感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

孤独 から ”Ritorno - Egor Grushin"

“Loneliness does not come from having no people about one, but from being unable to communicate the things that seem important to oneself, or from holding certain views which others find inadmissible.”
― Carl Gustav Jung  "Memories, Dreams, Reflections"

 

そうだよなぁと思うんだけど、その自分にとって大切なものっていうのが深めれば深めるほどどんどん共有が難しくなっていくっていうのは結構一般的なことなのかなって思う。共有に対する努力不足とかそういう話ではなく、大切であればあるほど言語化の部分で妥協も難しくなるわけだし、ある意味頑なになるのも仕方ないと思う。人によって見え方も捉え方も考え方も違う中では尚更だ。

人は生きている限り孤独なだけでなく、孤独を深めていくものなのではないだろうか。

 

僕は人との出会いには恵まれててもいつも孤独だったし今もそう。そんな自分に自己嫌悪を抱くこともあった。周りは良くしてくれるのに孤独を感じる自分に仄かな罪悪感を持っていた。

それが楽になったのは孤独が当たり前という認識に変わってからだろうか。孤独の辛さ自体は時折あるけど、それも心地よさが混じるようになった。

広大な宇宙にポツリと浮かぶ惑星の気持ち。寂しいからこそ聞こえる歌もあるのだし、その寂しさがどこかの誰かが感じたものと似ていると思えば温かさもある。

 

孤独に対する罪の意識は遡ればやはり学校にあったと思う。仲間意識、社会性を育むために孤独は間接的に否定される。「一人で抱え込まないように友達には手を差し伸べましょう」こういったものが善意で溢れた意識で導入されていく。

それを人一倍真に受ければ知らず知らずの内に自分の内側にも根を張るということなのだろう。

 

学校教育にも孤独を受容する度量があってもいいのではないだろうか。つまりは集団を離れることの肯定。集団、社会性をより自由に捉えてもいいと思う。どのみちヒトは社会性を持っているのだから、そんなにまで孤独に怯える必要もないはずだ。怯える?まぁ、怯えてなきゃ強制はしないだろうし… 強制せずとも人が人の繋がりを遮断するとは思わない。でも強制すれば色々と拗れるものだ。

 

本当に仲間なのであれば、その人の孤独もその人と受け入れられるはずなのに、そうでないということはその程度のものであり、その程度のものになってしまうのではないだろうか。だから生き辛さだけが残ってしまう。っていうのは言い過ぎだと思うけど、一因としてね。

「友達を沢山作りましょう」から生まれる友達がいっぱいいなきゃいけないような感覚。「みんなと仲良くしましょう」から抑圧される嫌な友達を嫌と感じる自分。そんな悪意のない刷り込みから副作用的に生まれ、深い部分に残る思い込みはいくらでもある。

 

人間とは本当に不便な生き物だと思う。それが作るシステムもまた。いや、システム故なのだろうか。

あちらを立てればこちらが立たない。どうしてなのだろう。立たないからこそ発展があるのかもしれないけれど、だから僕はそれが嫌い。

 

 

明るい内容にしようと思ったのに。いや、明るいよね。嫌いという意思表示なのだし(暴論)

先週は元気なかったけど今週は元気!なんかこう、明るい話題で終わらせたいな。

 

そうそう、最近よく聴く曲があってね、凄く良いの。


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これもっと流行ってもいいと思う。

 

Ritorno - Egor Grushin

1. Chronos

2. Run (feat. Endless Melancholy)

3. Chimeras (feat. Endless Melancholy)

4. Harmony

5. Rise

6. Ritorno

 

Egor Grushinさんはウクライナの人らしい。

どのトラックもしゅきしゅき!ってなるけど、特に1. Chronosと3. Chimerasが好き。

通しで聴いてもとってもいいです。

部分で見ると悲愴、混沌、憂鬱さが目立つけど、全体を通すと普遍、希望、安心を感じる 。一見相反する広狭の主観が生む相乗的な世界。より広く見たメランコリーというか、それが僕は好きなのだと思う。こう見えて僕は基本的には楽観的だから。

 

Ritorno' is a new album by the Ukrainian composer and pianist Egor Grushin, consisting of 6 instrumental pieces, which revolve around epic piano and strings parts. Six compositions on 'Ritorno' - six steps from the past to the future. All that is needed in order to defeat the remains of the Old and get ready for the Future.

