感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

靄 宇宙空間 キリギリス Life sensitive 区切り Sid Acharya - Tales of Time

雨上がりの涼しい風。散歩を始めた時は空一面を雲が覆って真っ暗だったのに、20分も経つと雲が抜けて星が見えた。街の星は少ない。寂しくもあるけれど、雨上がりの透き通った空に見える星は希望を感じさせる。位置を、方角を示す星々。そこに見る道筋を信じるか信じないかさえ人に委ね、ただ星は示す。

ほんの少し前まで雲に覆われていたのに、風の流れとともに一気に晴れ渡った空。そんな空が羨ましいと思った。

消えない靄の中彷徨い続けてどのぐらい経つだろう。この靄はいつか晴れるのだろうか。何をすればいい?どこへ向かえばいい?わからない。

善悪、正誤の外側、答えを求めない生き方を選んでからというもの、より自分らしい迷子になったとは思う。迷う道すらない宇宙空間に投げ出された気分。

二元はどちらに流れようと道や川のように幅がある。引き合ったり反発する中で、無自覚であろうと自分の位置がある。ジャッジメントだって自分の位置があるから生まれる。答えというのは標識のようなもの。それらの中に生きることはとても合理的なことだ。流れの中で役割があるというのは素晴らしいことではないだろうか。それがどんな役割であろうと。

 

僕はその中に僕自身が求めるものが見えないから一旦離れることにしたのだった気がするけど、長らくこうしているとどうしたら戻る気になるのかもう分からない。でも先ずは僕自身が求めるものを知るために僕自身をどうにかして知らなきゃいけなくて、問題はそれが思いの外難解だったということ。少しずつ少しずつ、でもそればかりで、そうこうしている内に何年経っただろうか。

何とか日常はこなしている(やり過ごしている)つもりだけど、外に見える変化が何もないのが不安なのだろうか。僕の生き方はアリとキリギリスで言えばキリギリスに分類されるだろうからね。でも僕はキリギリスの擁護者だよ?キリギリスやセミが身を危険に晒してまで音楽を奏でる理由は働きアリには分からないだろう。もしかしたら女王アリなら理解したかもしれないけど。どうでもいいけどね。

まぁほら、現実として外と関わって生きて行かなきゃいけないけど、未だにそっちに対する熱意というか活力が湧かない。そんな現実も固定観念なのかもしれないけれど。固定観念嫌いだから家族が居なければそれすら外そうとしてるかもしれない。そういう意味では家族は身近なストッパーだな。まぁそんなのはもう少し年取ってから外しても遅くはないだろうし。

 

外に見える変化が何もないとは書いたけど、より我侭になってる分好き嫌いははっきりしてる。そう考えると不安の原因は社会生活全般に関わるものが自分の中で『嫌い』に分類されていることだろうか。それでも生き方は色々あるけれど、今は一人で生きていいわけじゃないからなぁ。やっぱり限られちゃう。嫌いの中に。

長い目で見れば15年経てば抜けていいものだから、今は辛抱して生きるしかないのだろうか。そうね、ずっとじゃないならなぁ。全体的に見渡せると気が楽になる。その頃には、生きてれば靄も晴れているかもしれないし。

自信がない。生きてるかの部分に。弱気になるわけでも自殺願望があるわけでもない。ただ、活力が足りない。

森の中では湧くのになぁ。引っ越した方がいいのかな?アパートメントはやっぱり辛い。この区画だけで何千人も住んでる事実すら身体が理解できない。そのせいで凄く変な感覚に襲われる。

子供の学校があるから村に戻るのはまだ無理でも、せめて小さな畑ができるぐらいの場所に引っ越したら変わるかな。僕はコンクリートとアスファルトに囲まれたところに居ちゃいけないんだと思う。

 

Sadhguruが動画の中で言ってた。ちょっと待ってね。

あった。


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4:17からのsensitivityの話

Create sensitivity within youって言ってるけど、内外の感覚に対して意識的になって知覚の幅を広げること、更にはそれらを受け入れ、しっかりと感じることだろうか。

 

6:09~ You must become life sensitive. Then you will know how to manage every aspect of your life. Don't become ego sensitive. Don't become society sensitive. Life sensitive, if you become.

 

これは何だか今はよく分かる気がする。

Life sensitivityって僕にとっては新しい概念だけど、敏感を小分けした中で大切なものが詰まってる部分だと思う。正直Ego sensitivityが何を指すのかちゃんと理解してないけどそんなに重要でもないと思う。

大事なのはLife sensitivityの意味を僕の意識がさくっと拾った事、ということはそういう機だったということ。そして僕のそれがアパートメント生活に悲鳴をあげてるんだなぁと捉えたことだと思う。

 

そう、成り行きで住んでるんだよなぁ。自分で選んだわけじゃないし、自分で選んでたらここに住んでない。

最近同じようなことを考えたっけ。仕事。コロナの制限が解けても戻らずのままの仕事。区切りを付けるために正式に辞めようかなぁと思ってる。こっちも成り行きで始めた仕事だし、続けたくて続けてるわけなじゃないし、そもそもこの形態になると分かってたら選んでない。

そんなことに最近気付いたばかり。「自分で選んでたら~ない」って何で気付かなかったんだろう?何か怖い。

 

成り行きで生きてきた。それ自体は今は良いと思ってる。ただ区切りは少なくとも意思表示が必要で、そう、区切り。区切りかぁ…

それを今意識してるのも、僕の意味する成り行きの範囲内。気付きも成り行き。でも気付いてしまったら、そういう気持ちがあると一度目についてしまったら潮時だよね。だってその気持ちは変えられないもの。

宇宙空間の中で自分の軌道がちょっと見えた瞬間。

 

 

Sid Acharyaの新しいアルバム"Tales of Time”。全部好き。

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全部好きで何回も聴いてるんだけど、強いて挙げるなら一番好きなのは"Solstice"。

この人の作る曲って凄くこう、合うの。

Solsticeって至点のことらしい。夏至と冬至。もうすぐ夏至だろうなって思って調べたら夏至明日じゃん。区切り?怖い。

空への憧れ 残すこと・表現 コミュニケーションに対する苦手意識 

空、特に雲が好きで時々写真を撮るんだけど、僕はあんまり撮った写真を大切にできる人間じゃないんだよなぁって思った。

何で写真を撮るかっていえば、やっぱりその瞬間を残したいから。ある種の表現の欲求もあるのだと思う。

でも写真になっちゃうとやっぱり違う。綺麗に撮れたなぁとか、ここもう少しああしたいなぁっていうのは思うんだけど、数日経てばもうただの写真になってしまう。何でだろうなぁって思ってたんだけど、ちょっとわかったかもしれない。

 

 

写真ってどう足掻いても平面で、感想が綺麗とかいいなぁ止まりになるのはそこにあるのだろうと思った。勿論構図とか光とか、目で実物を見るのとは別の美があるのも分かるのだけど、それは僕が求めてるものではなかった。僕は見たものを見たままに残したい。虹を掴もうとするような我侭だけど。

 

