感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

探しもの から / アニマ から

何かを探してる。見えそうで見えないもの。そこにある気がするのにそれが何なのか分からない。分からないのに、何故それを必要だと感じるのだろう。順番があべこべだぞと言いたい気もするが、そういう時は大概本当にそれが必要なのだ。

 

今日はあんまり調子が良くなくて、午後Zoom会議以外はずっと横になってた。横になってずっとそれを探していた。掴めそうで掴めないもどかしさ。意識の奥に沈んでは浮いてを繰り返す。そういえば昨夜も気づけばそんなことをしていた。もう少しな気がするのに求めてる収穫がない。だからこうやって際限ない自分の内側の電波が届くギリギリのところ、意識と無意識の狭間を狙ってバンジージャンプを繰り返す。

時折意識が飛んだ後もイメージを抱き抱えたまま浮き上がってこれる時がある。色々拾い上げたけどなんだかよく分からないものたちばかり。大概、ぼやけているものは割とすぐに消えてしまう。はっきりしているものは1つ。絵画のような、会ったことはないけどどこか懐かしい女性の顔くらいだった。どこかの民族衣装を着てる。

 

無意識が不思議なのは、こういう訳の分からないものが沢山沈んでいることだろう。これが僕の記憶の中から出てきたのかも分からないし、ぱっと作られた悪戯的なものなのか、それともずっと大切に仕舞い込んできたものなのか、そもそも僕のものなのかも分からない。

サルベージ船で宝探しをするのに似ている。目当てのものではないけど何かが出てきた感じ。

 

この作業はまるで、宇宙の中で自分の見ている世界の小ささに気付くように、自分の意識というものがどれだけ小さくて曖昧で儚いものなのかを思い知らせてくれる。それがどこかで嬉しいのだろう。自分という存在の根幹であろうとするこの意識がどれだけ曖昧で不確かなものなのかを証明してやりたいような欲求。だってそれさえしてしまえば…

 

 

などと昨夜の僕が下書きに残していたので見直しもせず続きから今日の分を書くね。

 

最近またアニマについて考えてる。何かそこにあるような気がして。

僕が最後に見たアニマと思しきものはセリカと名乗る中性的というよりちょっと武闘派な感じの人だった。この名前が頭に浮かぶたびに車かよって思うんだけど、語源のスペイン語だとちゃんとした意味があるらしいと今知った。なんかイメージとぴったりでビックリする。不思議。

彼女が姉御肌というか男性的だったのは僕の正反対が出てると考えればいいのだろうか。それともそういう願望があるのだろうか。似たようなものだとも思うけど。

 

前にも書いたと思うから端折るけど、彼女とは握手をして共闘の約束をしたんですね。それから出てこない。それについて考えてたんだけど、もしかしたら統合したのかなぁとも思う。

 

元々僕は性別、特にジェンダーロールに関して周りとは捉え方が合わなかった。何だか知らないけど子供の頃から男がどうだとか女がどうだとか刷り込まれるのに腹が立ったしあんまり根付かなかった。そんな自分と周りの間で揉みくちゃにはなったけど、そのおかげでより自分なりに捉えなおせたとは思ってる。

性自認についてもそう。男に囚われることもないと思ってるし、色んなコミュニティに潜入してROMる中で、僕はパンセクシャルやノンバイナリーな人の投稿に共感を持つことが多いことに気付いたのが2年位前になるだろうか。価値観的な意味でね。

 

ユング系の本や人の解説を読んでてもちょっとしっくりこない部分があったのはそのせいかもと思った。彼の生きた時代なんて今よりもっと無意識にジェンダーがスパッと分かれていただろうし、その中でのアニマ、アニムスの在り方が書かれてるんだと思う。

って考えるととてもしっくりきた。

河合隼雄の"無意識の構造"に出てくるアニマ男性、アニムス女性という言葉も、そのジェンダー観の中での話であって、今ほど性の在り方が多様化の中で自認され肯定されていれば、アニマやアニムスの在り方もより多様化していて当然だと思う。

 

セリカが武闘派なのはジェンダーやジェンダーロールどうこうではなく、当時僕の中で内戦状態にあった思考ベースの自分と感情ベースの自分、その思考側の性質が反映されたのかもなぁと思う。共闘の前に休戦だったから。

あ、共闘っていうのはね、過去の自分、子供の頃の僕を助けるため。取り戻すため。その子を彼女は愛おしそうに見ていたし、話しかけていた。

少し前なら「思考が?」と思っていただろうけれど、今は「そうなんだよなぁ」と思える。発達の残酷さの結果というか。

 

でね、アニマに戻ると、アニマには段階があるという。これについても多分しっかり当て嵌めることは出来ない。その時僕が彼女に対して感じたのが安心と友情だった。多分あんまり異性として見てない。でもそれってなんかこう、とても反映されてる気がする。