 

"As CHRONOS keeps turning the Zodiac Wheel

We RUN to live & alter

Leave our CHIMERAS behind

Feel the HARMONY of the universe

RISE up from the shadows of the past to the future light

RITORNO - inizio del nuovo viaggio"

 

https://hiddenvibes.bandcamp.com/album/ritorno

 

最後のトラックのRitornoはイタリア語で『戻る』とか『帰る』って意味みたい。そしてそれはこのトラックでは新しい旅の始まりを意味するんだって。

アルバムを通して6曲が過去から未来へのステップになってるそう。その全てのステップが古の残りを打ち倒すためのもので、そしてそれは未来に向けた準備なんだって。

そりゃ好きと感じるわけだよなぁと思った。

 

でもどうやって立ち上がるんだろう。 秀逸な自虐オチ(自画自賛)

精神的にどん底な週末 "Table for Two"

ここ数日超久々にどん底感。何だか知らないけど感情がぐちゃぐちゃでやりたいことが手につかず、疲れて横になってると寝てしまい、しかも変な夢を見てのループを繰り返し遂に土曜の夜になってしまった。なんだろうこれ。あ、ご飯はちゃんと食べてるよ。

新月のせいかな。

「月が暗かったから(適当)」などと意味不明なを供述しており…

それ以前に雨降ってるけど。

 

今日はイライラが酷かった。プンスカしちゃいそうになる感じ。普段あんまりイライラしないせいか余計に振り回された。今は起きたばかりで大分和らいでるけど、まだ視界がいつもより眩しい。過覚醒状態なのかな。眠れるからまだいいけど。

でもなんでだろう。別に変なストレス受けてないんだけど…いや、ストレスはいっぱい抱えてるよ?内にも外にも。でもここ数日に特別なストレスは特になかったと思う。

うーん…

 

まぁいいや。何か書いてみようかな。

 

やっぱり書けない。うぅ…

 

やたらと短いから音楽貼り逃げしとく


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これ大好き。この人の作った曲好きなのが多い。Abel Korzeniowskiってポーランドの人だったんだ。今知った。ポーランド、いつか行ってみたいんだよなぁ。ウイングハサーの国ですよ。穀倉地帯行ってみたいし、中世の街並みも見てみたい。

オーストリア、ハンガリー、スロバキア、ウクライナ辺りも行ってみたい。民族、文化の境目、時代ごとに残された痕跡そういったものを見て触れられるのが旅の醍醐味だけど、気が済むまで見て回ってたら何年もかかりそう。そもそも行ってみたい場所が多すぎる割に腰が重すぎるという問題。

なんだ書けるじゃん。音楽のおかげかな。まぁでも今日はこの辺で…

 

誰かが作ったループ版もあるよ!普通にループ再生すればいいとも思うけど。


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では皆さん良い日曜日を!

「疲れた」と人 夢のこと 『赤い砂漠』

最近あんまり書いてなかった。書くならゆっくり一人の時間に書きたくて、でもその時間は眠いみたいな。

今はまたこちらはロックダウンだから収入のこと考えないといけないんだけど、中々…お仕事行かなくていいのはいいんだけどね。

何書こうかな。思い浮かぶものはあるんだけど突き詰める気力が足りない。そうなんだー。でもいつもそうかも。

 

そうそう、最近映画あんまり観てなかったんだけどこの前久々に観た。20代までは映画大好きだったんだけど、最近はなんかこう観る前に疲れることを予感してしまうというか…映画ってハマると凄く感動するし色んなものを得るけど、特に初めて観る映画はやっぱり消耗も激しい気がする。気力使うし集中力も要るし情報量多いし。

それを先に予感しちゃって億劫みたいな。

まぁでも新しいものに触れるってことは大体そういうもので、これが過度になるとおじいちゃんになっちゃいそうと思うね。

 