雲を見てる時、写真と全く違うのは奥行きがあること。手前と奥の動きの差で認識できる奥行きもあれば、経験や知識で認識できる奥行きもあれば、実際に目で見てるものとは別の奥行きもある。その奥行きも一部なら写真で見て取れるだろが、実物の奥行きは見るだけでなく感じるものだ。その違いが僕にとってはとても大きいことに気付いた。

 

全天に広がる限りない壮大な奥行きの中で流れては瞬間瞬間に光を浴び、影を作り、形を変え、そうやっていろんな顔を見せる雲。

その限りない奥行きのある空間の中に僕は存在していて、五感と、もしかしたらそれ以上のもので広がる景色と繋がっている。視覚だけではない。知覚が絡み合う。だからこそ空の表情にこんなにも感情移入できるのだろうし、その空に包み込まれるのだろう。

 

わぁーっていう気持ち。ワンダーといわれたりするけれど、それが引き出された時の感じ。僕が写真に残したいのはその感情を引き出した空の表情で、だから見たままを写真にしたいけれど、いざ写真になると気持ちが薄れてしまうのだと思う。だってそれはもう切り取った小さな平面で、感動を生んだ風景を元にして作った写真に過ぎない。

Rawで残しても調整する気力が起きないから大体無駄になる。画像になって画面通す時点で解像度すら適度にあればいいやっていう気持ちになっちゃう。

 

じゃあ風景そのものを残せるだろうかって言うと無理だし、構図とかも好きだから写真もまだ撮るのだろうけど、前ほど熱心に残そうと思えないかも。

まぁ、残せないからより大切にその瞬間を感じられるのだろうし、そういう意味ではもっと大切に空を感じられるようになるかな。

 

そういう意味では僕が撮ろうとしてたのは空を見た時の自分の感情、気持ちだったのかもしれない。そりゃ写真に出来ないよね。自分の内面を反映してかやたらと光を落として撮ったりすることはあるけど、逆にそういうアプローチもいいのかな。

残すこと、表現すること。残したいのが気持ち・感情が混じったものなら、視点や構図よりさらに自己表現の領域に踏み込む。でもそれで出来上がるのも結局写真だしなぁ。

 

そういえば昭乃さんが音声動画で似たようなことを言っててそれが妙に頭に残ってた。
待ってね…

youtu.be

あった!

そう、情景を見た時の気持ちの表現。だから好きなんだろうなぁって思った。

 

僕は趣味で撮ってるだけなんだけど考えさせられる。僕は気持ちを表現したいの?一番苦手な部分。人に気持ちを見せるとか絶対無理。自分が描いた絵を人に見せたくないのもそこ。上手い下手の問題じゃなくて、気持ちって乗るじゃない?描いてる時も気持ちってあって、それを見せるのが無理。小学校の時から作文が苦手だったけどレポートや論文は大丈夫だったのもそれ。ここはほぼ自己対話で書いたものを匿名でポイ捨てしてる感じだからまぁ。

でも「嫌なものほどやりたいこと」「無理してでもやった方がいいこと」って教わったから、まぁそうなんだろうなぁとも思う。ここ数年趣味が減ってしまって悩んでいたけど、人に見せる見せないは置いといて、感情が表現できる趣味をやってみるといいってことなのかな。空の写真には自分の中でその点で限界を感じてるってことだろうし。

確かに、全天の無限の奥行きがあって移ろう空を空間ごと表現しようとしても到底無理だけど、その時の自分の感情を残すような表現ならハードルは下がるかも知れない。歯痒い思いはいっぱいしそうだけど。

 

そんな趣味あるだろうか。少なくとも空に関しては難しそう。すぐそうやって決めつける。気楽にいこう。

 

ところで、そもそもなんでそんなに自分の気持ちを人に知られたくないんだろう。気持ちなんて伝えたところで理解され得ないというのが僕の基本姿勢なのに、それじゃ矛盾してるのではないか。伝わらないなら知られたって関係ないじゃん。

 

コミュニケーションの苦手意識も近いものがある。僕自分のことコミュ障だと思ってたんだけど、自分がコミュ障というより、自分をコミュ障だと思いたがっているということに最近気づいた。合わせることはそれなりに出来るから、コミュニケーションでストレスは溜まってもコミュニケーションに支障が出るような場面ってあんまりない。これでコミュ障を名乗るのは本当に悩んでる人に対して失礼かもしれないと思った。

でも何でそうなったかと言えば、そこにあるのは苦手意識を覆い隠すための自己欺瞞。苦手なのは多分トラウマがあるから。そこに触れようとすると複合感情が働くから分かる。

そういう意味ではコミュ障というよりコミュニケーション・コンプレックス的な感じ。よくいう劣等コンプレックスじゃなくて、もっと広義な意味でね。

やたらと相手を傷つけてないか心配になるから、多分無意識の加害を恐れてる。っていうことは無意識に加害したような経験があるのだろう。まぁすぐに思い浮かぶのもあるし、元々周りとは感覚とか色々ズレてる意識があるから、幼少期から色々積み重なったんだろうなと想像がつく。

 

ズレに対する意識。

気持ちだってそうだよね。生きるために外に出しちゃいけないものって沢山あって、周りとのズレが大きければそれも多くなる。ほら、小中学校時代の色々な場面が頭に浮かんでる。道徳とか疑問だらけだった。でも疑問を持つことすら許されないムードってあるじゃん?そりゃ隠すよね。

それは周りがある中で生きるためでもあり、内側の世界を守るためでもあって。

 

でもそうやって処世する中でもやっぱり傷になってる体験っていうのは沢山あって、その都度枝分かれして置いてきてしまった自分っていうのが居る。コミュニケーションに対する苦手意識だって多分、本心を置き去りにしてきたからそうなってる。

複合感情を解消するというなら、それを見つけて、どうやってもう一度取り込んでいくかってことになるだろう。

 

ズーンと感情の中に沈むのは潜水して傷口を見つけるイメージ。それはとても具体的な視点。体力を使うもの。複雑に絡んだ感情を解いたり、膿出し、そして感情的な理解にはこちらが必要。

広い意識は人工衛星の視点。リラックス、心地良いゆるさ、軽さ。そしてインスピレーション。気付きや受容に大切なのはこっちだと思う。

双方があって初めて置き去りにした自分を取り込むことができるのだろうし、他者に寄り添うにも双方が必要なのかなと思う。

 

 

僕が憧れるのは空。雲も日も月も星も、光も闇も包み込む空。海に憧れる空。

空になりたい。空に還りたい?