最近よく思うんだけど、相互の関係において性愛や与える愛よりも深い結びつきは友情に近いものだと思う。友情っていうのも一般的な友情とは違うかもしれない。

 

男女の友情は成立するかって質問に対する見方も、その人にとっての男女や友情が何を意味するかによって違ってくると思うんだけど、僕はすると思うのね。別に友情が性愛の下位互換ってことはないと思うし、だから男女も性愛も超えてしまえばいいっていうよく分からない感覚なんだけど、そこにおける友情って親愛に近いものだと思う。最近の僕はそこに価値を見てるようだ。

だから性欲が落ちてるのか、性欲が落ちてるからそこに価値を見るのか知らないけど、多分前者な部分が強くて、それも受け入れられるんだけど、この前書いた通り健康面で実害があるとね…

 

長々と何書いてるのかよく分からないけど、アニマだっけ、統合したのかもと思ったのはこの辺りから。だって仲直りして握手して友情的な融和を感じるんだもん。そして何より、自分の性に対して良い意味でどうでもいいというか、自分は自分という感覚、これに尽きると思う。

 

はい。

まぁなんかよく分かんないけどよく分かんない。そんな感じの最近なのです。

集団と排他性 トリコロール 白 Found - 竹内まりか

不安や恐怖が根底にある集団っていうのはいつも排他的になる。

認められたいから認めるという関係に安心を覚えたい人にとって、自分が思ったように認めてくれない人はどうしても認めることができない。集団の中で感情を共有する内に、その中の狭い条件付きの肯定の循環に慣れてしまい、頑なになってしまう。時にはその循環、流れのエネルギーが先鋭化を生む。

二極化しやすいのはそれこそ二元的な価値判断に縛られるからで、それは善良でありたいという良心を隠れ蓑に使う感情が狭い範囲での肯定を求めるから、というのもあると思う。

 

ル・ボンが言うような群衆の中のオートマトンとは、その頑なさゆえに意思決定を集団に対し、本人は無意識の内に委ねている状態なのだろう。

どれだけ本人が理性的だと思っていても、傍から見た時のこの違和感から理性とは何だろうと考えた時、先ずこの排他性に疑問が向くものだ。真に理性的であるなら排他性が前面に出る必要がないのだから。これは結果的な排他性とはまた別のもので、その排他性の奥を覗けばいつでも不安や恐怖に繋がっている。だからとても感情的に見える。

もっとも、不安や恐怖がなければこんなバッファローの群れのようなまとまり方を人はしないものだとも思う。

 

同調圧力はその感情の共有を強要されることから起こるものなのだろう。向こうはこちらを同じバッファローだと思っているから、何の疑いもなくむしろ善意的な態度で同じ感情の認識を強要してくる。

それって僕にとってもそうだけど、多分、感情が独立してるタイプの人、内向的感情を強く持つ人にはこの上ない苦痛なのだと思う。

だって強要された感情を認めれば自分の感情を否定ないし無視することになるのだから。

 

主流と反流は刺激こそしあうけどこの構造、感情的なエネルギーが支配しているという部分は全く同じだと思う。ただ、反流的なもの、対流的なものはいつも主流に対しての対流で在ろうとするところはあると思うけど。

仲良くすればいいのにって思うけど、彼らにとってみれば意見が反対な集団を否定することで間接的に自分を肯定してるわけで、そういった意味ではいがみ合いもwin-winと言えるのかもしれない。

 

恐ろしい圧倒的な強さの宇宙人が侵略してくるとか、共通の脅威が現れた時に人類は初めてまとまることができるって話は聞くけれど、さっきのようなことを考えるとやはりろくなことにならないのではないかと思ってしまう。何がどうあれまとまることが大事って考えるならいいんだろうけど、どのみちそんなことに疑問を持つ時点で僕は個人主義的なんだろうねってことくらいしか分からないね。

先ずはそれぞれが自らの中の不安や恐怖を認識して直視しろなんて言いだした日には、結局同じようなことをこちらが強いるようなものなのだろうし。そういうものだって思うしかないのかもしれない。無常。

 

何で週末にこんなこと考えてるんだよぅ。何かで多様性の時代がどうこうって聞いてさ、感覚的にそれがもう過去のもののような気がした。本当の意味で多様性の時代なんてきたこともないのだけれど、それにしても一瞬の灯だったのではないだろうか。排他性って多分そこだけのものじゃなくて、集団の中の頑なさがその人の中で自らの排他性を正当化してしまえば、外に見る排他的なものも肯定せざるを得なくなるのではないだろうか。自らを否定しないために。

でも根っから、しかも個人レベルで排他的な人なんて居ないとも思う。経験や状況がそうさせるだけで。生理的な嫌悪とかは別だと思うけど。

 

また色々落ち着けば違いに光を当てようとする時代は来るのだろうか。人が寛容になるには精神的な余裕が必要なのだろう。寂しいな。

 

またこのネタかよって感じだけど割と久々だから許して♡ Zoomミーティングで色々思う所があったの。いい人たちなんだけど、何で僕はいつもここに引っかかるのだろう。

絶望的なまでの非国民気質(戦時で言う)だね!あ、日本は好きだよ!