多分興味がまだ内向きっていうのもあるんだよね。いや、ちょっと違うかな。外で得たものを使って内側を掘ってたけど、前ほど狂気的に内側を掘ろうという段階ではないっていうのもあるのかな。今はただ井戸の中に浸ってる感じ。

その内また別の形で興味も外に向くだろうとは思うんだけど、あんまり長いとやっぱり不安になる。今は外側にあんまり価値が見えない。疲れた。疲れた?うーん。

いつも疲れてるけどその疲れじゃなくてなんかこう、生き方の問題なのかな。外側の色んなものを見て浮かぶのがもう疲れた的な。結局そこ?というかそこまで色んな事に関わった訳でもないじゃん?でも色んな景色は見たいな。そうだ、疲れたって感覚の時に浮かぶ景色にはいつも人がいる。人、社会、国、文明。忙しいんだよなぁ。

景色、自然とその中のstillnessっていうか、その雄大な速度の中なら疲れない。それは多分その静寂が自分の中のそれと重なっているからだと思う。人々の中は忙しいし、ある程度合わせなければならないし、合わせれば揺れるし、その辺りが難しいんだろうね。

社会も人々も見るだけで疲れたって感じるのは、結局のところ実際疲れたからなんだろうか。関わってないところも結局、人々との関係という意味では同じことなのだろう。別に人嫌いって訳じゃないよ?1対1なら煩わしさは少ないし…複数いると巻き込まれるから。巻き込まれるとはまた被害妄想じみたものが出てきたけど、まぁでもそうなっちゃうんだよなぁ。例えばどんなに嫌な人でも、どんなに合わない人でも、真に1対1であるならそんなに嫌な相手にはならないはずなのにとは思う。有り得ない仮定だよね。でも本当にそう思う。だってみんな他との関わりの中に生きてるから僕にとって嫌なことをしてくるわけで、それが無ければその行動をする意味もなくなる。極論を言えば嫌な人などいない。と思いたいだけなのかもしれないけど。

何でこんな面倒くさいんだろう。

 

まぁぼちぼちやっていこう…

 

そういえば昨日高校時代の奴らが出る夢を見た。思い出したくもないんだけどね。

一番印象に残ってるシーンがあってね。タイマンという意味の分からない闘いをやらされることがあって、あの頃は何度かそいつに腕ひしぎ逆十字固めをやられたの。僕はほぼ無抵抗だった。体格差もあるし、ちゃんとやったところでどうなるわけじゃないし。ほんのちょっと大げさにダメージを受けることで早く終わるから、そのことばかり考えてた。って言ってもボロボロだけど。彼もやらされる側だったけど、その時ばかりは楽しそうだった。人間そういうものだし、僕も体格が勝っていればそうだったかもしれないし、何も言うことは無いけれど。

腕ひしぎって本当に痛い。若干、今でも肘が変。腕立て伏せが上手くできなかったりね。柔らかくなかったらもっと傷めてたと思う。

 

で、夢に見たのもその腕ひしぎの場面なんだけど、かけてる方が僕でかけられてるのが彼だった。容姿はなんか違ったけど感覚はあいつだった。夢の中で復讐するなよって話だけど、ただその夢の感触としては別に復讐って訳でもなく、自然と、慣れた感じでやってた。恐ろしいって思ったねぇ。その自然な感じが。僕も相手を傷めつけて喜んじゃうような部分があるんだろうなぁ。

別にオチもなく、あとはもう一人の顔がはっきり残ってるくらいだろうか。別にもう憎んでもいないけど、思い出して気分のいい顔じゃないね。

 

あとなんか書くことあったかな。

あ、映画観たこと書いて観た映画のこと書いてないっていうね。1964年の『赤い砂漠』っていう映画。イタリアとフランスの合作らしい。事故のショックで不安定になった女性、ジュリアナを中心にした話。主演のモニカ・ヴィッティが時折見せる不安に支配される演技も、映像も現実の薄さやズレを引き立てるようでとてもマッチしていて、終始感情移入してしまうような内容だった。工場のうつらうつらとした景色もなんかこう、親近感。