重力や距離、視界に縛られなければどこまでも空。時空を超えても空。この宇宙に果てがあるのなら、空はそれより広いのかもしれない。

Personal Values test (3回目) から Luca D'Alberto - Yellow Moon

Personal Valueテスト 久々にやってみた。

2020-11-24

1. Inner Harmony 2. Peace 3. Authenticity 4. Freedom 5. Compassion 

2021-3-21

1. Authenticity 2. Inner Harmony 3. Peace 4. Freedom 5. Curiosity

2022-6-1

1. Authenticity 2. Acceptance 3. Love 4. Growth 5. Peace

 

少し期間が開いたし今回は大分変化があったんじゃないだろうかと思ったけど、そうだね。

一番上に来たのはやっぱりAuthenticityのまま。やっぱりこう、そう在りたいと思うのはまだそう在れてないと思う部分があるからで、だから一番上のままなんだとも思う。でもこれ抜きに、例えばそんな自分抜きにAuthenticな世界もあるわけがないとも思うし、逆に自分さえAuthenticであれば世界もそうなるのかなぁという気もして、だからやっぱり一番上にくる。

 

2にAcceptanceが浮いてきたのは最近の自分のトレンドだからだと思う。やっとこう、腑に落ち始めた部分。

 

3のLoveは何で浮上してきたのかって言えば、多分Acceptanceと一緒に上がってきた。受容っていうものをイメージすると相反する二つを外から包み込んでいるのはこれなんじゃないかって気がするからなのかな。元から軽視してるわけではないけど、愛って二次的な感情も含めて色んな出方があって、だからこう上手く掴みづらいものだとも思っていて。その中でもより根源的な、母性的な愛、無条件の愛とも言うけど、それに今は価値を見ているということなのだろう。

人生寒さを感じるばかりだから、少しでもどこかで記憶している温もりが欲しいんだろうね。

 

4. Growthはね、これは一つの価値観の変化だと思う。成長って言葉嫌いだったの。成長するのが当たり前、成長しなきゃいけないものっていう一般的な見方が嫌いで、成長は意思に関係なく続く現象だって思うから。何かのために、何かを求めてハングリーに成長するタイプでもないしね。

でも最近観たとある動画で受容について、「種はポテンシャルを秘めているもので、種の状態を不完全と言う人はいない。今の自分を種と認めることはまた花をつけて実を付けるという人生全体のプロセスを認めることでもある」って言っててね(うろ覚え)、それはこう、僕が前から抱いていた成長観と繋がるもので、だから受け入れたのだと思う。だから今は、人生を一つのプロセスとして見るなら成長という言葉にも価値を感じる。だからどうっていう種類の価値ではなくて、そういうものだっていう種類の価値。

 

5. Peaceはまぁ他のが上がった分相対的に下がっただけで、別に心境に変化があるわけではないかな。あ、僕がイメージしてるPeaceは世界平和的なPeaceというよりはInner Peaceとか、自他、場の空気のPeaceのこと。僕はほら、周りの影響受けやすいし、自分の中も不安定だからそれを求めるのだと思う。世界平和的なPeaceも思想的には大切な価値ではあると思うけど、僕はパシフィストではないからなぁ。

 

Inner Harmony, Freedom, Compassion, CuriosityはTOP5から消えたけど、多分その下に続いてると思う。Inner Harmonyに関しては前ほど渇望してるわけでもなくて、それはある程度のそれが手に入ったからなのだろう。以前に比べればだけどね。

 

こう見るとスタートラインというか、少し前の自分が前提として欲しかったものは徐々に揃ってきたのかもしれない。今上位に挙がってるのはパッと見ると在り方のものと思う。

在り方。そう在るためにどうするか、それを整えていけばいいのかな。

 

ただ何ていうのかな、生き方を模索したいのに出てくるのは在り方なんだよね。勿論、どう在ればいいか、在るべき方向が分かるのは大きいのだけど、どうしても「したい」に繋がらない。したいことが無いからAmbitionとかFameとかその辺を軽視しがちなのか、それともそれらに興味が薄いから「したい」に繋がり辛いのか。どっちなんだろう?両方?自分なりに在るうちにそれは生まれてくるものなの?わかんにゃい。

 

「何がしたいの?」という問いかけは辛い。昔からそうなんだよね。

したいことって分からないから決められない。皆当たり前のように決めていくけど、僕は殆んど成り行きでしか生きてきていない。

それは決められないからで、分からないからで、でも決して考えていないわけじゃない。寧ろ考え過ぎなぐらい考えてる。だから「何がしたいの?」「やりたいことは?」っていう問いかけは自分にされるのも他者にされるのも辛い。

 

逆に言えばここまで成り行きで生きてきたんだよなぁ。勿論小さな決断や行動はあったと思うけど。

結局自らを苦しめてまでやりたいことを考えて何になっただろうか。そろそろその現実を受け入れるべきなのかもしれない。

この思考パターンだよね。清々しいくらいに自分を変える気はない。ならやっぱり、尚更受け入れるしかないのではないだろうか。

受け入れるっていうのは、じゃあこれからは成り行きで生きる!っていうんじゃなくて、成り行きで生きてきたという事実をベースに、「成り行きではこうだね、こうなるね、こうなったね、じゃあどうしよう」的な感じのイメージだと思う。

 

もしかしたら考えるからいけないのかもしれない。行動が大事っていうじゃない?思い立つ→行動。

でもさぁ、行動に繋がり辛いこととかハードル高いことばっかり思いつくじゃん?

例えば?っていっても今思いつかないや。リストアップしないとダメかな…

 

そうそう、Personal Valueの並び替え、リストの各項目ごとに自分の思いつくことを書いてみたり、自分にとって価値が高いもの以外の基準で並び替えてみても面白いかも。苦手なもの順とか、嫌いなもの順とか、望むもの順とか、自分の思う特定の集団が抱いてる価値順とか、色々。今度やってみようかな。

 

 

これ大好き!


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後半の部分は特に引き込まれる。

 

この人の曲だとこれも好き!


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こっちはビデオも凄く好き。

僕は手って人のパーツの中でも特に大きな意味を持つパーツだと思っていて、なんかこう、うーん、上手く言えないけどやっぱり好きだなぁ。

思い込み 感情の蓋 弛緩と緊張 見えた「怖い」

コントロールが邪魔して蓋を開けられないから泣けないのかと思ってたのだけど、どうもそうではないということを指摘してもらうことで気づけた。

最初のイメージとしては固い蓋があって、それをこじ開けようとするのだけど泣きそうになるとスイッチが切り替わって蓋を閉じる方に力が入ってしまう感じだった。

 

でも「蓋は空いているように見える」「取れないと思い込んでるのでは」って言われた時に試しに取れると思ってみると凄く色んな不安や恐怖が湧くのが見えて、あぁ…って思った。

あぁ…っていう反応なのは、どこかで気づいていたからで、またこのパターンだっていう感じ。思い込み。

思い込みって指摘されると嫌な感覚が湧くものだけど、反発はなかった。不安、落胆、希望、恐怖、色んな感情が巻き起こる中、どこかで見抜いてもらえたのが嬉しいと感じている自分が居ることには気づいた。僕がその言葉をすんなりと受け入れられたのは関係性と信頼があってのことだろう。とっても感謝してる。

 

そこから一晩思いを巡らせ、コントロール、感情の蓋を開けるという動作のイメージは大分変化した。

緊張と弛緩。感情を出すのに必要なのは弛緩の方なのだと思う。でも僕は感情を外に出す場合、必要に応じて力むことで出していることが多い。これは結構昔からで、ある意味では感情の表出が演技、表現と同義になってしまっていたからだと思う。

演技や表現から実際の感情を引き出すっていうセラピーがあるけれど、それも弛緩があるから出来ること。力んでしまえば演技止まりになってしまう。

 

力む。

泣いている子供は力んでいない。任せている。

泣くのを我慢している子は手を握りしめ、歯を噛み締め、眉間に力を入れて力んでいる。

泣けないと言いながら後者と同じ動作をしているのが僕。

 

