望する安心感に足りないものの一つとして浮かんだ言葉が、relyで頼るなので、少し困惑していた。でも昨日ふっと浮かんだのは、精神的に誰かを頼るというのは、物質的に援助を受けるのとは意味が異なるということだ。

 

愛着については親から上手く受け取れなかったと書いたけど、それは母が僕にとって同情の対象だったから。DVを見て育った影響は思わぬところであるんだなぁという感想。仲は悪くないんだけど、ただ、僕にとって割と早い段階からそういう対象にならなかっただけで。

兄弟は5歳下の弟と7歳下の妹だから、長男をやらないといけなかったしね(ちゃんとやったかは別として)。

そうなると僕は精神的により深い意味で人に頼ったことってあっただろうか?と思う。多分無い。依存させてしまったことはあるけど、怖くなって逃げだしてしまった。

頼ること、浅い部分ではできるんだけど、コントロールを手放すほどに誰かを頼ることはできない。でもそれが唯一できた記憶というのが、この朧げだけど生々しさのある、誰だかも分からない、実際に会った出来事なのかもわからない、お姉ちゃんという存在との記憶。そしてそれと同じものを求めたのが、死んでしまったあの姉さんとのひと時。

うーん…

 

コントロールは防御という言葉と結び付いた。防御。防衛反応。でも何から防御しているというのだろう。必要ないものが錆びついて取れなくなってるだけかもしれない。その状態に慣れ過ぎてどうしたらそれが外せるかが分からない。そもそもそれが外れたことなんて色々壊れてた期間くらいしかない。

解離。解離?解離か。そっち側に置いてきてしまったのかも。下手な業者が手を加えた配電盤みたいに配線がこんがらがって、どれがどこに繋がってるか分からなくなってる。解離だとして、どうしたら抜け落ちた自分は戻ってくるのだろう?そっちは今は置いておきたい。

でも確かに、姉さんとやり取りしていた時期は奥の方から別の自分が出ていて、頼れる気がしたんだよね。頼るっていうのは、身を任すこと。力を抜くこと。

どんなにリラックスしようとどこかで力んでる。一人で居る時でさえ。動かし方の分からなくなった筋肉みたいにずっと緊張している部分。温かさに包まれればそれが溶けるような気がした。今そんなこと思っても無いものねだりだけど。

 

人を頼る事って大切だというけれど、どうやったら頼れるかって調べても中々出てこない。どうしたら頼り過ぎないか、どうしたら依存から抜け出せるか、そんなのばっかり。

自立自立って、適切に頼れないのに自立もないだろう。無いものねだりなのは分かるけど。

 

ただでさえ人を頼るって難しいのに、精神的に頼るって本当に難しい。少し前から意識してみてはいるのだけど… どうしてもどこまでって考えちゃうんだよね。それは当たり前のことなのだろうけど、それを考えてる内はコントロールも外せないというのも当たり前なのだろうなぁって。だってどこまでって考えて出すって、結局内部処理して表現してるわけだから。難しい。

でも他者が居ない空間でもできないっていうのが分からない。防御も何もないのに。あ、でもそれは恐れなのか。コントロールを失うことの恐れ?何が出るか分からないことの恐れ?

仮に自分自身がコントロールしているとして、コントロールしている自分は自分なの?顕在意識側から見て自分の一部なのか、それとも自分だったものなのか。それで意味が変わってくる。きついな。

 

この感覚をどうしても突き詰めたくて、Pinterestで姉弟・姉妹の画像を集めたボードを作って眺めてみたんだけど、凄くこう、引き出されそうなものがあるんだよね。泣きそうな感覚もあるけど、やっぱりそれを知覚したとたんにスイッチが切り替わっちゃう。

朧気なのに生々しい感覚。一つ一つの画像を見て浮かぶ像が重なっていくと、それが一つの存在に近づいていくような感じ。知っているとしか思えない。それが過去の想像の産物だとしても、願望の生みだした幻想だとしても、僕が今、そしてずっと前から必要としてきたものには変わりない。誰なの?君は居たの?中に居るの?なぜ今は居ないの?なぜ僕は縋るの?

うぅ…

 

休憩。

話しをかえよう。

 

そういえばね、新しくコーヒーミルを買ったの。手動のセラミックのやつ。

挽いた方が電動で粉砕するよりも柔らかい感じがする気がする。

まぁ味はともかく、手動っていいよね。コーヒーは僕にとっては大切な嗜好品だから、もっと丁寧に味わいたくて買った。雑な造りの製品だからちょっと手が疲れるけど、淹れて味わうというプロセスに挽くが加わると、感謝も増してより丁寧に味わえる気がする。カリカリ回すという動作と共に香りも味わえるしね。

おすすめ。

 

今日はこの辺にしとこうかな。

 

 

そうそう、ここ数日はSafe & Soundばっかりだけど、この曲も時々頭に浮かぶの。

流れる風と共に揺れる木の葉のようでとっても好き。


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Helen Jane Longはイギリスの人らしい。大好きな曲いっぱいあるんだけど、特にこの"Passes"が入ってる”Intervation"っていうアルバムが大好き。もうすぐ新しいシングルを出すらしくて楽しみ。