 

彼女が経験している不安は主に言動として外から(+音)しか描かれていないけど、本当に何かを見ている、支配されているというのが伝わってくる。特に息子が立てなくなったと思い込むシーンは引きずり込まれるようだった。時折起こる成り立たない会話もいい感じ。

 

ところでamazonにあるこの映画のDVDの商品説明

商品の説明
内容(「Oricon」データベースより)
心の乾きを癒すために不倫に走る女の姿をとおして、人間の孤独と闇を描いたドラマ。モニカ・ビッティ、カルロ・キオネッティほか出演。

これいくらなんでも適当過ぎるのではないか。

神経症の不安から逃れるために結果的に不倫になりかけただけで、心の乾きはあんまり関係ないと思う。不倫に走るっていう部分も別にそういうわけではなく、そこにいたコラードとの関係の中に安心というか、それに対する期待を見出しただけで、ジュリアナが不倫に走る女っていうのは全然違うと思う。彼女にそんな余裕はなかった。多少の男女関係を意識して近づいていたのはコラードの方に見えた。

いずれにせよ、彼女の不安による存在の揺らぎがなければ進展するような関係ではなかったと思う。それをすっ飛ばして人間の孤独と闇っていうのもちょっと…

 

 

はい。そんな感じ。

いい映画だと思います。

改めてこう、人それぞれの経験と現実の乖離というか、そういうものを考えさせられる。… 改めてじゃないね。それが見たくてこの映画を観たんだもんね。不安、恐れ、孤独、そういったものと現実の境界ってどこにあるんだろう?だからそもそも現実というのは何なのだろうか。主観的な現実では境界なんてないのかもしれない。客観的な現実は存在するの?

 

 

書きながら聴いてたやつ


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これ色々浮かびやすいかも。

月食 から 構図 感覚と頭

月食見えた―。わーい!ブラッドムーン、いわゆる皆既月食の状態は間に合わなかったけど嬉しい。結構長い時間探してたんだけど建物に隠れてたのと灯りが多いので見つけるのに時間がかかった。

 

写真はあんまりうまく撮れなかった。三脚がないのもあるんだけど、月食って陰になってるところがメインなんですよね。それがなんだか抜けてたんだと思う。陰になってるところを写すには露出上げないといけないんだけど、既に皆既は過ぎてたからそうすると太陽光が当たってる部分が明るくなりすぎてなんか嫌で(見え方が肉眼から大きくずれるのが嫌)。そうこうしてる内に太陽光が当たってる部分に意識が向いた写真撮ってた。

そういう時ってどうしたらいいんだろう。ちょっと勉強しないとだめだなぁと思った。

 

それでね、さっきちょっと眠くて脳死状態の中クロップや微調整してみてたんだけどね。

 

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いじった後に気づいたんだけど、あれ、これじゃ三日月じゃん?って。位置の話ね。陰の部分が上手く撮れてないことは置いといてね!

 

月食ってことを意識するなら

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大体このぐらいの位置の方がいいかなって。

上の写真が三日月になっちゃうのは光の当たってる部分を意識するあまり

       月

   ↗自分

太陽 

みたいなイメージで切り取った位置関係になってる。 

でも月食ってイメージならバーンと月をど真ん中に据えるか、陰が真ん中あたりにくるように若干ずらす方が月食っぽい。

 

こういうのもいいのかも。

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これは地球の影をイメージしてみたよ!見えない球体をメインに月はわき役。これも月食の見方の一つだと思う。右上に数十分前の月を貼り付けた加工写真も表現としてはいいのかなって思った。

 

何年か前までは撮った動物や鳥の写真を時々fbに上げたりしてたんだけど、構図が上手いねって褒められたことがあった(えっへん!)。ただ感覚的にこの辺がいいなって感じで写真を撮るんだけど、よくよく考えると「この辺がいいな」っていう納まりというか映えというか、安心感というか、それらを生んでるのは、被写体の目線や姿勢、周りの構造物や背景とのバランス、そういうものを全体的に見た時の感覚なんだなって今思った。