「いつか抑えなくても~」って言ってもらって気付いたけど、押さえるじゃなくて抑えるなんだよね。思い込んでいた時は感情をおさえるって言葉のイメージも押さえつける感じのものだった。だからコントロールを別の方向に働かせて蓋を引かせようとしてた。抑えるの場合は違う。抑えないようにするというのはlet goだ。放す。任せる。蓋から手を放すこと。

 

単純で当たり前で知っているはずなことなのに全く違って見えてしまう。思い込みはいつもそう。

 

僕が泣けないのは自ら蓋を押さえつけてるから。開こうとする素振りだけして、ちょっとずつ開けようとして、いざ開きそうになると閉じる側に力を入れてる。コントロールという意味ではすべての動作をその中に入れてる。

感情のコントロールとは感情を出すことも含めてコントロールというけれど、そういう意味では別のことをしてる。

 

それでもずっと、自分がしているコントロールが煩わしくて外したい外したい、いっそ壊してしまいたい、動物になりたいと思ってきた。動物に失礼。

 

感情で失敗したことがどれだけあるかは分からないけど、外に出される感情に翻弄された幼少期の家庭体験で、感情を出すことをネガティブに捉えているのはあると思う。僕がお酒飲まないのもそれが手伝ってるしね。

元々の気質がどうなのかはもう分からない。

 

全て意識下に置いておかないと気が済まない所があって、自分がコントロールできなくなりそうなものには手を出さないという手段でそれすらコントロールしようとする。よくよく考えればちょっと度が過ぎているかもしれない。

 

何でそんなにコントロールしたがるのか。コントロールを外したらどうなるか、そこでいの一番に出てくるのは「怖い」だ。一言でいえば怖い。怖いよ。怖いがいっぱいある。それに続いて不安やら色々が出てくる。誰かしらが出した感情にまつわるトラウマだらけ。わかるよ?それをトラウマにしてるのは自分の受け方だって。でもそんなの子供には分からないよ。

 

それだけじゃない。トラウマを解消しようとして記憶に向き合おうとした時に出てきた色々に翻弄された記憶がトラウマになってる。それはここにも以前書いた。パンドラの箱だったって。

はっきりした歳は覚えてないけど、CPTSDの診断を受け、暫く薬漬けの日々を過ごした後どうにかしなきゃと思ってEMDR療法を受けた。当時電車もダメになってたけど頑張って乗ってね。

EMDRは目を左右に動かしながら記憶を消化していくような作業を何回か続けて受けるみたいなのだったと思うけど、その帰り道、抜けている記憶がある事に気付いて、それを開けた。それが本当に氷山が崩れるような感覚で、どっとその中から感情やら記憶やらが一気に出て来て、本当にわけわからなくなっちゃった。道中の記憶はもうないのだけど、なんとか家に着いてからは薬色々飲んで一刻も早くと意識を落とした。

本当にひどい経験だった。フラッシュバックもきついけど比じゃなかった。単体じゃなくて塊が来る感じが全然違った。

それが本当にトラウマになってて、感情の蓋を開けることに対する一番大きい「怖い」はここに繋がるんだと思う。そしてこの時に蘇ったものはまた解離してしまって手の届くところには今も無い。人間って本当に都合がいい作りをしてるんだろうなって思う。

 

単純な話、この仕舞われてる記憶っていうが感情の蓋を開ければ出てくるものな気がしてる。だから怖いのだろう。トラウマにおいては記憶と感情はある意味同質だから。

記憶の氷山だってその時に崩れたものが全てだかは分からないし、他にも何が出てくるか分からない。感情のごみ屋敷だからね。未消化の感情の消化とかやってはいたけど、焼け石に水程度のもの。第一の本丸はここにある。

 

逆に言えば、蓋を開ければ記憶が繋がるかもしれない。そうすればどこか途切れた自分、外傷体験の最中だけでなく、それ以前の自分とも繋がるかもしれないという希望はあるかも。少なくとも、事後作られた自己ではなくなる。それを将来的に必要として、その準備として今回自分を崩し始めたのだった。そこでこの思い込みが外れたのだから、準備ができたと捉えられるのだろうか?

 

でもこればっかりは踏ん切りがつかない。今は状況が違う。家族が里帰りでもすれば自己対峙する時間というか、空間は出来るけど、そうでもないと難しい。僕にとって家族はそれを晒す対象ではないしね。変なとこプライド高いんだよなぁ。

 

それだけじゃない。蓋を開けるのに弛緩が必要と思ったのはいいけど、そのリラックスはどう確保できるだろう?想像しただけで強張っちゃうのに。この感情の蓋に対峙するのは一人じゃ難しいと思っていたのは多分これに繋がる。安心感、それこそこの前書いたお姉ちゃん的な存在はそれを求める自分が居るからなのだろう。

でもまぁ居ないし、瞑想か何かでどうにかするしかないかな。でも多分厳しい。

 

本当なら睡眠薬とか安定剤とか用意したいレベルだけど、今更そっちに戻りたくもない。それでいざODでも起こそうものならそれこそ姉さんに合わせる顔もないしね。

 

感情を出すためのリラックス、ちょっとずつ出せるように練習するにも、いつドカッと出てきちゃうか分からないからそれも怖い。怖いことだらけ。

怖いと思うと力を緩められない。そこにもまた思い込みがあったりしてね。そうだとしてももう何も驚かない。

 

プロを頼る?流石にここじゃそんなプロいないよ。居てもこんなやり取り外国人の僕には難しい。日本に戻った時が機会かな…いつ一時帰国するんだろうか。

いや、プロに頼るって、そんな短期間に自己開示して更に身を任せられるほど相手を信頼できるだろうか。僕が。やっぱり一人暮らし期間ができたらそこでってなるかな…

 

 

こういうこと考えてるとつい溜め息が出ちゃうけど、全体的にそれでいいって思うことにしたんだった。深呼吸する。意識を広い方に戻す。ゆっくり。大丈夫。

今手は出せなくても大きな一歩なはず。

 

とても大きな気付きでした。ありがとう。

 

 

昭乃さんを貼って浄化しとこ。


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この曲も大好き。この曲最近プレイリストの上の方に移動した。そういう気分なのだと思う。精神安定剤。

信長の野望に入ってた曲らしい。やったことないや。

この前気付いたけど、昭乃さんって母と同い年らしい。そのくらいなのは知ってたけどぴったり同じ年だとは思わなかった。

そんなに上なんだぁって思うくらい純粋な可愛らしさを今でも持ってるのに、結構若い頃から光も闇も包み込むような、とても受容的で深い温もりのある歌を作ってる。不思議な人。大好き。

 

あとこれ最新アルバムの『ミツバチの羽音』に入ってるdream,dream


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アルバムの中でこの曲が一番好きかも。

昭乃さん初のLyrics videoらしいけど動画の雰囲気もとても好き。もっと出して欲しい。

否定・肯定・受容 受容性の投影 自分崩しと人生のフェイズ "Once Upon A Time” Evgeny Grinko

否定は(肯定と一緒に)外から入ってくる

それに抗うのが肯定(であり否定)

