感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

暗闇仲間の見送り、謝意を伝えたこと 苦痛と死、代わりたい気持ち サバイバーズ・ギルト

youtubeで感情を外に出すセラピーを受けたりする様子を隠すことなくアップしている人が居て、僕も当時はその人と同じくDark Night of the Soulとか色んな名で呼ばれる変容の時期だったので参考にさせて頂いていた。参考という部分もあり、耐え難い孤独な暗闇の中から、同じように暗闇の中で藻掻く人がいることを見て救われてもいた。

結構壮絶な内容だったのでアップロードするのは勇気のいることだったと思う。それでもその人は自らの向かうSpiritual pathのために発信の必要性を感じてそれをしていたらしい。(その点は僕も同じようなことを感じていて、だからこのブログが今ここにある)

 

その人がつい最近「さようならyoutube」というような題の短い動画をアップロードしていたので見てみると、その題名の通りアップロードをやめるということだった。それは消極的な意味ではなく、次のステージに移ったこと、そしてそこではバウンダリーやプライバシーがより意味を持つような気がすることなんかを話してた。

とても感慨深い。彼女は明確に自分の進む道をKundalini Awakeningと位置付けてあらゆる手法を用いて自分の感情と向き合ってきて、その一環として6年間動画のアップロードを続け、そして今次の段階に進んでいった。僕は後半の4年くらいかな、彼女の動画に救われたこともあって、今はその段階は一応脱している。僕がどういう方向に進むのかは分からないけど、人生というスパンから見ればXの交差点のように短い期間だけど、とても共感的な時間を過ごし(一方通行だけど)、なんていうのかな、やっぱり見送るような気持ちでいっぱい。心から旅の無事というか、無事じゃないな。無事かどうかは大事なことじゃない。旅の行く末の幸運を願う気持ち。

 

それで僕も一方的にではあるけれどとても助けてもらったので、ありがとうコメントを書こうと思ったのだけど、コメント欄がオフになっていた。それでもどうにか謝意は伝えたかったので、プロフィールに入ってみるとブログに繋がり、そこにもコメント欄は無かったのだけどemailアドレスがあって、そこにメールを送ってみた。

折角メールだったから当時僕も同じ状況だったことや彼女の動画に救われたこと、あとなんて訳したらいいのか分からないけど、あなたにとって意味深い人生の旅を願ってます的なことを書いて送った。別に意味なんてなくてもいいのだけど、その場合意味のないことがその人にとって意味深いわけで…それはどうでもいいけどね。

 

そしたら結構しっかりした返信をもらってしまって、それに対する返信をしようかどうか迷ったのだけどやめといた。それが失礼なのかちょっと気掛かりだけど、やっぱり伝えたいことを伝えた上では蛇足になるような気がするし。

 

気持ちを伝えることができたことがとても嬉しいし、それを喜んでくれたことも嬉しいし、そして完全な一方通行ではなくなったことも感慨深い。

それはいつもの寂しい見送りの風景のはずなのだけど、希望が香る穏やかな曙光の射す夜明けの分かれ道で。僕まで何だか頑張れるような気持ちになる。見送ってくれたから。

 

真っ暗な冷たい孤独な中でもこうやって、人種や文化の垣根を越えてより人間的な部分での繋がりが生まれるインターネットは、まるで広大きな海のよう。ボトルも流さなければ届かないのだろうなって。

 

 

あんまりこう、時事ネタに触れたくはないけど、沢でそれらしい骨が見つかったっていう行方不明の女の子。

どんなに辛い思い、心細い思い、怖い思い、痛い思い、寒い思いをしたのだろう。どれだけの間意識があったのだろうか。大人よりも体感や感情の比重が大きい子供が、それも1分、1時間の長さが大人よりずっとずっと長い子供が、そんな中にどれだけ長い間居たのだろう。

広大な森の中で迷子になってしまう時の感覚って大人だって慣れてなければ正気を保てるようなものじゃない。足の着くプールで溺れてしまうのと同じになる。

それらを重ねてしまうと、ただただ辛いし悲しくて吐き気までしてくる。

人というものを思えばいつもそう。楽しい生き様ばかり見れればどんなに良いことだろう。

 

代わってあげられればなんて思ったところでどれだけ無意味なことかはわかるのだけど、いつも苛まれるのは何故こういう悲痛な死がある中で僕は生き残ってしまったのだろうということ。フェアじゃない。これはしょっちゅう思ってきた。

すんでまで行って、でも生きている自分が、その偶然をまだ受け入れ切れていないのかもしれない。僕がその偶然を拾ったせいで誰かが拾えなかったわけではないのだろうけど、だけどさ。

要するに僕は自分の境遇を彼ら苦痛の末に死んでいった人たちと同列視している部分があって、挙句結果に納得がいってない訳だ。

どうしたら報いることができるのか苛まれるし、こうして苛まれることそのものも拾ったことの報いなのかもしれない。拾った?違う。だからフェアじゃないってなる。自ら拾ったわけではないから。偶然を与えられた結果のように捉えてるから…

僕は選んでない。じゃあ何で僕が生き残った自責に苛まれるの?全然関係ないくせに勝手に加害者になろうとする。被害者意識を盾に。

 

でもこれって何かで読んだものに似てる。遭難か何かの生き残りの人の話だっけ。名称あるのかな。あった。『サバイバーズ・ギルト』…

これダメでしょ…PTSDの症状の一つと見なされるだって。結局そこに戻るの…

自己犠牲・無償の奉仕に走りがちな振る舞い

これ超分かる。

 