もしも前世が本当にあるなら、魔女狩りかギロチンで死んでるんじゃないかって思うぐらいの集団に対する苦手意識。

 

明るいこと書こうと思ったのになぁ。

 

 

そうそう、トリコロールの白を観たんだった。面白かったけど僕にとってはそこまで深く来る内容ではなかったな。女性優位になって上手く回らなくなった夫婦が離婚裁判になり、その元妻への復讐心から野心的になったことで復讐を通して恋心が再燃して…みたいな感じ。絶望も軽めで軽い気持ちで見れる。死にたがってた男、ミコワイに一番感情移入したかもしれない。

 

青と全く別のストーリーなんだけど、序盤同じフランス、同じ時間軸ということでちょっと2つの物語が交差してるのが新鮮だった。

 

赤もそのうち観たいな。

 

 

あとね、全然関係ないんだけどこれいい。


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Found - 竹内まりか

この人初めて知ったけど僕と同い年で同じ早生まれらしい。すごいなぁ。

好きだなぁって思った曲がいくつかあるけど、Foundが一番好きかも。

 

 

はい。あ、もう月曜だ。今日はまったり過ごすけど火曜からまた忙しくなりそう。やだなー。

リビドー から 微笑ましい感 下のこと

今日はなんか気分が安定しない。疲れてるのかな。何にだよって、生活?気だるさもある。衰退。

 

衰退と言えば、色々試してみたけどリビドーが全然復活しない。そういうものと思った方が良いのか、若さにしがみつこうとするべきなのか。若さ、リビドーが弱まると若くないの?50過ぎてもギラギラしてる人もいるし、一生懸命生きてる人も沢山いる。一生懸命と言うか、精力的というか。活力?野心?

何でそんな風に生きれるんだろう。せめてそれを羨ましく思うか、投影という意味で否定的に受け止められればまだいいんだけど、全然年上のおっさん、下手したらもうすぐおじいさんな年齢の人とかを見てるのに微笑ましく思えてしまう。その微笑ましい感が元気に遊ぶ孫を眺めるおじいちゃん的なあれで何だこれ…ってなる。

 

自分にとってのそれは過ぎたと言わんばかりの態度。

まだまだこれからだって思いたいんだけどなぁ。思いたいってなんだよ。まだろくに味わってもいないのに過ぎたって。年齢的にもまだまだこれからじゃん?でも果たして年齢なんてどこまでのものなんだろうか。

そういえば僕昔から思想的なものとか価値観とかも変化が速かった。今もそう。だからって中身がすぐおじいちゃんになっちゃうとかないよね?いや、別におじいちゃんになるのが嫌だってわけじゃないけどさぁ…

 

バランスかなぁとも思うのね。ちょっとほら肉体的なものから離れすぎたというか、精神側に振れ過ぎたというか。だから運動とかしてみてるけどあんまり変わらない。今が人生で一番筋肉はついてるんだけどなぁ。

 

内外の繋がりはむしろ前よりスムーズに感じるのだけど、でも、だからか肉体側が薄まってる感じはある。チャクラ的なものを意識してみてもやっぱり下の方が数年前より弱いというか、掴みづらい。グラウンディング出来てないってことなの?自然との繋がりなら自信はあるけど、でも確かにここでやれと言われると厳しい。だって下コンクリートだよ。空気も澱んでる。視界は閉塞的、音も不自然、匂いも雑多。

そういうことじゃない?いや、僕にとってはそういうことで…

 

なんかパッシブなんだよなぁ。アクティブに自分から繋がろうって気がないんだろう。やり方が分からないだけかもしれないし、そもそもそんなこと僕にはできない気もする。

だって無機質でけばけばしい人工物に囲まれて地球や大地を感じろなんて言われてできるような人間じゃないし―。

やっぱここにいるのがいけないんじゃないかとも思えてくる。

 

そうそう、今気づいたけどグラウンディングするべきだと考えつつもそこにしっかりした価値を見出せないっていうのもあるよね。地に足を着けてどうするの?的な。ギラギラムラムラしたいかとか、活力的にお仕事したりして人間生活送りたいかとか言われるとそうでもない。むしろ面倒くさくなって放り出すのが関の山。ふわふわと妄想や感覚の中に居た方が楽しいし、何より緊張ではなく弛緩していたい。

 

ただバランス悪そうだし健康的にどうなの?っていうちょっとした不安からその方が良いんじゃないって思うくらい。

 