肯定と否定は表裏一体の二元

表裏一体の二元は片方が存在する為にもう片方が必要

肯定が生まれれば否定が生まれるし、否定がある所には既に肯定があるともいえる

肯定に生きようとすれば同時に否定にも生きることになる

肯定も否定も後から消せるようなものではない

今に生きる、(何も知らぬ子供のような)ただ在るという状態では否定も肯定もないが、その状態で生活することは不可能

ただ在るという状態を優位に立たせれば他の状態を蔑ろにする

個性化のためには否定による肯定、肯定による否定で個を切り離す期間が必要

二元は双方内包するのだから折り合いをつけない限り苦しみは続く

ポジティブに吹っ切れて生きる事ができる人もいるから、これまで書いたことが万人に当てはまるのかは分からない

 

受容は肯定も否定も(その他も?)包み込む

受容は二元の外側に出て絶対的な肯定や絶対的な否定を生む一つの手段

無理に肯定・否定できないもの、それができないこと自体も受容は包み込むことができる

受容の生む楽観的な落ち着きは苦痛の中の当事者にとって受け入れ難い(不理解に映る)

 

投影は鏡を使って自他を構成する為の一つのシステム

否定的な投影だけでなく、肯定的なものも、受容的なものも投影

否定性の投影は脊髄反射的なので目立つが、受容性のものは受容的な穏やかさや余裕という形なので見えづらい。

 

仏陀の姿勢を見下しと捉える本があるが、それも著者の投影ではないか?

双方を受け容れている受容の姿勢は母性に似ている気がする

受容ベースの自分は前から居る 。人は元々持ち合わせている?

 

 

みたいな感じのことを最近落とし込みかけてる。

 

先週から自分崩しが始まり、今も真っ最中なので不安定。びっくりするぐらいの希死念慮を溜め込んでいたことを思い知り、流石に危なかったので以前アドバイスをもらった人にお願いしてやり取りしてもらったりした。

自分崩しが必要になったのは建て替えのため。簡単に言えば、色々あった人生の中で第1、第2、第3の人生と区切りを設けているのだけど、その区切られた自分ではもうだめだということだと思う。

この区切りは必要だったから出来たもの。

 

第2と第3の区切りはCPTSDやその他の症状が治まってきたことで、これ以上症状やそのラベルに振り回されるのはやめようということで故意に区切ったもの。

日本を離れたこともあって、心機一転という意味で長らく書いてた当時のブログなんかも消して。すり減らす減薬も経て1年かけて断薬し、森の中というとても恵まれた環境の中で癒すことができた期間。そうすることで新しい自分を生きる期間となったし、新しい価値観も生まれたし、色んな捉え直しを経て個性化も進み、自己否定なんかも無くなった。

 

第1と第2の区切りはもっと根深いもの。これは外傷体験の時の解離で自分が自分から切り離されてしまったところから。生存本能というのは時に残酷で、生きるためには自分なんてものはいくらだってバラバラにする。今の僕はこの時の産物で、だから自分の記憶の中でもアクセスできない部分がいっぱいあるのだと思う。それ以前の僕と連続性を失っていると言って差し支えないと思う。自分なのに自分についてわからないことだらけだし、それ以前の僕の記憶に他人感があるし、間借り感だってある。感覚的に過去の自分と繋がってない人間がどうして自分を生きることができる?そうしないともっと壊れていたのかもしれないけれど。

 

こっちはいずれどうにかしなきゃいけないものだけど、先ずは第2の部分を取り込まなきゃ自己受容という意味でも、これ以上どうしようもないってことなんだと思う。

 

第2の人生、フェイズは言わば闘病期で、支配されていたと言っていいくらい色んな症状に翻弄されていた僕なわけだけど、第3の人生ではそれをある意味徹底的に否定してきた。新しい自分を肯定する為に。

でもまぁ、このところ凄くそういった症状というか、後遺症の大きさを意識させられていて、あぁやっぱり逃れきれないんだなぁっていう感覚がある。でもその諦めというか、これが出た時って自分なりの極まで行ったということなのかもしれない。極地に着いて初めて湧く感情。抗うのは無駄という理解というか。

 

僕の中で受容というのはいつもそうだ。肯定、否定の両方の極を経てやっと訪れる。これは僕にとっては必要な段取りなのかもしれない。そう思えればこそ肯定する自分も否定する自分も受容できるのかもとも思う。

統合というものがあるなら受容の先なのだろう。でも今は、統合という概念が僕に必要なのか分からない。そのぐらい受容がしっくり来てる。だって人格すらどこか統合しきれていないからね。

 

受容、今回少し違うのは、それを意識的に認め、落とし込み始めてることだろうか。

少し前に嫉妬という人生でほとんど縁がなかったものを短期間で受容できたのもそうだし、なんかこう、順を追って説明されてる気分になる。

僕は頭でっかちだから精神っていうのはどうしても後付けみたいな感覚があるのだけど、こうしてみるとやっぱり後付けにしては良く出来てるなぁと思う部分もある。

 

意識なんて知覚の結果、残渣でしかないのかもしれないし、同一性のある自己というのはアイデンティティというコンセプトによってバラバラな自我の内どの自分の意見を採用するかということを無意識に選んでいるに過ぎないのかもしれない。なんてことを、ただでさえ脆い自己というものを崩していると思ったりする。

 

その反面、全然違う捉え方を許容している自分も居る。

 

以前ならそういった意見をまとめて自分なりの見方を定めようとしていたけれど、今は割とどっちも認められる。それはなんかこう、以前はバラバラな自分のそれぞれの視点という点と点を線で繋ごうとしていたような感じだったのだけど、今は何だか、どっちも違う点でいいんだよねって〇で囲える感じ。頭ではわかってたのにずっと出来ていなかった。

その見方で捉え直す様々な価値観、そしてその鏡を通して見る世界、それらが何だか、とても新しくて心地よい。

 

今は崩れた自分のまま受容に向けて軸を移し始めている。

これは僕の中では割と大きなパラダイムシフトで、やっぱりそのために崩したのかなとも思える。

今思えば長らく望んでいた感覚なのだろう。

自分の外でも内でも、肯定には否定をぶつけ、否定には肯定をぶつける。そうすることで自分なりのバランスを保とうとしてきた。虐殺に関わる肯定的な側面を探したり、死刑の正当性を否定してみたり、挨拶の否定的な面とか、狂気の肯定的な面とか、本当に色々。理解したい欲はそこに繋がる気がする。

でもだからか、今はさらっと、肯定的な面も否定的な面も、そしてそうでない面も受け入れられる。

そう、別に肯定を否定したかったわけでも、否定を肯定したかったわけでもない。ただその二元を持ち出されるからそう反応するしかなかった。土俵に引き込まれていた。

ネガティブを否定するのは嫌だし、ポジティブばかり肯定するのも忌避感があった。

絶対的に肯定するなら、ネガティブもポジティブも一体であるのが自然だと思った。全容を重視したい。

 

でも今までは二元の軸線上でそれをやろうとする(本人はそのつもりはないのだけど)から、ネガティブを肯定しポジティブを否定する、その否定と肯定の強弱でバランスを取ろうとするという歪な形になっていた。仕方のないことなのだろうけど。

 

否定も肯定もあってもいい、これが僕の中で落ちてきたのは、バラバラな自分達がより自分に近づいたから、そしてそんな自分たちが同時に存在することを認められたからなのかもしれない。自分だけでは到底無理なことだった。

 

Why Not Both GIFs | Tenor

このmeme大好きなんだけど、結局求めていたのはこれだった。自分というものでさえ、一つ選ばなきゃいけないわけじゃないんだよって。

好きなものってそうだよね。無意識に求めているものを集めてる。

 

受容、もう少し意識して受容性を投影していきたい。少し安息に近づいた気がする。

ここから第4の人生、フェイズと区切れるのかもしれないけど、それをする意味を今は感じない。自分もゆっくり再構築していけばいい。

 

大丈夫。

 

 

これ大好き!