だから写真を見るとその人がファインダーの内外に何を意識している(無意識でも)のかがわかる気がするのだろう。

何年も写真撮ってたのに今更当たり前のことに気付いた(繋がった?)感じ。

 

それは何て言うんだろう、例えば写真で意識的に表現をするなら頭を介入させることで表現の幅が広がったり、昇華させることができる余地があるってことだと思う。

 

月、太陽、地球、光、陰、地球の影、動き、そして自分。月を見ていた時、見ているものには意識せずともこれだけの要素があって、多分もっとあるんだけど、僕らはその中の単体もしくは複合で景色を見ている。意識できれば何にフォーカスするかで視点を切り替えることができるし、構図も調整することもできる。

でも感覚的にやってる時ってそれがずっぽ抜けてる。コンディションがいい時は凄くいいものが見えてたりするんだけど、意識的な部分がないから後になって「全然違うじゃん」っていう今日みたいなことがしょっちゅう起こる。というかそれは僕の人生でいつも起こることで、テストも問題なくて何となくお勉強出来てるじゃんと思ってたら全然理解してませんでしたみたいな。

 

僕はまだ頭側の自分を好きになれない部分がある(半分喧嘩別れだし?)のだけど、こういうことを考えるとなんかこう、感覚と頭がうまく協働できたら楽しそうで有意義だなって思ったし、こういう方向なら嫌な感覚も湧かないということが今日これを書いててもう一つの発見。まだうまく文字化できないけど、うーん、遊びの幅が広がるのはいいこと!

というわけで国交正常化を目指したい所存です。

 

スーパームーンの夜に内的な大発見をしてしまったけど、べ、別にスーパームーンのおかげだなんて思ったりしてないんだからねっ!ツンツン

 

そうそう、日本から見た月食の写真も見たけど、やっぱり傾きが違うんだね。そりゃ当たり前なんだけど、改めてそう思ってイメージすると面白いなって。

はい、うん。

 

あと2日お仕事で3連休!なんとか頑張れそう。

おやすみ!

僕の『見る』について 優位知覚によるフィルターと盲点

誰かに共感・感情移入したときに、「この人は何を見たのだろう?」「何を見ているのだろう?」というのがいつも先ず浮かぶ。それはかなり僕自身の感覚に基づいた言葉であって、これを所謂ちゃんとした文章に直すと「この人は今までの人生でどんなことを経験してきたのだろう?」になることが分かる。

極端に言えば、多くの場合僕の中では『経験した』が『見た』にそのまま置き換わるということ。いや、逆かな…。感覚的には『見た』が先に来るけど、”『見た』ということは即ち『経験したということ』である”から。まぁ多分どっちでもいいんだけど。

 

何故こうなるかを少し掘り返してみると、認知特性という言葉を使えば僕は視覚優位だからなのだろうと思う。視覚、再構築したイメージというか。以前やった認知特性のテストでは写真と立体で分けると立体の方が強かった。確かに人の顔覚えるのはあまり得意ではないし…。

視覚イメージを切り取って残してるというより雰囲気をイメージにして構築してるんだと思う。もっと言えばその中に住んでる。だから何もかもが幻想だって感覚が強いんだろうね。認めてしまえばそれも段々好きになってきたようだけど。

 

いちいち読み直さないけど、多分このブログの中には『見る』が多用されてる。そして『それ』『これ』が多用されているのも、『それ』や『これ』を内的に見ながら書いているからに他ならない。(っていうのはだいぶ前に書いた気もする)

それは僕がこのブログの用途として感覚(内向的直感や感情)の文字化を重視しているからで、自然といわゆる感覚的な言語になるし、僕もいちいちそれを修正しないから。(読んでいる人のことを考えてないわけじゃないよ!ただ、そもそも感覚的に通じない人はこんな文章読まないと思うから。なら細かいことはそっちのけで感覚的に繋がりたいじゃん?)