「最も無価値である自分の命で誰かが助かるならそれでいい」という自殺同然のネガティブなモノであることが多い。

これもわかるけど、それ以前にそうしないと自分が生きていることが許されないから。だってそうなんだよ。理由がつかないんだもん。彼らが死んで自分が生きてることの理由が。そもそも理由なんてない?それも分かる。でもそれを受け入れることの残酷さが分かる?やばいなんか泣きそう。泣けないくせに。

誰かが助かることでそこに理由がつくことは、自分が生きながらえてしまったことに意味が生まれることは、最早自分の存在価値と同義かそれ以上になる。だってそうでしょ?本当なら生きてなかったんだもん。偶々繋がっただけで。だからそれだけのものと引き換えなら死んでもいいって思う。喜んで差し出すと思う。僕の場合はね。

笑える。誰よりも死後の無を恐れている癖に。

自己矛盾の塊。欺瞞の産物。蜃気楼に浮かぶ砂の城。

 

意味ある死、気高い死、そういうものに対する憧れを持っている。死は生であって、死生観は僕そのものを構成する大きな価値観。それを今更またPTSDに結び付けられちゃったら僕はいったい何なの?ってなる。いつまで縛られればいいの?そしてようやく築いたものをまた崩さなきゃいけないの?

歪みがあるのは気付いてたのに…でもポンっとここで行き当たるとは思わなかった。これにたどり着いたのは良かったのかもしれない。いや、良かったはず。今は素直にそう思いきれないけれど。崩すか縛られ続けるかの二択ならどちらを選ぶかは決まってる。

でも今はギブアップさせて。今日はもう無理。今直視したら多分吐く。

これも時間がかかるよ…どれもこれも、一体何なんだろう。何で今更…

面倒ごと プロレス せがれいじり サムネ 次も会いたい兄弟

車がまだ直らない。

修理費は結局向こうの保険会社が出すことになったからいいんだけど、直るまでの子供の送り迎えに掛かる費用とかその他諸々とか結構かかる。同僚おじいちゃんは「非は向こうにあるのだからもっと主張して不便を被る分相手に請求しなきゃダメだ」って言うんだけど、なんか面倒くさいんだよね。我慢すればいいやっていういつもの消極的な思考だから、僕にとっては課題なのだろうけど。人もお金も含めて面倒ごとで大切な日常の水面を乱したくないって思うのは悪いことなのだろうか。面倒ごとがあっても乱れなければいいのだろうけど、残念ながら僕は乱れる人間でそこをどうこうできるタイプでもないのだし。

そりゃ、損は損だけどさ、ただでさえ荒れやすい精神的な平穏を面倒ごとでかき乱される方がもっと損で…ねぇ…それに折角便利と不便の対比を再確認しているというか、不便の良さ、便利経験による不便感の発生、なんていうことを思いながら楽しんでもいるのに。

こんなこと言っても理解されないだろうし、下手したら余計面倒くさい垂訓が始まるだろうから言わないけどさ。生きてるだけで面倒くさいって思ってしまうのはそういう部分なんだよなぁ。

 

 

最近またプロレスを見てるのだけど、男女ともに華やかな衣装っていいよね。なんかこう、ランツクネヒトの衣装とか部族の戦化粧みたい。勿論戦地に赴くのと観客ありきの興行を一緒くたにするのもあれだけど、人が戦に何を見るのかって考えると面白い。士気から死生観、色んなものがあるのだろうけど、何かこう、戦いを前にして湧き上がるものがあるんだろうなって。

プロレスって受けの美学とも言われるけど、勝ち負けよりいかに試合の中で魅せるかの世界。客商売とスポーツ、そこに潜むジレンマから個々の選手や団体の中で生まれる哲学のようなものがとっても魅力的だと思う。元々勝ち負けより~って思考だから合うのかな。

僕が好きな選手は少し前だとエル・サムライとかケンドー・カシンとか。全日の時の武藤も好きだったな。今はこれと言って好きな選手がいるわけでもないけど。

 

 

何故か『せがれいじり』の動画を見て過ごした週末。

せがれいじりをプレイしたのは中学生ぐらいの時。確かしばらくしてもう一回プレイしたのだけど。

シュールお馬鹿で捉えどころがない世界観だから適当に作ったんじゃないかって言われるけど、僕はこの作品ってすごいと思うし、理想だと感じる。ある意味現実もこういう類のものなんじゃないかとか。

仮にある意味適当に作ったにしても、その小さな適当が積み重ねでこれだけ調和した一つの世界としての滅茶苦茶になるってとても凄いことだと思う。

適当っていうより『何となく』なんだよね。ギャグも物語りも。『こんな感じ』っていうものの集まり。なんかこう、せがれいじりに対してこんな言葉を使うのもあれだけど、ある意味僕としては学ぶものな気がする。

お馬鹿というコンセプトのもとに『自分なり』の『こんな感じ』を妥協なく表現した世界。適当だから妥協しまくりじゃんって思われるかもしれないけど、それは重視する部分の違いであってですね。追求とはそういうものだと思う。

いや、作者が実際何を思って作ったのかは知らないけどね。

 

そういえば続編はやったことないんだよね。やってみたいなぁ。

 

 

そういえばさっきyoutube見ていて思ったんだけど、youtube動画のサムネやタイトルって、特に収益を出したい動画に関してはクリックさせるところが勝負な訳じゃん?webページや記事なんかもそうだけど、そういうクリックさせようとしてるものってなんかこう、僕の求めてる内容じゃないことばかり。だから普段そういうのは開かないし、即興味なしボタン押すんだけど。

 

それはなんでだろうって考えると、多くの人に開かせようとサムネやタイトルにまで労力をつぎ込むということは、中身も多くの人に見てもらおうって内容になってるわけだよね。型通りだったり、効果音とかテロップとか変な部分に凝ってたり、ピンポイントでそれありきなことをしていたり。