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下の方が好み。

短過ぎて少し物足りないと感じつつ、それも儚くていいかなという気もしてくる。

 

あとこの人の曲ではこれも好き!


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この人の放つ空気もだけど、ロシアのこの雰囲気って好き。

課題2 - 愛着 安心感 お姉ちゃん願望 母 家族関係単純図式投影法

もう一つの方、愛着は大切な親友と対話してる時に気付かせてもらった。

 

こっちはCPTSDの方と違って解消しなくても問題なく生きれるものだとは思う。でもなんて言うか、鏡を他者に押し付けてしまうのは嫌だし、目の前の相手を見ずに内側に持つ願望を見ながらコミュニケーションを取ってしまったらと思うとそれは誠実さに欠けると思う。たとえ相手が受け入れてくれるとしてもそれに甘んじて盲目的に願望を押し付けるのは違うと思うし、気付いていながらやるのはもっと違うと思う。コミュニケーションが濁ってるのに気付いていながら満たされることを優先する訳だから。満たされればいいのではなく、大事なのはやっぱりそれぞれの世界であって、そこから生まれるコミュニケーションであって、満たされるのはその結果っていう方が順序的にも僕に合う。投影で満たされる感覚って際限がない割に他人事だと思う。願望や欲求が動機に混じるのは構わないとは思うけど。

 

この前書いた歯車のイメージと同じでこれも初めての経験だったけど、やり取りをしている時に浮かんだんだよね。子供の自分が相手に安心感を求めてるのが。「あっ」て思った。それだけ信頼できるということだし、引き出してもらったということだと思う。僕の変容自体この出会いがなければ始まらなかったものだし、ある意味必然的な流れなのかも。

 

あまり人に心を開かない僕が、心を開ける相手には結構子供の部分が出たりする。これは多分、ある種の意味で否定されない相手にしか出ない自分。この自分が出てる時点で結構コントロール外してるんだなぁとも思った。

そして彼は本当に子供で、自分本位で、相手に許容される安心ばかり求めてる気がした。性的な関係を軽視しがちなのもそのせいなのかなとか色々勘繰っちゃう。

 

あの時と同じだって思った。姉さん。実の姉ではなくて、前にも何回か書いてる人だけど、20歳くらいの時かな、当時amebaでブログをやっていて、そこにコメントをくれてメッセージでもやり取りするようになっていた人。結構年上なのだけど、お互いボロボロだったことも手伝ってとても引き合った感じ。

会ったこともない人間に美味しかったからってマカロン送り付けてくれるような人。

 

いつか一晩中抱き締めてくれるって約束してくれていたのだけど、結局会うこともなくODで死んでしまった。形見分けしてもらったリボルバーのペンダントが僕の一番のお守り。

風貌はファンキーだけど姉さんの象徴のような雰囲気の人で、僕の他に同じように彼女を姉さんと慕う女性が居ることを後になって知った。2人も姉さんロスにして置き去りにするなんて…それほど辛かったのだろうけど…

前置きが長くなったけど、その姉さんに満たしてもらってた自分が同じだなって思った。

 

姉さんとは精神的姉弟というか、そんな感じだったのだけど、その他にも17歳年上の人と付き合ったことがあった。こっちは性的な関係になったけど、弄ばれた感じでそんなに長くなかった。

この人シングルマザーだったんだよね。シンママって言葉さ、最近までママになりたてで新ママだって思ってたんだけど、あれシングルマザーなんだってね。どうでもいいけどね。

 

僕の人生で親密になった年上の女性って言うとこの2人なのだけど、改めて人生を見渡すとやたらと年上の女性との接点が多い。

でも分かんない。無意識に僕がそれを望んでいるからそう選んでいるのか、それとも元々の気質というか、感性というか、それが女性と合い易いからそうなるのか。

後者だったらいいのだけど、前者だったら何かあれだなぁとは思う。

 

でもこう、友達と呼べる程度に仲良くなる相手、友達っていうのは僕にとっては自己開示が一種のラインなのだけど、それができる相手っていうのはやっぱりかなり敏感に選んでる自覚はある。無意識にやってるんだけど自覚してる感じ。

さっきも書いた気がするけど、僕は極度に自己開示しない人間だから、僕が自己開示する相手っていうのは仮面の下の僕が拒絶、否定されない自信のある人になるわけですよね(それでも殆んどの場合は極一部しか開示しないけど)。上手く言えないけど、そういう人を選別するのはとても得意で、安心感をセンサーにかなり高度なことをやってる気がする。ってことはやっぱり少なからず願望が作用してるんじゃないかって気がしてくる。

いや、単にビビりだから結果的にこうなってるっていう線も濃厚なのだけど。

 

ますますわかんないや。

 

安心感、姉という2つのキーワードなんだけど、一番の疑問は僕はいつそれを抱き始めたのかなんだよね。だって僕3人兄弟の一番上で姉も兄もいないんだよ?いないのに何で安心感を得られる対象だと認識してるんだろう?

少なくとも妹が小さい頃には、小学校中学年までにはその願望は抱いてた。弟、妹と接しながら姉に同じように接してもらう自分を想ってた記憶はある。その姉の影が何なのか分からなくて気持ち悪い。

 

その姉という概念はどうやって入ってきたの?何故姉が安心できる存在だと入っているの?しかも体感イメージ付きで。

実姉もいなければ親しい年上の女の子の記憶もない。記憶に残っていない人がいるの?それとも生み出したの?でもそんなの生み出せるものなの?生み出すと言えば、母が言うには、僕が一人の時に誰かと会話していると小学校の先生に心配されてたって聞いたから、イマジナリーフレンド的なのは居たのかもしれない。それが関係あるのかもわかんないけど。でも生み出すにしたって型が無くてはお人形は出来ないと思うけど。

本やテレビから受け取ったにしても、当時の僕にそこまでの理解力があっただろうか。受けて安心した経験がなければこんな存在にはならないだろうに。

誰なんだろう?