おしっこの出が悪いんだよぅ。前にも書いたけど多分前立腺肥大が始まってて。恐らく数年前のレプトスピローシス感染とか関係してるんだけどさ。前立腺の健康には射精が大事だっていうじゃん?月21回以上が好ましいとか書いてあったりもするじゃん?それは無理だからせめて3日に1回は…って思って始めてみるもののやっぱり続かない。何回繰り返すんだって感じだけど。続かないダイエットってこんな感じなのかな。

出せないわけじゃないの。快感が無いわけでもないの。ただやる気が起きなくて、明日でいいやって思って気付くと2週間経っちゃってたりする。

 

それが何だよって思うじゃん?でも実際おしっこの出が悪くなっていくのを実感するとやっぱり焦っちゃう。最後の方の、普段ならちょろちょろって出てるべきところが出なくてスッとまるで断水のように止まるの。そしてそこでまぁいいやってパンツを上げると高確率で数分後に惨事が起こるから、おしっこを切りやめるタイミングも難しい。振って圧迫していきんでスクワットしてみたり。この疑心暗鬼が生む余計な作業のストレス。

結局のところそれから解放されたいだけなんだよね。恋焦がれ求めてるのは快尿。それさえあればリビドーとか割とどうでもいいかもしれない。

でもちょっとは若返りたいかな。いや、まだ若いよ?

 

僕は青年、僕は青年と言い聞かせようか。若さが迸る青臭い青年。

ばっかじゃないの?そこまで言わなくてもいいじゃん。

漢方でも試そうかな…でも絶対根本的な解決にはならないよね。うーん。

 

受け入れるか。それには早いような気もするんだよなぁ。

煩悩。

主夫な週末 『Trois Couleurs : Bleu (1993) / トリコロール:青の愛』

3日前から妻が体調を崩し、一昨日の夜は腹痛と嘔吐で眠れなかったので早朝病院へ。

心配だったけど救急外来で点滴受けてもらった薬を飲んで良くなってきた。今日は食事も食べれてるので一安心。

 

普段家事手伝いはしてはいるけど、一日中子供がいる中での家事は凄く大変だなぁと身に染みる。他の家事の合間にお片付けしても子供が散らかし、その連続で心が折れそうになるね!怒鳴りたくなる気持ちも分かるかもしれない 笑 共働きで家事もしてる人って結構いるけど、それもう人間業じゃないだろうと思う。頭が上がりませんね。

 

妻も大分良くなったし、今日は家事終了ということでやっと何か書ける!って感じなんだけど、何か書きたいと思ってたことがあったのに忘れちゃったよぅ…

 

 

まぁいいや、別のこと書く。

この前ずっと見たかったトリコロール三部作の青 "Trois Couleurs : Bleu"を観たの。

prime videoのシネフィルwowowプラスに3つともあるから無料体験登録した。無料体験登録してすぐ解約すれば2週間の間チャンネルの動画見れるし解約忘れもないよ!って言っても月390円だけど。

 

それでね、この映画凄い当たりだったの!凄い衝撃をドーンって受けた感じ!

 

一つの曲が人間ドラマを通してストーリーと融合している作品で、いたるところで緻密な映像美にも魅かれる。

 

主役ジュリー役のジュリエット・ビノシュの演技もとても良かった!この人ってキリッとしたかっこよさと無邪気であどけない目が同居してる感じが好き。演技も切り替えが凄くて、表情が変わる度に緊迫した気持ちになる。

 

大まかに言えばこの映画は2人の死から始まる変化と繋がり、それがあったからこその形での完成 だと思う。喪失と自暴自棄の深い悲しみ。それが生んだ完成というか…。

 

前半はかなり重い内容だった。それこそ「一回中断してまた明日観ようかな…」って何度か思ったぐらい重い。

感情を外に出さない(でもどこか抑えきれない)ジュリーの性格がさらに重くしてるのと、ジュリエットの演技がベストマッチで、その相乗効果なのかな。個人的に内容も感情移入できるから、今まで映画で感じたことないくらい辛い重さに感じた。

 

『辛い経験で落ち込み、でも救いがあって』っていう内容って結構あると思うんだけど、『辛い経験で落ち込み、救いもないけど死ねないし生きれてしまう』っていうリアルな重さがある。喪失の先で「何で死ねなかったんだろう」「何で生きれてしまうんだろう」って言葉にはしないんだけど、その気持ちを常に抱いてるのは感じ取れるし、その裏腹日常をこなすうちに自暴自棄も薄れていく、生きる目的ももうないのにっていう葛藤。

それがなんか感情移入し過ぎちゃって重かった。

 

でね、順序的な見方で見れば2人の死があったからこその形での曲の完成なんだけど、宿命的な見方でその曲の、その形での完成を見ることも出来るのがこの映画の凄さだとも思う。

ジュリーは全てを捨てようとしたのに、外側から曲作りに引き戻されてしまう。それも一度ではなく。何気なく目に映る人や耳に入る音も、変化から生まれた出会いや愛も、様々なものが曲の完成に向かって一本の線になっている。共時性や集合的無意識を思わせるような作りだと思う。