確かに多くに見せようとするとそうなるのだろうけど、お洋服ばかりで本人不在みたいな感じがする。作者の表現じゃないというか、表現の方向性の問題というか。

見る側を意識するしないは別として、見る側にどう感じさせようっていう部分が前に出てるのは個人的に苦手。さっきのせがれいじりにしても、作者はうんこが面白いからうんこを表現する、だからこちらは自由な感想の中から面白いも選択できる。でもこれがうんこが面白いと感じる表現になると、誘導による誘導で狭苦しいしウザいって感じちゃう。子供の頃からテレビ番組をあまり見なかったのもそれが嫌いだったから。

それがこう、サムネやタイトルにもう滲み出てる、というかそういう動画ですよ、そういう記事ですよって自己紹介のようになってる感じ。

 

そういう意味ではさ、よく「本を表紙で判断するな」って言うけど、動画やwebページは表紙である程度判断できちゃうのではないだろうか。先入観は敵とはいえ。はい。

 

ここまで昨日書いた

 

 

今日は夕飯時に珍しく母から僕指名で電話がかかってきた。その段階で何となくどっちかなって予想はついてしまったのだけど、実家の猫のN(仮)が危篤らしい。

上手く言えない感情。ペットロス(この言葉嫌い。僕にとってはペットじゃない)経験者として勿論そういう恐怖もあるのだと思うけど、Nの場合はもう21歳で、糖尿持ちで危ないことも何度もあったからある程度整理がついてしまっているというのもあるのかもしれない。身体が弱かった外出好きの猫で21歳はかなりおじいちゃんだよね。

 

勿論また元気になって欲しいって気持ちもあるのだけど、もうよぼよぼで耳も聞こえなくなっていて、インスリン打ったり色々ボロボロなのもあるから、一時的な回復を願うのも酷なのかもとも思ってしまう。また会いたいけど…

 

猫って感覚的には同居人なのだけど、Nは瀕死で拾われてきた仔猫の時からの付き合いで、僕が日本に居た時は毎晩一緒に寝てたのね、僕の布団が好きみたいで。だから兄弟的な感覚もあって。2年ぶりぐらいに一時帰国しても、喜ぶわけでも素っ気なくなるわけでもなく、いつものようにグルグル喉鳴らしながら膝に座ってくれる。次は会えないかもって、そんなことを毎回思いながらこちらに戻ってくるのだけど、それでもやっぱり帰国の度会えて。

もしかしたら今回もやり過ごしてまた会えるかもしれないから、今は過度に考えたくないのだけど。でも考えちゃう。次も居て欲しいな。また一緒に寝たい。重いし暑いんだけどね。

孤独と溝 から ゾンビの夢 事故のこと 『ミツバチの羽音』

Loneliness does not come from having no people around you, but from being unable to communicate the things that seen important to you.

— Carl Jung

Real loneliness consists not in being alone, but in being with the wrong person, in the suffocating darkness of a room in which no deep communication is possible.

— Sydney J. Harris

 

孤独。何に関してもだろうけど、度を超せば超すほど周囲との溝は深まる。

ただ、その周囲に合わせようとすればいいかというとそうでもないだろう。それができるならそうなってるはずだしね。そこに居なきゃいけない限りは表面的な繋がりの温かさの内側に潜む、深く冷たい孤独を噛み締めるしかない。

伝えないと、話さないと理解し合えないというのは、伝えれば伝わる、話せば分かり合えることが多い人の理屈ではないだろうか。伝えても理解されない、それだけでなく無意識に断ぜられ、否定されることが多い人間が伝えることが億劫になるのはある意味で当然の流れと言えるのではないだろうか。それにも増して、伝わったふり、理解したふり、分かるという思い込みがどれほどの苦痛を生むか。でも残念ながら多くのコミュニケーションはこの方向に向かう。それが予期される限りは自己開示は苦痛への第一歩でしかないのでは?

なんていう思考まで包み隠して人と話していれば幾重にも重なる殻の中の孤独を再認識することになり、コミュニケーションそのものまで苦痛に置き換わっていく。拗らせ太郎。

 

IQマウント合戦とか見ていると、この人たちは一体何を求めているのだろう?って思う。例えば、本当にIQが高かったと言われる人々の味わったであろう孤独を想像するだけで恐ろしくなる。所詮数値化された指標でしかないし、IQってものにそれほど意味があるとも思わないけど、それでもやっぱり抜けている人はそういう顔をしている。マウントの取り合いをしている人達はそうなりたいのだろうか?でもそうは見えない。

 

珍しい能力を持った人、珍しい経験をした人なんかも多分そうだよね。ものによっては。理解されようがないから話すことも出来ないだろうし。

ある種の覚醒と呼ばれるものもそうだろうし、元々持っているギフトと呼ばれるものもそう。良さそうな面ばかりが持て囃されるけど、別の見方をすれば結局呪いでしかない。それが何かを生むこともあれば、人を壊すことだって多分にあるのだし。それはあたかも、薬は毒で毒は薬というのと同じで、表裏も何もなくただ同じものなのだと思う。

 

今はインターネットがあるからそういう人同士で繋がりやすかったりして多少はマシなのかもしれないけど、でもそれは多面の内の一面。そういう人同士で繋がりやすい以前にそうじゃない他者との接触が圧倒的に増えるわけだから。そう考えると恐ろしい。

だからこそ、そんな中である種の人たちが連帯感を求めてまとまるということも理解し得る。でもそれは、すり替わっちゃうんじゃないかなとも僕は思うのだけど。いや、それは僕にとっての話で、それがあるべき姿の人もいるということは勿論わかってるけど。

 