 

今日気になって色んなワードで検索していたのだけど、姉が居ない人がお姉ちゃんが欲しいって願望を抱くのは別に珍しいことではないみたい。でもそれはどこかで、例えば友達のお姉ちゃんとか、アニメとかで姉という表象を仕入れた結果な訳で、僕が知りたいのは僕の中のそれは何が元になっているのかってことで…

 

検索上位に出てくる多数のサイトは心理テストみたいなやつでさ、お姉ちゃんが欲しい男性は理解されたいという思いがどうのって書いてあるのばっかりだったけどさ、逆に理解されたいと思ってない人っているのかな?理解なんて糞食らえだ、完全な理解など不可能だって普段思ってしまう僕でさえ、それは理解されたいという願望の裏返しだってことくらいは分かってるよ。どうでもいいけどね。

 

 

愛着っていう部分では、本来なら母親に求めるであろう安心、受容を姉というイメージに求めているっていうのは凄く分かる。シンプルに、僕にとっては母親がその対象ではないからだ。

父親は嫌なもの、母親は父親に虐げられる可哀想なものっていうのが僕の中には出来ているから。

母は大変な中とても良くしてくれたし、多分とても愛してくれたけど、僕はそれを上手く受け取れてなかったのだと思う。そんな毎日の光景ではなかったはずだけど、いつからなのかな、僕は毎日父親が帰ってくる時間には母が殴られないかずっと心配していたし、その時間がとても嫌だった。父親が寝付くまでは安心できないし、寝付いても安心できない時もあった。殴られるの分かってて歯向かう母親も当時は理解できなかったし、やめてよっていつも思ってた。

母は母親の仕事(と世間一般で言われること。今言っちゃいけないやつ)以上のことをしてくれていたし、僕もそれは当たり前のように受けてそれに感謝すらしていなかった訳だけど(子供だから許して)、その一点だよ。夫婦関係があっての親子、家族なんだなって。

母は余裕のない中で出来る限りの愛情を注いでくれたんだと思うけど、僕はそれをスルーして母に同情していたし心配していた。僕の視点では横の結びつきだった。だからかな、呼び方もママからお母さんに移行できなくて、ずっと「ねぇ」だった。今は下の名前にちゃん付けで呼んでる。

呼称ついでにいえばさ、僕が子供と居る時に子供に向かって「それパパの?」とか言う人いるけど、あれいまだに苦手。あの人に対する憎しみはもうないけどさ、パパ、父親っていう存在の印象はあの時のままなんだよね。それから逃れるために自分の子供にはちょっと印象の違う「おとうちゃん」を導入してたりさ、なんか色々縛られてるんだなぁって。

 

はい。

 

それでね、今日姉に対する願望とか元型とか表象とか色々調べてる時に家族関係単純図式投影法っていうのが出て来てね、ペイント使ってそれやってみたの。

 

 

 

これは心的な理想と現実の家族を図にして、位置関係なんかからその人の中にある家族を読み解くってものみたい。

現実1は僕視点の現実の家族 もう過去だけど

現実2は僕の中にある母中心の視点でのそれ 僕の中では意味がありそうな混合の主観。全員分の視点がすぐ浮かぶけど他は省略

理想は現実の構成員を使っての理想形 上に寄ってるのは父を置く家族の円の外側にスペースが無くて全体が上に寄っちゃっただけ。円の外とはいえ父親という存在を高さ的に上に持って来たくなかった。

願望は僕が参考にしたpdfには載ってなかったけど、頭の中にあるからついでに図にした。色が薄い人たちは願望の中のイメージにはないけど入れないとなんか後ろめたいから薄くした。

 

あれだね、多分僕は、やっぱり僕の中での長男という役割にうんざりしてるんだとは思った。願望がよくわかる。父親が自分の家族に居る理想が浮かばないとか、後ろめたさで入れた他の兄弟よりもっと姉にくっついていたいとか、母には単純に親子関係を望んでて姉に緩衝材になって欲しい(単純な母子ではない横の繋がりがあったせいで接し辛くなったという無意識な自覚)とか、長男業で自分がしたと思っている役割を姉という存在に押し付けようとしてることとか。物凄く自分勝手な願望だよね。でもわかる。何にもしたくないの。役割とか嫌なの。そうなの?まぁ知ってたけど。下がいいんだよね。

下には下の苦しみがあるのは、色々歪んで苦しんだであろう自分の弟を見ればわかるはずなのにね。

もう一つ思ったけど、願望は姉弟関係じゃなくてもいいんだよね。僕が妹で姉妹でもいい。でも兄は想像がつかない。兄に良い印象がないのは、一般的な通念としての兄なのか、自覚なのか。でもまぁ、受容して欲しい、時々リードして欲しいってイメージだとやっぱり姉になるよね。

 

これ面白かった。気になる人は検索するとやり方出てくるからやってみてね!

 

 

もうとっくに日付変わったけどさ、よくよく考えるとこんなことしてたの母の日なんだよね。

何度も言うけど母にはとても感謝してる。DVに借金にただでさえ大変なのに3人育て上げてくれたんだし、とても愛情深い人だし。妹はしっかり受け取って育ったということが救いかな。上手くいかないのは、人間関係そんなもんだよねとしか言えないね。むしろ社会的な理想の家族像があるせいで苦しむ人も多いだろうにとは思う。

 

 

いつも長くても2000~3000字で区切るんだけど、区切れないから4500字超えちゃった。まぁこっちは喫緊の課題でもないし、まだよくわからないし、ゆっくりかなと思う。でもいずれは解消しないとなって。彼の願望を自分で満たせればいいのだと思う。そしてそれが出来そうな存在が一人僕の中に居る。まぁそれが無理でも、より意識的な形に出来ればなぁって。もうお姉ちゃんお姉ちゃんっていうような歳でもないのだし。ね、K姉さん。

意識レベルのギャップ から 課題1 - CPTSD 自己受容の難 OOO 瀕死の携帯

4月の後半に意識レベルのギャップというのを見てもらったんですよね。レベルって言葉はあんまり好きじゃないからちょっと躊躇したんだけど、自覚はあるからヒントでも見つかればなぁと思って。

見てもらった内容もその後のやり取りも僕にとってはとても意味あるものになった。

 

迷路の中に居る時って凄く縛られた視点になっているのだけど、外側から見えた時に壁が一気に崩れることがある。今回もらった助言はそこに繋がった。その方もこの虚無感の経験者のようで、そして捉え方もどこか似ていたからとても的確な言葉をもらったのだと思う。思い込みにいくつか気付いたし、課題になっている部分も前より明確になった。

 

その方が言うには僕には二つ課題があって、先ず僕は自己受容に課題があるということ。そしてもう一つは無条件の愛に課題はないのに条件付きの愛に課題がある矛盾した状態ということで、対象に自分が含まれていないのではないかということだった。

最初はやっぱり半信半疑モードなのだけど、随分ピンポイントな指摘だったから色々質問してしまった。そしたらまた的確に返ってきて。

で、この2つはリンクしているとのことだった。

 

この辺りは何ていうのかな、漠然と認識していた部分と目を逸らしていた部分だったのだと思う。特に前者の方はあれなんだよね。自己否定はなくなったんだけど自己受容は出来ないっていう状態が続いてて、まぁ自己受容できないのが自分でいいかっていう一見受容に見える歪な形に持っていってたのが悪さしてるんだと気づいた。

それと漠然と大きく見えてたものが2つに分かれているのを意識してみるととてもしっくりきたんだよね。そうなると少し触れやすくなったというか。

 

他にも色々得たものはあったんだけど、大きなものはこれで。それでね、壁が崩れる感覚の時にはっきりと、歯車が動き出すのが見えた気がしたの。壁と一緒に、歯車に噛んで邪魔になっていたものが崩れた感じで。

 

それからというもの大切な親友との対話でもとても色々なものを受けてるし、こうやって思考の整理をしている時も気づきがあったりして、色んなものが繋がったり舞い込んでくるのでかなり目まぐるしい。

 

その中で特に大きな課題として再浮上した(サバイバーズ・ギルトから繋がった)のがCPTSDで、もう一つはあまり気にしていなかった愛着。

 

前者は浮かび上がる度に棚上げに次ぐ棚上げだった。というのも後遺症だけでも十分苦しんだという意識はあるし、生活できるレベルまで和らいだなら振り返らずに前進した方がいいんじゃないかっていう思いもあったから。っていうのは言い訳で、怖くて見れないっていうのが大きいのかもしれないけど。受け入れ切れていないのは分かるけど、どうやったら受け入れられるというのだろう?