この映画のテーマの『自由の愛』っていうのも、ストーリーの中の愛憎劇よりももっと大きな意味での愛なんだろうなぁとか思った。

 

あと、愛もそうなんだけど、寛容もこの映画の中ではとても大きな意味を持ってると思う。特に後半はその要素が強くて、安心しながら観れた。

 

各登場人物の寛容さと人間らしさに支えられる愛。愛があるから寛容なのか。わかんないけど。 怒りや憎しみに愛が打ち勝つ描写(その結果の寛容)も見られたし、愛や寛容があるからこその誠実というのも思った。

愛や寛容に対する思いは最後に流れる完成した曲のギリシャ語合唱にも表れてると思う。ジュリーが辛い経験を越え、様々な出来事の中で彼女の内側の愛を昇華したからこそ、欧州統合のための協奏曲の中に聖書から引用したそのメッセージを盛り込めたんじゃないかなとも思う。

 

当時の当事者である人達にとっての欧州連合の発足って希望は強かっただろうし、それだけじゃなく様々な感情もまとってたと思う。そこに初っ端から『愛が無ければ』というメッセージをぶち込んだのも凄いことなのではないのだろうか。フランス政府の依頼でポーランド人監督が作った映画にって考えると意味深な感じもしちゃうけど。

 

あとなんだっけな、自暴自棄や思い出したくなさに物を捨てまくってたジュリーに対して路地裏フルートおじさんが言った「ものは大切にしろ」っていう台詞や初対面のジュリーに対してリュシールが言った「(物を)捨てられるタイプじゃないわ」っていう台詞も印象に残ってる。なんでだろう。まぁいいや。

 

ということで三部作の一作目は大当たりな映画でした。とてもいい映画だけど二度目見るのは勇気が要りそう。あと内容的に人にすすめづらいかな。前半重いし色々人間的だし。(なんで人間的だとすすめづらいのだろう)

でもとってもいい映画だよ?

 


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これは本編観た後に見ると面白かった。ジュリエット・ビノシェによる故クシシュトフ・キェシロフスキ監督の回想


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2作目の白も近いうちに観たい。白は僕の好きなジュリー・デルピー出るし、喜劇調らしいからもう少し気軽に観れそう。

副反応 別ブログのこと お蕎麦とメランコリー 気力不足か興味減退か "Stories from the Sky" Sid Acharya

副反応って言葉気持ち悪い(唐突)

ワクチンを打って私の身体が起こす副次的な反応って意味なのだろうけど、それって身体にとっては異物に対する主的な反応の一つでしかないのではないか。

言葉の主体を意図的に薬剤じゃなくて打つ側の私に持って行ってるのに、主副が別のところにかかってる感じ。回りくどい上に捻れていて口八丁な感じがする。ある意味信用にかかわる問題だと思う。

Major side effect的な予測出来てる主要な副作用に対してよく使われてるから主要副作用=副反応的な感覚もある。もうなんかよくわからない。

 

それに比べて主作用・副作用はシンプルだ。主体は薬剤。それが人体に起こし得る主副の作用。

人によって作用が違うのは主作用副作用でも前提としてあるのに、なんでわざわざ反応という言葉を使うのだろう。

ヘリ搭載型護衛艦とか特科とか支援戦闘機的なあれなのかとも思ったけど、副作用はもともと使われてる言葉だからただ濁したいだけ的な?

 

なんでこんなしょうもないイメージ戦略に出るのだろう。と思うのだけど、それなりに浸透しているようで(この前書いた知人もバンバン使ってる)やっぱり効果はあるのだろう。

薬剤に対する不安を和らげるだけでなく、反応したのが自分の身体だという意識を生むのなら普及啓発する方にとっては一石二鳥だよね。やり方が真摯じゃないせいか僕は嫌いだけど。

 

ミーハーな人(その知人は自称ミーハー)は社会との感情的な結束が強いだけでなく牽引する役割も担ってるように見える。だから宣伝にしても何にしても何かとここが狙われ、その人達の揺れが起こす影響が自分の所まで波及してくる度に僕はなんなんだよって思っちゃうんだけど、こういうのは一つの構造というか、機関として見てみると面白かったりもする。とても素直なのだ。そう思うと羨ましくもあり、気持ち悪くもある。

 

いつもそう、この憧れと嫌悪。なんなんだろう。素直になりたい自分とああはなりたくないという自分がいつも浮かぶ。

ディストピアものが好きなのはそういうとこなんだよなぁ。

 

まぁ色々書いたけどやっぱり副反応は言語的におかしいと思う。定着してしまえばそうでもないのかもしれないけど、最後まで抵抗するからな!

そんなんだからいまだに携帯とか言っちゃうんだぞ?別に気にしてないもん!べーだ!