僕は別に孤独の中身を分かり合える、理解されるとも思わないし、誰かの抱くそれを理解できるとも思わない人種だから、同じ前提を持った人との関係が楽かな。開示を求めない関係とか心地いい。そんな中で「寒いね」「痛いね」って、それだけでも分かち合えれば、それ以上のものはないだろうか。それは言葉にするまでもなく何となく察し合ったりするものでもあるのだけど。

 

 

周囲に合わせること。それが選択に無い人間は深まり続ける孤独を味わい尽くすしかないのだろうし、それ自体は悪くないと思う。そうすることで見えてくるものもあるのだろうし、その先に、深い淵の先に価値を見るから孤独と共に生きようと思うのだろうし。

それはそれなんだけど、時々見るゾンビの夢はやっぱりこう、抗いつつもそっちに憧れがあるということを表してるのかなぁとも思う。子供の頃みたゾンビの映画からかな、そういう感覚があるの。

必死に逃げて、でも最後は抗い切れずに噛まれて同じになっちゃう。その光景に自分を重ねて、何かこう、特殊な感情の切れ端がある。仄かな劣情と共に。主人公に対して思う「もういいんだよ」、それを自分に対して言いたいんだろうね。どうしようもないなら諦めがつくし、ある意味では解放なのだろうしね。

 

 

話は変わり。先週の火曜日追突事故に遭いました。片道300kmを往復強行した日の行きの200km辺り。その日は朝から嫌な予感がしてた。道はほんとにボロボロで山道も長く、そのくせみんなスピード出すし日本だと考えられないような過積載車両やらおんぼろがいっぱい走ってる。

追突されたのは丁度保護区の近くだったかな。アスファルトが全面剥がれてて避けれないから減速した時にゴンって硬い衝撃と共に一瞬意識が飛んで、でも何とか察して路肩に上げた。初追突体験だけどこの速度でもやっぱり凄いんだなぁって。暫く朦朧としたし、一週間経った今も軽いむち打ちが残ってる。こちらは軽で向こうは4WDのピックアップ。あの時は僕の前方から何台か連なってたんだけど、多分追い抜こうとしてそっちに気を取られた時の減速で突っ込んできたのだろう。

街から離れすぎてたし、悪そうな人じゃなかったし、修理費は出すって言うから警察は呼ばなかったのだけど、修理云々の話はやっぱり少し面倒くさいことになった。

幸い向こうが指定した彼の友達の修理工が「破損が多くてこれは警察にレポートして保険使わないと直せるものじゃない」って向こうに伝えてくれたから、時間はかかるけどちゃんと対応してもらえそう。ぼったくり修理工が多い中、朝青竜似の気の良い兄ちゃんで助かった。

延期に延期が重なりまだ警察には行けてないんだけど何とかなるとは思う。事故現場がここの管轄外だから相手と話を合わせて警察に虚偽のレポートを出すようにと保険屋に言われてるのが少し気乗りしないけど、まぁ仕方ないね。

今回の学びは、僕は外国人で色々不利だし、すぐ相手に合わせちゃうから気に病むことになるのは目に見えてるし、やっぱりすぐ警察を呼んどくべきだということかな。ドライブレコーダーも着けよう。めんどい…色々翻弄されっぱなしだけどまぁ授業ということで…

 

 

そうそう、昭乃さんの『ミツバチの羽音』はハイレゾ版を買いました。DL版だから発売後すぐ買えて、海外でもすぐ手元に来た。そういう意味では良い時代ですね。とっても好きでもうずっと聴いてる。

『01. ミツバチの羽音』淡く優しい世界に誘ってくれる曲なイメージ。「Ah.. 知識の服を脱いで つつまれる 今 それは少女の 永遠の 眼差し」ってフレーズが好き。

『02. 舟は森を行く』僕の中にある森の夜明けの景色と重なってとっても好き。『レインフォレスト』っていう曲も森を歌ってるけどこっちの方が抽象的な感じで景色が呼び起こされる感じがする。

『03. 金の糸の話』珍しく物語り調。「そして誰も口々に正しさを語り合う」これを眺めてる感じに孤独感を揺さぶられる。どこか救いがない中で愛や祈りにもっていくのがとても昭乃さんな感じがする。

『05. 無言の詩』これもとっても好き。「ためらうように水は流れ」にじんとくるの。

『06. Plastic Forest』深い虚無感に沈みながらそれでも続く世界の神々しさが同居してる感じ。

『08. dream, dream』とても昭乃さんらしい変化球な曲だと思う。とっても好き。ベッドで夢を見てる時が一番楽しいかもしれない僕はこの曲を聴くととても元気が出ます。

『10. tabinosphere』希望や淡い明るさを感じるこの曲が最後にくるのがとても好き。

 

好きな人のアルバムだと全体通して聴くとアップダウンも含めて浸ってとても心地良く過ごせる。このアルバムは昭乃さん色が濃いってことだけど、ずっと一緒に曲を作ってる保刈さんの存在の大きさも同時に感じる気がしました。

やっぱりこう、昭乃さんの曲は聴いている時の感覚に全てが肯定される感じがする。孤独も含めて。ハッピーな曲ってわけでもないんだけど、ほら、ハッピーもハッピーでハッピーの種類によっては僕は否定されちゃうんだよね。無理にハッピーになれる人間でもないけど、自分なりのハッピーはあるわけで。そういったものまで霞の中で包み込んでくれるような感覚。

 

森に帰りたくなる。

泣きそうになる から 感情と動物 鼻うがい 『ミツバチの羽音』が楽しみ

最近なんかすぐ泣きそうになる。相変わらず泣けはしないから、なんかくしゃみが出そうで出ないような感じ。

凄く弱くなった感じがする。変容の先は安定とか、歳を取れば強くなるとか、そういう固定観念があったのかもとも思う。ただでさえ脆いのにもっと脆くなるとは思わなかった。脆いとか弱いも捉えようなのは分かるけど…