携帯の修理 『GRIS』『Muse Dash』 宇宙と観測

携帯、中古で押し売られたiphone5sをもうずっと使っていて、流石にもうそろそろ限界だと思っていたのだけど、ちょっと困るタイミングで起動しなくなったので修理することに。LCDと電池交換して約5000円。5000円払うなら…とも思ったけど緊急だったし致し方ないね。

最早サイボーグ。また買い替えのタイミングを逃したけど、これでまだ暫くはこの子と一緒に戦える。

アプリも使えないのが増えてきてるからこれが最後の修理かなぁ。Sim入れて携帯として使わなくてもウォークマンにはなりそうだけど。

 

 

最近steamで2つゲームを買った。一つはGRISってやつ。アートを利用したゲーム表現っていうのは沢山あるけど、これはゲームを利用したアート表現だと思う。システム自体はシンプルだけど、だからこそ世界観や音楽に入り込むことができる感じ。言葉の無い世界に色々満たされる。

良き。おすすめ。


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もう一つはMuse Dashっていうリズムゲーム。元々はモバイル用に作られたのかな?もう4周年らしい。

音楽系のゲームって苦手だけどこれは上下2つしかラインがなくてそこまで難しくないし、手軽だし、リズム感を養うのにはいいかも。最近色々衰えてきてるから脳トレにも良さそう。

キャラも世界観もポップなかわいさの雰囲気がとても好き。曲は普段僕が聴かないし全然知らないジャンルの物ばかりで新鮮だし、いいなぁと思うものが多い。日本語と中国語の曲が入ってて、中国語の歌詞は分からないけど曲は素敵。

このゲームの難点を挙げるとすれば目の負担が大きそうということだろうか。キラキラしてるのが良さだけどそのせいで見辛いしね。

基本版はとっても安いし色んな端末で出ててこのゲームもおすすめ。


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ところでさ、宇宙っていいよね。

ハッブルの撮った画像見てるとなんか泣きそうになる。美しさに感動してるっていうのも確かにあるんだけどそれだけじゃない。多分、どう足掻いても人智では手の届かない宇宙の壮大さ、可能性、その本当に外側のほんの一部だけど、今までの人類が触れることのできなかったものに触れているという不思議な気持ちがそうさせるんだと思う。

 

想像が追い付かなくてバグるのか、イメージした宇宙空間の中で迷子になるような感覚。たった一つの銀河、自分がいる銀河だけでもどれだけの恒星や惑星を擁してるのか想像もつかないのに、その他の観測可能な物質の集合や観測できないものがどれだけあるかも想像つかないのに、そんな銀河が無数に存在する。見えてるだけで無数なのに、更に望遠すれば更に無数で、もっと望遠すればもっと無数で、その空間の広がりに頭がおかしくなりそうになるけれどそれがとても心地良い。

 

ハッブル後継のウェッブからの画像が数日前公開されたのも見たけど色んな意味で感慨深い。宇宙観測も一つの転換期を迎えてる。

天文学、特にこういった太陽系外の観測は現代科学の中では軽視されがちだけど、個人的にはこんなに意義深いものはないのではないかとも思う。観測。ミクロの観測もそう。

科学が何を目指して発展してきたのかは分からないけど、その技術の発展によって人は、マクロ・ミクロ双方に見える世界を広げることによって自分の立ち位置を、存在を、明らかにしようとしている。

マクロな意味で観測できる世界が広がることはそれは相対的に自分の小ささを認識することだ。距離的にも、時間的にも、この地球という惑星という一つのまとまりに対する数的にも、人がここまで自らの小ささを認識した時代があったのだろうか。

ミクロから見れば解明されていく物質としての人体というものが、これもまた宇宙のような広大さもって認識される。脳とニューロンの関係を宇宙と銀河で例えられるように、数的にも、距離的にも。そういう意味で、人がここまで自らの大きさを認識した時代があったのだろうか。

広がっていく観測可能なマクロに自らの小ささを、広がっていく観測可能なミクロに自らの大きさを、相互に当てはめながら眺めている自分は合わせ鏡の内側に居るかのよう。

ガリレオも、それより前の人も見ていない世界を、現代人の多くは誰しもが覗くことができる。自分という概念を対価に。科学の利用法にこんなに意義深いものがあるだろうか。

 

とかなんとか宇宙に浸ってるけどもう日曜も終わりだよ…やだー、お仕事したくない!

宇宙に居たいよぅ…

 

ハッブルからのイメージを動画にまとめたやつ


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NASAのハッブルの画像ページ

www.nasa.gov

画像開いた先でDLマークみたいなの押すともう少し大きい画像見れるよ!PCからしか開いたことないけど

 

この前のウェッブのハイライト


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うぅ…3時過ぎまで起きてたい…

孤独感 から テレパシー 切なさ Doja Cat - "Mooo!"