 

はい。

 

あと何書こうかな。

取りあえず忙しいのは通り過ぎたから今週はゆっくり過ごしたい。

もう一つ放置してしまってるブログがあるんだけど、そこのあり方をちょっと考えたい。本人が特定出来るブログだからペルソナに振り回されてうまく書けなかった(だからここと住み分けしてた)のだけど、少しずつ双方の自分を混ぜ込む必要がある段階なのかもしれない。それに前ほどの抵抗を感じないどころか価値を見るから、やっぱり人は変わるもんだなぁと思うのでした。

だってさ、僕の仮面を見て知り合った人と関係を続けるのは辛いけど、素顔ではないにせよその成分を見てなお繋がれるような人とならお互いに学びがあるような気がするじゃん?じゃあ自分から見せるしかないのかなぁと思った。それ見て離れていくような人には離れてもらった方がお互いのためだろうしね。

 

ここはまだまだ僕にとって必要だし閉じる気はないけど、究極的にはここは必要なくなればって以前書いたのはそういう意味だったんだなぁとしみじみ。

 

はい。

 

今日はお蕎麦を食べた。スーパーで日清フーズの信州そば乾麺が売ってたから買ったの。それなりに高いんだけどたまにはいいかなって。超久々のお蕎麦。2年以上ぶりですよ。そうめん系とかうどん系は中華にもあるけどお蕎麦は無いからね。

それなりに小麦粉も混ざってると思うけどやっぱりお蕎麦だぜ、てやんでい!って感じ。

それはともかく、最初の一口目、美味しいと思ったと共に何を思ったと思う?

「これにとろろがあったらなぁ」だよ。長いも系は売ってないんだよなぁ。僕は大和いもが好き。あの白いとろろの触感とつゆによく合う風味がふわって広がり、噛んだ瞬間蕎麦の風味と混じり合う感覚を思い出して、久々のお蕎麦なのになんだか物寂しい気分になった。後ろ向き人間だけど食べ物にまでメランコリックな気分になるのはどうなんだろうか。

 

美味しかったよ!美味しかったけどさぁ…いつか日本に帰ったら絶対とろろ蕎麦食べる…

 

はい。

 

最近はね、まだあんまり外のこと取り込む気力がないな。映画も観たいのあるし本も買ってあるんだけど手が出ない。気力がないのか興味が薄れたのか微妙な所だけど。

 

いつもなんか、いろんな顔の空とか、広大な包み込むような海とか、背の高い草が夜風に揺れる草原とか、少し遠くから見た霧が立ち込める森とか、曲がりくねって海に注ぐ川とか、そんな風景が頭に浮かんでる。大体どれも夜か夕方。その方が心地がいいからかなぁ。まだ黄昏には早い気もするけど、十分頑張ったしなぁと思う。まぁほら、夜型だからここからが長いのよ、きっと。別に無駄に長くなくてもいいけど…

 

これ今日の気分

Sid Acharya - Stories from the Sky


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メランコリックな安心感を体現したような美しい曲。

Sidはオーストラリアの作曲家らしい。知ったばっかりだけど好きな曲多い。

広大で色んな環境のあるオーストラリアの空はいろんな顔を持っているのだろうなぁ。

空って本当に不思議。人が内面に空を持っているように、空と感情はとても良くリンクすると思う。

ぼーっとする時間 から 美しさ 尺度 "Ocean Foam" Cicada

暗闇の温かさ、苦痛の中の安らぎ、虚構に隠れた真実、重さの心地よさ、絶望が与える希望、滑稽な健気さ、凄惨な光景に見え隠れする美しさ、不条理という条理、それらの逆も然り、そんなことばかり思ってる。なんなんだろう。

 

先週はちょっと忙しかった。なんかこう、忙しいと何やってんだろうなぁってなる。

 

暇な時間が自分にとって特に大事に感じる。暇っていうのは何もしてない時間。ぼーっとしてる時とか、お散歩してる時とか。

ある種の趣味とか、映画観たり本読んだりネットサーフィンしてる時っていうのは暇な時間というよりは、より外側に向いてる時間。最近はあまりこっちに割く気力がない。

 

ぼーっとしてたりお散歩してる時っていうのは、思考や感情を整理してる時なのだと思う。浮かんでは消えるイメージを眺める時間。誰が浮かばせて誰が捉えてるのかは知らないけれど。それが冒頭の羅列にも繋がる。

その時間がいくらあっても足りないということは、そっちで処理しきれてない部分があるということなのだろうか。あ、お散歩は最近ずっと出来てないんだけどね。うちの区画ロックダウンで。はぁ…

 

捉え直し捉え直しってそればかりで行く先が見えないんだけど、でも戻りたくないし戻れないと思える分それでいいのかなとも思う。人生って不思議。思考も精神も。いったい何をしてるのだろう。

現象的に捉えて、意味などなくこれが何も生まない、ただそうあるだけというのも好き。なんかこう、背徳感。何に対する背徳?とらわれがあるのだろう。

 

昨日は美しさについて考えてた。感覚的な美しさ。いや、美しさが伴う感覚?