 

泣きそうになるのは音楽での感情移入が多いかな。映画とかは最近観てないしね。

音楽に聴き入ってる時よりも聞き流してる時のメロディや歌詞に不意に反応する感じ。不意な時にってことはやっぱり制御してるからなんだろうね。反応した時も、うぅ…ってなった時に即座に切り離されるというか、精神スタビライザーのスイッチが入るように止まるのだけど。やっぱり切り離されるの方が合うかな。プツッと切り替わる感じ。そしてその反応を眺めてる僕自身は置いていかれる。ザ・フラストレーション。動物になりたい。動物?動物だってそう調教されれば感情も抑えるだろうに。偏見。

 

動物の感情と言えば、サドグルが「牛は人にとても近い感情(悲しみの感情だったかも)を持ってる」とか何とか発信していて、なるほどなぁと思ったことがある。僕は人と他の動物が通じ合うとすれば音や動作ではなく、根源的な部分では感情だと思っていて、勿論その発露や知覚という意味で五感に依存する部分は多いと思うけれど、もっとこうトンネル的な通じ合いも可能だと思うし、ある意味でそれがヒトの向かうべき方向性だと思っている部分がどこかにあるので、その言葉には色々感じるものがあった訳ですね。

だってウシだよ?草食で、群れて、仔は基本一頭で、授乳期間が長くて。種の立ち位置としての悲壮感みたいなのもあって、それでも穏やかで悠然とした部分があって、でも怒りや喜びも表現する。

 

精神性を重んじるヒンディの人が牛に学ぼうとする、神聖視して崇める姿勢を維持してきたのはなんだかとても腑に落ちた。少なくとも、豚肉の忌避とかそういった方向性とは違ったポジティブな意識を感じる。

まぁ、僕はこれからも食べるだろうけど、ウシさんと目を合わせる時は意識してみたいな。食べるなら尚更嚙みしめないといけない気がした。

 

有蹄類って何かそういう雰囲気を共有してる感じがあるけど、例えばゾウなんかは気持ちを込めて話しかけると通じるような気がする時がある。若いのや単独のオスはあれだけど、年配の個体なんかはしょうがないなぁって感じに荒らすのやめて帰ってくれたりするしね。大事なのは言葉ではなく、そこに気持ちを込めて表現することで。

 

ただ、人間というのは自己の感情に対して非常にマニピュレーティブだし無頓着だから、意図とは全く別の感情を発していることがあるわけで、動物との関係になるとそれは怖いことかなぁとも思う。相手によっても選ばなきゃいけないだろうし。

例えば自分が気づいていない不安や恐怖が動物を刺激して襲われることもあるだろう。逆に余裕を見せようとして、それが無防備と受け取られることもあるだろう。相手がどう受け取るか、それは相手次第だし、相手に同じものがあるとは限らないし、反射や思考というプロセスも種を隔てれば大きく違うだろう。向こうには向こうの自然があるのだから間違えは起こるよね。それでも相手を騙す習性がある分ヒトの方が難しい気もしないでもないのだけど…

 

近い所で言えば犬と猫は反応する部分が違うけど、彼らは本当によく人の感情を感じ取っていると思う。であるならばやっぱり、まぁ完全な意思疎通となるとわからないけど、より根源的な部分では人と動物は通じ合うことは出来るし、それはこちら次第なんだろうなぁと思う。ある意味ではこれも高速のキャッチボールだしね。伝えること、受けること。控えめに言ってもコミュ障の僕が何を語っているのだろうか…あ、ヒトの方が難しいって自分で書いてた。エンパシーって本来は辛くも煩わしくもないのかもって、動物達はそう教えてくれるのに。

 

鳥になると正直単なるシンパシーなのか分からない時がある。それでもこう、互いに相手に興味を持って対峙してる状況というのは面白い。少なくとも、信頼や安心は生まれるわけだしね。それを単なる慣れと片付けるのも容易いことだけど、僕はそれ以上のものがある気がする。魚までいくと分からないけど。虫はエイリアンだけど、だから面白い。

何でこんなこと書いてたんだっけ。

 

 

話は変わり、最近鼻炎も起きやすいのだけど、今朝もくしゃみ連発でね。こうなると何もできないわけですよね。それで調べてみると鼻うがいってあったからやってみたの。初めて。ぬるま湯に目分量で塩と重曹入れてね。

こんな過敏になってる鼻に液体入れるなんてちょっと考えられなかったんだけど、意を決してやってみると全然痛くなかった。鼻に水入れると痛いのは浸透圧なんだって。だから塩入れれば痛くない。上向きながら漏斗で投入した水が喉側に通るとゴボゴボってなったから、そのまま口から強制排出するとドロドロのが思ったよりいっぱい出てね、想像以上にスッキリした。朝何十回も連発してたくしゃみが止まったの。あ、2回くらいはしたかな。すごいね。

鼻うがい、あと25年ぐらい早く知りたかった。

やってみることは大事ですね。というお話。

 

 

あのね、あと一週間で新居昭乃さんの新しいアルバムが出るの!すごく楽しみ!