孤独感って天気のよう。何となく読める時もあれば急に来ることもある。今は何だろう、真冬と言うよりは葉が散りかける秋のような感じの孤独感。柔らかい静けさ。時折吹き抜ける冷たい風。

この寒さを人々はどうやってやり過ごしているのだろう。みんな孤独なの?そうでもないの?そんなことすら分からない。切ないね。

 

こういう時に決まって思い出すのは小さな頃なんだよね。寂しかったのかな。わかんないや。いつも独りだった。家族と居ても独りだし、友達と遊んでいても独りだし、何かの行事で沢山の人と何かしてても独り。独りじゃないじゃんって思うかもしれないけど、独りは独り。別に誰かと居たかったわけでもないんだけどね。

それでも人と過ごしてとても楽しい時間っていうのはあって、でもそんな時間はずっとは続かないから、もっと独りに戻ってしまう。昔から何も変わってないってことなんだろう。

 

色んな孤独があるのだろうか。人と過ごしていれば感じなくなる孤独とか、そういうのもあるのかもって世の中を見てると思う。

僕のこれは人と過ごしててもあまり変わらないやつ。コミュニケーションの成り行きによってはより意識しちゃってもっと孤独感が強くなるかもしれない。

自己開示しないからってわけでもないと思う。だって自己開示なんてしたところで何が伝わろうか?出たな。

それにしても捻くれてるなぁ。でもまぁわかる。そういうやり取りで伝わる事にはあまり意義を感じないわけだね。ただただ煩わしいとも思ってる。そして何が伝わろうか?なんて言葉が出るなら、伝わらないと諦めてる何かがあるわけだ。でもそれはもう薄っすら見えてるよ。

青空に浮かぶ雲。夜空に浮かぶ月。その光景から湧き上がる気持ち。そりゃ確かに伝わらないね。平安時代の人間?でも確かに、和歌なんかを読んでもとても切なくなる。伝えたい気持ちが言葉を生むわけだし、和歌ってその純然な形でしょ?当時の人はどんな気持ちで詠んだんだろう。

気持ちや情景と言う莫大なサイズの情報を言葉っていう、しかも型のある、いわば二重の型枠にコンパイルするわけでしょ。想像しただけで胸が苦しくなるほどの切なさ。

 

どうしたら切なくないのだろう。

同じ種類の孤独と孤独なら、孤独でなくなるわけではないけれど、穏やかな時の中で寄り添えるだろうか。孤独は人生そのもののようなものだから、結局はこの瞬間が一番孤独に意義が生まれてる時なのかもしれない。切なさも優しい微笑みに変わる瞬間。

 

孤独自体はなくならない。自分が自分で在ることに端を発しているのだから。

これは人間が言語を通じてばかりでしか意思疎通できない内はなくならない孤独なのだと思う。テレパシーでも使えたならって思う。憧れるよね。テレパシー。SFだと宇宙人がよく使うよね。あれにも種類があるのかな。すーっと全てを感じ取らせるタイプ(これは何かのガンダムでもあった気がする)もあるし、記憶そのものを移植するようなタイプのもあるし、経験として光景を埋め込むようなのもあるよね。いずれにせよ情報量は言語とは段違い。

テレパシーってただの願望が生んだ概念なのかな。ユングもテレパシーって言ってるよね。共時性とか集合的無意識とか夢が広がるけど、ユングという人は彼そのものがとても深い孤独の中に居た感じがするから、色々こう思ってしまう。

 

人間も進化したらテレパシー使えるようになるかな?

利便性が向上すれば向上するほど必要性が薄れるものならば、逆に退行に向かうのかもとも思うけれど、その利便性の向上が言語の限界を見せてくれるのなら、そういう方向に向かわないだろうか。

何のために?そんなことやり取りしなくても死なないし、人類は繁栄したし、文明は発展したし、そう考えるとやっぱり難しいかな。こんなに寒くて切ないのにね。

 

切ないってよく思うけど、そもそも切ないとは何なんだろう?疎外感とは違うよね。内外の温度差を実感した時に感じるかな。自分っていう箱の内側が分かるのは自分だけってことを思い知る瞬間と言うより、ああやっぱり隔たりがあるんだな、でもそれも仕方ないなっていう諦めに似た許容のようなものがある時にとても切なくなる。

独りが当たり前でも、そこに心地良さがあっても、同時に寂しさや切なさや寒さもあるんだよね。でもだから感じる美しさっていうのもあって、それって素晴らしいことなのだと思う。色んな部分で、人間という存在はそういうものを積み重ねてきたし、それぞれが繰り返し経験し続けてるものだと思うし、何かを生んだり原動力になったりするものだし、そういった意味でも寂しさや切なさっていうのは人間にとってエッセンシャルな部分があるのかなと思う。

冬の寒さが新しい情景を生み出してくれるように、この時々やってくる寒さも何かを生んでくれるのかなとは思う。寄せては引き、沈んでは浮き、そういう類のものだから、孤独感も楽しむぐらいがやっぱり合うのだろう。

 

 

これ久々に聴いたけどやっぱり好き。


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原点にして至高だと思う。

売れて活動費ふんだんになってもグラミー取ってセレブリティーになってもこの心は忘れないで欲しい。