喜びや楽しさは勿論だけど、悲愴や虚しさ、苦しみや怒り、凄惨な死でさえもどこかに美しさだけは残す気がする。この感覚はいつからだろう。前からある気はするけど、ここまで線がはっきりしてきたのは割と最近だと思う。

 

例えば人が殺し合うのを見てそれを直接的に美しいと感じるわけではない(部分的なアートとしてはあるかもしれないけど)し、むしろ悲しいし辛いし苦しいし重たくてどろどろしているのだけど、それにどっぷり浸かって身体が慣れ、感覚が過ぎ去った頃に美しさが背景に広がっているのがようやく見えてくる感じ。そしてそれは全く別々の縮尺のものが入り混じっている。

一つは生涯的、歴史的、人類的、生物的、宇宙的なとても外側に大きな尺度。それともう一つはその瞬間の感情、思考的な一見小さいけれど内側に向かって深い尺度。

その2つがカクテルのように入り混じると、とても繊細で他にはない美しさを生み出すというか…難しい… 

 

まるで初めて見る空の色と雲の形、その流れのコンビネーションが作り出す景色に見惚れているような感覚なのだけど、これは感覚であって心象が浮かぶようなものでもない。

 

災害なんかでも被災者感情というものがあるから、そういうものに配慮せずに思った事、例えば自然の生み出す大いなる破壊力の前に無力な人間の姿に見る畏敬的な美しさだとか、人々を翻弄する恐怖や悲しみの後の虚しさに見る美しさだとか、そんなことを言うのは難しいけれど、実際誰もがそういった類のことを感じていてもおかしくはないものだと思う。

何ていうのかな、正や誤や善や悪や邪の外側の感覚、不謹慎とかそんなものよりもっと広い尺度の感覚ってきっと誰しもが持っていて、でもそれは知らず知らずに抑圧し、されている。

でも、そもそも人と人の間で生きるための相対的な尺度とそうじゃないものがなぜごっちゃにされ、断ぜられてしまうのだろう。何故双方が許容されるということは難しいのだろう。

 

前者ばかりの人は多いけどそれはとても正しさを持っていて、後者ばかりだとサイコパスになる。後者は人と人の間の視点で見ると受け入れ難いものの見え方なのかもしれない。でもそれは皆が自らのその見え方を抑圧しているからそう見え、忌避すべきものになるだけであって、本当は恐れるまでもない全くの別ものなのにって。

 

固定観念のない子供がかわいい子ブタを思い浮かべて、「お姉ちゃんブタちゃんみたい」って言うのともちょっと似てる。嫌な顔をされたり「いけません」って言われるだろうけど、無垢な子供が見たかわいさは紛れもなくかわいい子ブタ。それ以上に本物を見るということがあるだろうか。

大人は自分たちの視点で子供は経験や知識が少ないからそんなことを言うと決めつけてしまうけれど、経験や知識が少ないからこそより直接的に物事を見ているものだと僕は思う。

別に答えは無くて、僕が書いたことを読んで「いや、そうじゃない」と思った人にはそれが大事なのだろうっていう、そういう話だけど。

 

何書いてたっけ。美だった。

美というのは個人の感情と密接な感覚だけれど、人が経験的に何かを感じたりする中で、どこかに救いとして残るものはこの美だったりするのではないだろうか。それは全てが既に美しいからであって…

なんかこう、創造とか奇跡とか普遍とか生命とか運命とかの美って感じもするから、神や大いなる存在を信じる強さを持った人が愛と表現するものはこれに近いのかなとも思う。

はい。オチはないです。

 

 

そうそう、とってもいい曲を見つけたの。見つけたというか、Youtube musicが運んできたというか…

CicadaのOcean Foam。一回聴いてしゅきしゅき!ってなった。

 

Ocean Foam / Cicada


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Cicadaは台湾のグループらしい。しゅきしゅき!ってなる曲がいくつもある。台湾の音楽はあまり知らなかったから好きなグループが見つかってちょっと嬉しい。

 

White Forest / Cicada 


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これもいい。ずっと聴いてられる。聴きながらぼーっとしてると何時間も経っちゃう。

ぼーっとしてるけど内側はぼーっとしてないから、意識的に瞑想もして休めた方が良いのかもしれない。

時 から 時間、日付、クロノタイプ

時は刻まれるようになる前はただ流れていたのだろうか。空を見ていたのなら時の中を回っていたのかもしれない。過去を今と区別し始めたのはいつからなのだろう。未来を感覚ではなく予測としたのはいつからだろう。

時の進行は線なのだろうか。範囲だったり場だったり細切れだったりジグソーパズルみたいだったり、全く別のものだけど人間がそう知覚するしかなかったり、円環っていう人もいるし、円錐で表す人もいるし、どうなんだろう。オーバーラップし続ける経験的な意味では3次元で表現するのはやはり不可能でって話になるのかな。でも表現できないのは表現方法の問題なのだろうか。

そもそも、時という概念は本当に必要なのだろうか。本当に妥当?