「ミツバチの羽音」っていうタイトル。いつもより昭乃さん色が濃いらしいよ。

アルバムリリース記念ライブ配信の視聴チケット買おうかとも思ったけど、ハイレゾ版も配信されるみたいだからそっち買ってもいいなぁと思ったり。

 


www.youtube.com

 

楽しみだなぁ。取りあえず生きよう、生きなきゃって思える。

僕は同じ人の曲ばかり好きになるタイプなのだけど、それでもこんなに何十曲も好きな曲がある人は昭乃さんだけ。合わない曲を探す方が難しいくらい。奥底から好きだし色んな意味で救われる。導いてくれるし包んでくれる。現実逃避の先とかそういうレベルじゃなくて、本当はここに居たんじゃないかって感じがする。もし死後の世界があるなら昭乃さんの歌のような世界がいい。

泣きそうになっちゃう。

靄 軸 仕事の電話を無視したこと David Nevue

見失ってばかりだ。全てが靄に包まれるこの感覚。慣れ親しんだ世界。

日はまた昇るというけれど、日はまた沈むの方がしっくりくるんだなぁ。

 

僕の場合はそもそも見失わないような軸があるのか、という部分が問題だろう。

ただそこは仕方がない。わがままな僕は腑に落ちてもいない軸など拒絶してしまうだろうし。だってそれは欺瞞だと思うから。経験を介して腑に落ちればいいのだけど、そこまでにとても時間がかかってしまう。

 

自らの感情の海に沈み揉みくちゃになっている自分もいれば、全てをただ虚無と傍観してる自分もいる。その温度差に戸惑いながらまた一日が過ぎて行く。その繰り返し。

一時的に靄が晴れても、長いスパンで見ればまた靄に包まれる。それもまた繰り返し。いい加減それを受け入れるべきなのではないだろうか。でもその先にあるのは虚無でしかないから、結局人は足掻かなければならない。

ああシーシュポス…繰り返し。

やっぱり罪人なのかなぁ。

 

ほら、そうやって勝手に苦痛を認識して勝手に苦しんでる癖に被害者ぶる。被害者?罪人?

でも苦しいんだもん…

(原罪を思いついた人は凄いと思う。その概念にどれだけの人が救われたのだろう。これも軸の一つだと思う。)

 

大体何で虚無か苦痛の二択なの?何でそうなっちゃうんだろう。何でただ楽しく生きられないの?ただ今を過ごすことができないの?

 

今を生きることが難しいのは、僕が何かを置き忘れてきているからだろうか?それとも、僕はそもそもが過去と今の狭間の住民なのだろうか?そんなことすらまだわからない。

 

冷たい抱き枕。致命的なまでに温もりのかけらもない。でも何かを抱かずに眠るのは何かが胸を吹き抜けていくようで寒過ぎる。熱帯なのにね。

人肌の温度の抱き枕を作ったら売れるかな?人みたいな形にして。

それこそ人の欲求に対する冒涜だろうけどね。救うことの罪。頼ることの弊害。こうやって苦痛を美化して、また溺れていくんだろうなぁ。

 

外の世界も変わらない。Covid19、次はウクライナ。偏ったまま過熱しては移って、その繰り返し。ずっと変わらない。

沸騰するお湯を遠くから眺める水のように、ただ室温のままあることを意識させられる。その寂しさと安心感。

 


そういえば今日は仕事関係でトラブルがあったらしいのだけどわざと電話に出なかった。3時間後に電話して忙しいって言って終わり。

対価も十分に払わないのならいいように使われてたまるかって思って。現場に居た人は困っただろうし、申し訳なさも感じたけど、だからって僕が休日にホイホイ電話取って行っちゃうのも良くないと思った。快く行けるなら別だけど絶対嫌な気分になるし。

まぁ、それだけ今の僕の中に余裕がないのだろうなとも思うけど、珍しくNOが示せたのは良かったと思う。

 

最近知ったDavid Nevueという人。この人の作る曲が凄く好き。どの曲もメロディラインが凄く奥の方に触れてくる。

 

これ一番好き。


www.youtube.com

雲のタイムラプスっていうのも凄く良い。僕も雲眺めるの大好きだから見惚れちゃう。
雲って本当に刻々と顔色が変わって、空や風との兼ね合いも含めて人の感情みたい。
タイムラプスもスローモーションも人を超えた感覚で自然を捉えてるみたいで、何だか不思議な気持ちになる。何か、憧れてるものに近い。

前半の軽やかでスムースな感じも好きだし、中盤以降の寂しげな、時折激情的な起伏にはそのまま持っていかれそうになる。何だか分からない感情ごと引きずり出される感じが凄い好き。

 

この二曲もお気に入り。


www.youtube.com

 


www.youtube.com

 

上の曲は"Overcome"下の曲は"Winding Down"っていうアルバムに入ってて、どちらも好きな曲がいっぱい。ぼーっと聴きながら浸れる。

そういえばこの人は自分のチャンネルの動画で話てるのを聞いてると、結構しっかりした信仰心とスピリチュアル観を持っているようで、僕からすればとても軸のある人。そんな人がこういう曲を作るんだなぁって思うとやっぱり軸は内面においてはそこまで関係がないのかもと思えてくる。


無理に軽やかになろうとするなということなのかな。

 

さて、井戸の中に帰ります。なんて言うと貞子みたい。

復活の喘息 アレルギー 生きてる感不足 至らない感と他人軸

昨夜は蕁麻疹と喘息のツープラトンにあえなく轟沈。重ねたクッションに前向きに寄りかかる感じで寝たり覚めたりを繰り返した挙句、久々の寝違え…

蕁麻疹は全身の発疹が2日ごとに出てた1月よりはマシになってきた気はするけど、ここにきて喘息が復活してきた感じ。喘息さんは村に住むようになって徐々に出なくなって、もう多分8年以上出てなかった。それが今週2回出て今も気管支が変な感じ。

先々週辺りにコロナっぽいのに罹ったからその影響もあるのかなぁとも思ったけど、どちらかというと環境とか精神的なあれな気がする。

今は街に住んでいるしね。

 