時間は確かに薬で、それで気にならないぐらいまで和らいだのだけど、それは目に見える症状の話で。いや、それすら分からない。そもそも日本の冬が駄目になったのも、こっちに住むようになった切っ掛けもフラッシュバックのトリガーから逃げるためというのが大きいし。

でも今の問題はそこじゃなくて、今の僕が完全に事後の産物ということだ。事後の自分も外傷当時の自分もある程度は受け入れて生きていかなきゃいけないのは分かってはいるつもりだけど(って思ってる時は大体分かってない)。

 

前回書いてて、生きながらえてしまったことによる罪悪感というか、生きることの後ろめたさがあること、そしてそれも後遺症の一つで、その上に自分の価値観を築いてきてしまったことに気付いたのね。それは多分自己受容という課題に直結するのだろう。自己否定は無くなったのにやはり自己肯定は上手くできない部分が多い。つまるところ自分が今生きていることを受容しきれていない。

自己無価値感というよりは自己価値の放棄によって生きている後ろめたさを軽減しようとしてるんだろうなって思った。

 

同じような境遇に置かれて死ぬ人が居る中、たまたま生き残った自分という位置づけになってしまっていて、たまたま生き残ったのが他の人ではなく自分ということを正当化できないし、自分の受けた苦痛も比較したくもないのに比較になってしまうのが嫌で直視できないし、生きている自分が価値づけされることも死んだ人や抜け出せない人に対する後ろめたさに繋がっている気がする。

全て無意味で利己的な比較だというのは分かるけど、じゃあ同じような境遇を味わった彼らに報いるにはどうすればいいの?せめて多くの人たちより近い僕が理解の努力をしなければ何のための経験なの?雁字搦めじゃん。ずっと考えてたことだ。それでどんどん行き場を狭めてた。こうやってミイラ取りがミイラになるのだろうね。

そういえば頭の中で言葉を思い浮かべるでしょ、そうするといつも真っ先に出てくるのが死なの。別に悲観的でも絶望的でもないのに、例えばシャワー浴びながら鼻歌に言葉を当ててみても「死が~」とか「死の~」とか「死地に~」とかになる。「終わりの~」とか「終焉の~」とかもあるから必ずしも死ではないけど、死や終わりを無意識に考え過ぎな部分はあるんだと思う。意識的にやってるわけじゃない(よね?)からどうしようもない気はするけど。

 

割り切って生きるために自分の中であの頃の自分を死んだことにして、新しく生きようとしてみたり、本当にいろんなことをしてきたのね。その時は確かにそれが必要だったのだと思うけど、自分っていうものをここまで掘り返してきて、そんなんじゃどうしようもない部分に来ているのだと思う。

 

前回どうしてあそこまで取り乱したかと言えば、苦痛の伴う選択肢しかないだけでなく、また振り出しに戻る不安もあったから。

 

・目を瞑って生きること これには自己受容が上手くいかない苦しみ、それだけでなく停滞の苦しみ(変化を食い止めることに伴う苦痛)があって、多分定期的に発狂しそうになると思う。受け入れないことの苦しみは経験済みだからわかる。だからこっちの選択肢はもう選べない。

・リセットボタン 僕は臆病だからから無理

・もう一度向き合うこと 消去法でもこれしか選択肢がない。でもこれは上手くいくか分からないし、怖いことだらけ。トラウマを直視しなきゃいけないし、仕舞い込んだ記憶も開かれるだろうし、後遺症も再発するかもしれないし、二度目の人生だと思って築いてきた価値観を崩すことで一時的にでもまた自分が分からなくなるだろう。崩すためには先ず認めなくてはならなくて、それだけでも怖いのに。

 

根元ほど後に出てくる。その時出来る対処を続けてきた結果今があるからだと思う。だからこんなことしててもキリがないのではという不安も出てくる。正直これで終わるとも思ってない。今でも目を向けられない部分、特にあの2年間は全てから否定される日々だったから、バグの根源はそこにもいくつもあると思う。それが出てくるのは本当に怖い。怖いけど支えてくれる人が今は居るし、折角ここまで掘り返してきたのだし、そうするしかないし。

 

でもまぁ、幹からいく気力はないから、小さな枝から入ろうと思ってる。今回の切っ掛けになったサバイバーズ・ギルトから。

調べてたらそれを抱えたキャラクターとかが載っててね、これだって思ったのがあったのね。仮面ライダーオーズの主人公、火野映司。平成ライダーってそういう主人公の過去や闇に縛られる描写が上手いし、そして乗り越えていく感じのエンディングがお決まりじゃないですか(最近のは知らないけど)これならいけるって思った。しかも大好きな放浪者系主人公だよ?平成ライダーは555まで観てそのあと飛んでWだけ全部観たんだよね。それにしてもOOOって表記何かいいな。

primeビデオ見たら会員特典だったから、わーい!ってそのまま観始めた。

ってことで一昨日からオーズ観始めて今12話だけど結構引き込まれてるし、いい感じに揺さぶられる部分がある。行動に移せてる分映司は凄いとは思うけど、この歪んだ行動力と無欲というより虚無な感じはとてもね。欲望っていうテーマも面白い。僕もいつか活力を取り戻せるかな。

 

まぁこんな感じでまずは軽くいこうかなって。

もう一つの愛着はまた長くなりそうだから分けようかな。多分同時進行で掘り下げていくと思う。

 

 

そうそう、携帯落として画面がひび入って液漏れも始めちゃった。知り合いに中古で売りつけられたiphone5sで、電池膨らんでるし、カメラも壊れてるし、サポート切れて使えないアプリも増えてきたしで、そろそろ替えなきゃと3年以上前から思ってはいた。

買い替えるの面倒だし高いしで何だかんだまだ踏ん切りがつかないのだけど、液漏れが広がったらどうしようもないからなぁ。うーん… ここまでくると彼も楽になりたいんじゃないかとも思うよね。まぁ3日経ったけど液漏れもあんまり広がってないから様子見中。

でもこれだけ古いの使ってると何に替えてもこれより性能いいだろうから後悔しなさそうなのはいいよね。

 

 

これ大好き。俯瞰視点の自分が満たされる感じ


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RGBのアルバム(も)好きな曲いっぱい。