知識として導入されない場合人はそれをどう知覚し習得する(しない?)のだろうか。

 

カレンダーを見る度に年という365日と1/4の区切りや、それが12個に分けられた月や、1日を7回ごとに区切った週や、それぞれの日に与えられた日付や曜日に閉じ込められている感覚になる。

暦が月や季節と共にあり、もっと大まかだった頃はどうだったのだろう。それより前は?

 

今日は本当に土曜日なのだろうか。頭では2021年7月17日の土曜日であるということは分かるけど、でもそんな概念が本当に必要なのだろうかと抵抗を示す自分がどこかにいる。それは自分には合っていないという感覚からくるものなのだろう。

人々が当たり前にその中に居ると思いがちな時間や日付だけど、一番近くて確実なところでは僕自身が30年前くらいまではその外側にいたはず。(でもその頃の視覚的な記憶が自分のものなのかよく分からない)

極端?そうだろうか。時間であってもその流れという捉え方であっても日付であっても、捉え方が実在論的すぎるのではないか。僕は別にそれらが無いって言ってるわけじゃなくてね、道具のはずの概念ありきになってるせいでそれらそのものに目がいきづらいってことであって、なんて言うの?わかんにゃい。

 

勿論社会的に、現代文明的に様々な概念を共有することが必要なのはわかるけれど、でもそれが当たり前、当然とされるとちょっと偏狭すぎではないかと思ってしまう。

これはちょっと極端だとも思ってるけど、そうなんだもん。

 

だって概念ありきで今日が7月17日だと思い込んでいることで見えなくなっているものは少なからずあるはずで、時間がチクタク進んでいると思い込んでいることで感じられない何かも少なからずあると思うし、実際にそれを朧げに感じている。ほんとに?あー、だから嫌なんだ。もっとはっきりそれを感じたいのに、既成概念が邪魔をするからだ。今日の収穫。

 

どうしたらそれらをもっとはっきり感じられるのだろう?傍から見たらとても馬鹿らしいことなのかもしれないけれど、人生というものを考えるとそういうものを探求することって僕にとってはとても大事なことな気がする。だってそれ抜きには死にきれない気がするから。

これは別に普遍の何かを見つけたいとかそんなんじゃなくて、単に自分の感じ方でってことだと思う。普遍の何かなんて求めたところで、主体の僕が僕である限り人間の僕として普遍に見えるものでしかないだろうから。そんなことより、そこにある自分の感覚より導入された自分に合わない概念を優先しなきゃいけないのがやっぱり違うと思う。

 

自己弁護ついでに書いておくけど、早寝早起きが善いものとされる時代はもうすぐ終わる気がしてる。僕は根っからのフクロウ人間だから結構生き辛かった。

でも今は概日リズムや生体リズムの研究も進んでいるし(一日三食きっちり神話も崩れかけてる)、クロノタイプという捉え方も浸透し始め、夜型が夜眠れないのは当たり前という流れが強まっている。リモートワークで働き方も幅ができれば早寝早起きしてお仕事しなきゃという刷り込みからの自己緊縛も緩むと思う。職種にもよるだろうけど。

パフォーマンスを犠牲にして合わせるのはどこまでの意味があるのだろうか。シエスタだって導入すればいいのに。仕事もそうだけど、学校ももう少しフレキシブルでいいと思う。今思うといつも居眠りしちゃう子は可哀想だった。

僕は居眠りしなかったよ?眠気に耐えるので必死で何も頭に入らない時間は結構あったけど。そういうのは社会に適応させる訓練という意味では必要なのかもしれないけど、半ば無理やり適応させなきゃいけない社会でいいのだろうか?とも思う。

 

で、これだけ固定観念から脱却する動きは起こり得るし、起こり続けてきたのだから、時間やカレンダーの現状での捉え方も僕が生きてる間は無理でもいつか必ず人類は抜け出していく気がする。って無理やりそこに繋げるのか。でも無理矢理でもないでしょ。時間や日付に対する別の認識が根付けばいいのだから。仮に僕が生きていたら、それを見て「ほれ見たことか!」って言ってやりたい気持ちを一生懸命抑えつつ、これもまた塗り替えられていくものなんだという、どこか虚無感に近くもこれでいいのだ的な気持ちを抱ければ万々歳。多分そうはいかずにまたその新しい通念に辛くなってる。

 

 

時間ついでに感覚時間的なことも考えたいと思ったけどもうこんな時間だし壮大過ぎて眠れなくなりそうだからやめとく。

 

皆さん良い日曜日を♪