眠れないのは辛いんだけど、でも今更喘息の薬を買うのも何かなぁって思うし、クリニックにかかるのも面倒だなぁって感じ。

幼少期からアトピー、鼻炎、喘息とはとても密接な関係にあったのだけど、思い返してみると喘息って息苦しいから辛いのは確かに辛いんだけど、個人的には結構恩恵も受けてきた気がする。恩恵と言っていいのか知らないけど。

慣れっこだとそれが当たり前という感じで辛いけど辛くないというか、それがニュートラルな状態。運動誘発型の発作が多かったから、運動したり笑いすぎたりすると喘息が起きるのだけど、楽しければ喘息になっても楽しいから笑うし、子供だから発作が起きるのは分かっててもお構いなしに走ってた。苦しくなれば気分も強制的に落ち着いてじっとするし、当時は吸入薬も持ってたしね。あんまり苦でもなかった。

 

むしろ喘息の場合は言い訳に使えることも多くて、周りも「じゃあしょうがないね」って感じだったのが結構よかったなぁって今は思ったり。小学校の長距離走の練習とか、中学の部活とか、喘息を理由に見学してたことが結構あった。発作自体はあったからずる休みではないけど、やろうと思えば全然できたっていうライン。

あんまりのめり込めない運動やチーム行事に無理せず付き合わずに済んだし、発作が起きれば落ち着かなきゃいけないっていうのは、言い換えれば一人の時間に引き戻してくれるということで、それはやっぱり今思えば恩恵だった気がする。一応周囲も認める病気だから自責なんかもなく、ある意味で気持ちよく休める時間だった。

 

僕はアレルギーは検査によれば色んなアレルギー物質にも過敏らしいけど、どちらかというとこの運動誘発型の喘息とか、寒暖差や寝不足で出る血管運動性の鼻炎とか、物質的には何やっても効果がなかったアトピーとか、季節関係なしの結膜炎とか、原因物質どうこうっていうのじゃない感じのアレルギーが多かった。最近は蕁麻疹。

この中で一番辛いのは鼻炎かな。くしゃみし過ぎると頭がぼーっとして何も考えられなくなる。

こちらに住むようになって何年か経ってからは、どのアレルギーもあんまり出なくなってた。虫刺されから慢性の皮膚炎になったりはあるんだけど。やっぱり街は合わないのかな。それとも仕事、というか生活が合わないのか。うーん。

 

何となくだけど、アレルギーというのもメッセージ性があるような気がする。ここにきての喘息は特にそう感じる。でも身体は何を訴えてるのだろう。

症状が出てる時って不意に昔同じ症状が出てた時の感覚に繋がる時がある。そこに何かあるのだろうか。

 

 

最近も相変わらず低調な日々。低空飛行と思ってたけど既に墜落してる感。

先週は意識して食べたいものをお金のことを考えずに食べてみたりしてみて、多少生きてる感があった。でもやっぱりそんなの続けていられないし、続けてると効果も減ってくる。そりゃお金持ちも心を病むのだから当たり前だろう。

生きてる感?生きてる感。生きてるのに生きてる感が少ない。生きる屍状態。それを紛らわすだけで過ぎていく日々。

幸せな生活は既にある筈なのに何が足りないのだろう。幸せな生活?そんなのはただの客観的な尺度での幸せな生活で、主観的に幸せだと言えるだろうか。足りてるから幸せというのはお粗末。そもそも幸せとは何なのか。わからないけど、生きてる感というのはそれに直結するのではないだろうか。

 

僕は幸せという感覚があまり分からない。頭ではわかるんだけど、何か色々伴っていないというか。前にも書いた気がする。孤独はこんなにも身近なのに。

でもこれは気質的なものなのかも。僕が幸せの感度が高かったら双極みたいになってるだろうし。逆か、双極みたいな自分だったらもう少し幸せの感度が高かったかも。

であるなら、自分なりを摸索するしかない。幸せというものの在り方、感じ方。もしかしたらもう既に自分の中にある感覚が、幸せという概念と結び付いてないだけかもしれない。無いなら無いでそれなりに生きるしかない。

 

そういえば今日ふと、生活は一応維持できてるのになぜやらなきゃいけないことをやってない感覚、至らない感覚が付きまとうのだろうと車から夕焼けを見てる時にふと思った。一応最低限はこなしてるから維持できてるのに。

何を求められてると思ってるの?何を自分に課しているの?

わからない。

一応最低限って何が基準になって一応の最低限なのだろう。

 

頼まれごとも期待も評価も受けるか受けないかは自分次第なはずなのに、そもそもやる気がないものなのに、自分の中のどこかでは勝手にやらなきゃいけないものに分類されているものがあるのかもしれない。親だから、大人だからっていうのもそう。どこかで勝手にラインが引かれてる。

だからやってない感に苛まれるし、ゆっくり休んでる時にもそんなことしていていいのかって思う自分が居るのではないだろうか。

そんなことを思ったら急に腹が立ってきた。勝手な他人軸で何でそんな思いをしなきゃいけないのか。

一体こいつはどこに隠れていたのだろう。今の今まで気づかなかった。

生きてるだけでも十分やっているのではないかって思ったら、なんか意外と頑張ってるんじゃないかと思えてきた。

十分ってなんだよ。よくやってるということにしておこう。いいよね?

 

とりあえず自分にとっての生きているとは何なのかをまとめてみようかな。色々なものを整理し直さないといけない気がする。喘息の記憶なんかもヒントになるかも知れない。

丁度、明日から2週間以上一人暮らしになることになった。図ったようなタイミング。

色々と整理する時間になりそう。執着の芽のようなものも意識してしまったから、それも向き合わないとなって。

 

子供が長期休みに入って家族が久々に妻の実家に里帰りすることになったのだけど、確定したのは三日前だった。僕はお仕事があるからついて行けず。森に帰れないのは残念だけど、でも今の自分により必要なのは一人の時間なような気もしてる。何より、帰省が確定したのを聞いた時に何だか気持ちが軽くなった。静かな時間、一人の時間。雲の絵が描きたいな。

 

明日は家族を送りに片道5時間の往復。明日中に帰ってこないといけないからちょっと大変だけど焦らず急がず運転しようと思う。道路も穴やひび割れだらけだろうし。

ということで今夜は珍しく早寝さんです。また蕁麻疹出てるけど、もう今夜は薬飲んじゃおうかな。

おやすみなさい。良い週末を。

誕生日 から 不調 人格 "Clay - Ghostly Kisses" "Everything Matters ft. Pomme - Aurora"

また誕生日が過ぎていった。くーるくる、くーるくると地球にへばり付いて太陽を回ること早35周。一体これは何なのだろう。

毎年fbにお誕生日メッセージをもらって、でもなんかもう面倒というか億劫だから誕生日消そうかなって思ってたんだけど忘れてしまった。

結果また今年もお誕生日メッセージをいくらか頂いた。気分が乗らずまだちゃんと見てないんだけど、でもまぁ色んな所からメッセージを頂けて、この人達と人生の中で交差したんだなって思うと感慨深く、嬉しいことではあるなぁと思いつつ、数時間後にはまた億劫さんに戻ってしまった。お返事しなきゃな…

 

何でだろう。わからない。最近ずっとこのモード。何もかもがこう…

自分の中が繋がってない。自分の中?それは結局のところ自分と外が繋がってないというのと同意義というか。外っていうのはね、外の自然のこと。人や人々の話じゃなくてね。

風邪ひいたりでお散歩してなかったのがいけなかったのかな。

ひたすら辛い。すぐには溶けない程度の酸の海に沈んでるみたい。でも膝下の水位しかないのに立ち上がらないのは自分っていう。何とも言えぬ滑稽さ。

 

歳を重ねることに関しては僕は別になんとも思わない。これから段々と体力やら何やらが落ちていくのだろうけど、それはまぁそういうものだし。

川が流れるように、山が色付くようにに、実が熟すように、そういう移ろいを肉体としても精神としても体験できるのは感慨深いし、それを通してまた世界の移ろいがより色鮮やかに、きめ細かく見えるようになるのだろうと思うと楽しみでもある。

 

今回の不調はいつもの憂鬱とは違う。冷たい中の温かさがない。

指の間から零れ落ちるものを見てその虚しさに沈むのがいつものそれなら、今回のは指があること、皮膚があること、神経が通っていること、血肉そのものに対する意味不明感。なんで?なんでっていう部分に答えなどないのは分かっているのに、融通の利かない駄々っ子のようにその答えだけを頑なに求める。そうすれば救われると思ってるから。

胸の中のざわめき。それがある一点でふと別の感情とくっついて抑えきれなくなりそうになる。ほら、やっぱり抑えてるんじゃないか。何で抑えるの?馬鹿の一つ覚え。

 

 

よくさ、繁殖の目的は子孫を残すことって言われるけれど、殆んどの動物において個体の主観レベルで子供を残すなんて考えてるわけがないんだよね。したいからする(考えるまでもなく行為に繋がり)、結果的に子供ができる、それが主観でしょ。種レベルで見たところで子孫の繁栄は結果論だ。結果的に生まれ結果的に継がれ結果的に増えるに過ぎない。その情動を生む欲求だって結果的に発生したものだろう。

それをあたかも、性欲という根源的な欲求自体が繁殖という大いなる目的のために存在するかのような物言いはどうなのだろう?目的だの本質だのっていうのはいつも在るがままの姿を観ようとしない部分があって、それは自己欺瞞にこそ成せる業なのではないだろうか。そうやって縛り付けられる。

 

上手くは言えないけど、それと同じことが今僕の中で起こっている気がする。認識の問題。頭でっかちの代償。脳を切除したいと何度思っただろう。煩わしさの中枢。

皆どうやって頭と仲良くしてるのだろう?うー…

 

ざわつき、この感情の主体は僕ではない。いや、僕なんだけど他の人格というか…でも誰?一体何人同居してるんだろう。皆そうなの?僕が気にし過ぎなだけなのだろうか。自分って一言で言うけど、そもそも自分ってどれ?ってなる。例えば「自分がやりたいように」っていうアドバイスをもらっても、どの自分を見ればいいのか分からない。「自分がどう思うか」これも難解。こう思ってる自分も居れば全く反対のこと思ってる自分も居たり。考えてないから決めれないとか、決断力が無いから優柔不断とか思われるんだけど、考えてないわけじゃないよ?寧ろ考え過ぎちゃうから思考を放棄した方が上手くいくような気がするわけだし。優柔不断なのは認めるけど決断してないわけでもないよ?自分の中の自分たちが全く別の判断を下しがちで、そういう時に総体としてどうしたらいいか分からないから優柔不断なの。

この歳になってようやく言葉になった。そうなんだよなぁ。自分自身の中身なのに他人の言葉でつけられた説明ばかり受け入れてるから余計に分からなくなる。そういったものを全て見つけ出して書き換えていかない事にはどうしようもない。

少し楽になった。

 

 

久々だし楽しいことも書かなきゃ。

1月はGhostly KissesのファーストアルバムとAuroraの新しいアルバムが出たの。

どちらも新しい一面が見えるような内容で、成長というか成熟というのは、そしてそれが生む変化というのはとても面白いなぁって思うのでした。そしてそれをさらけ出していく姿勢ってかっこいいなとも思う。

 

Ghostly Kissesの方は6曲目の"Clay"が一番好き。


www.youtube.com

 

Auroraの方はこれが好き。"Everything Matters" ft. Pomme


www.youtube.com

 

あれ、もう2時だ。おやすみなさい。