 

何を見たか

↓人は蓄積した経験によってその人の今が形作られている。その人がいかに今に生きていようと、今に生きるようになったその人も経験の蓄積によるものが大きいだろう(その経験の蓄積による造型が必然か偶然かはさておき)。

 

そしてその人が思考するときに無意識に参照している記憶も、慣れによって合理化され無意識に起こる行動も、今その時に感じた感情の根っこも、それらは全て過去に繋がっている。

その過去を詮索すると、記憶の回廊のところどころに象徴的なイメージたち(その多くはおぼろげで言語化できる形になっていない。はっきり見ようとすればするほど形を変えてしまう掴めないものたち。)が4次元的に折り重なっているのがわかる。

僕の無意識が参照しているのはそのイメージで、僕が記憶を意識的に思い浮かべようとすると出てくるのはそのイメージから認識できる形に加工された記憶によって構成されるイメージや動画、空間なのだと思う。どうあっても見ているのだ。

例外的に声や音も残っているが、それらにはやはりイメージが付随していて、参照した際に沸く感情も視覚イメージに繋がる。↑ 

↓↑内は僕の感覚

 

だから僕の場合それを他者にも当てはめて、その人は「何を見たのだろう?」「何を見ているのだろう?」ってなるんだろうなぁって。

 

じゃあ他の知覚が優位な人達は、聴覚優位や言語優位な人達はどんな世界を見ているのだろう?ってほら、この無意識なプロセスの中で僕にとってはやはり『見る』ものであることが前提になっている。知覚フィルター的な。

 

これは一種の、人間にとっての盲点なのだろう。もし自分の感覚で相手のそれを決め付けないこと、相手の生の感覚を尊重することに価値を見るなら、それが盲点であることを認識した上で頭を介在させる必要があるのかもしれない。難しいし、それをやったところでどこまでできるのかわからないけれど。

 

他の人達の感覚を体験してみたいな。

例えばさ、僕が何かを文字化するときに、そのものの形を保ったまま言葉の型枠にはめ込むのに苦労するし、その出来上がりのこれじゃない感にストレスがあるのだけど、それはそのものが手前にあるからなんだよね。言語優位の人は多分そのものの前に言語があったり、そうでなければそのものが自然と言語と融和しているのだろうか。記憶も文字や言葉になるのかな?記号?

それは時にすごく羨ましく感じる。勝手に想像して勝手に羨ましくなってるってなんか滑稽だけど。

 

例えば64+29を暗算するとき、僕の中では64とくっつきたくて仕方ない29が26と3に分裂して64と26ががっちゃーんして90になった所に3がすーっときて93になるけど、あるいはもっと大きい数でそれが上手くいかないときは脳内でいちいち筆算をやったりもするのだけど、数字や記号に強い人ってどんな風に計算が繰り広げられてる(ように知覚する)んだろう?すごい気になる。

それを僕が見たらマジックショーを見ているのとなんら変わらない反応をするんだと思う。

 

あとはさ、本を読むときに文字が声になって聞こえたりもするけど、聴覚が優位な人はそれを掴むのも上手いのかな?僕はその脳内朗読が通り抜けて行っちゃったりするから、やっぱりいちいち想像してイメージに作り変えないといけない。

 

感情を音で表したりできる人もなんか羨ましい。楽しそう。

文字をそのまま吸収すると表現する人、写真のように切り取って残すという人もいるけど、実際どんな感覚なんだろう?後者は記憶法として試したことあるから、なんとなくは分かるのだけど、それを本一冊分とか自然にやるのってすごい。記憶を参照するときもパッパッと出せるのかな?(僕の場合その記憶法は記憶の宮殿じゃなくて記憶の迷宮になってしまうし、知らない人が住んでて勝手に散らかしたりするから上手くいかなかった。その人が僕に統合されて宮殿が支配下に置ければ上手くいくのかな?でも引き出せない記憶が僕にとって引き出せない類のものであるうちは無理なのだろうと思う。)

 

文字をそのまま吸収した人は記憶を参照するときも文字が出てくるのかな?あれ?文字が『出てきて見える』ってなっちゃうとやっぱり違うのだろうか。

 

一回観た映画やちょっと読んだ漫画の台詞をいっぱい覚えてる人もすごいと思う。僕の場合は観た後の自分の感覚を元にふんわり残ってて、その中をチューニングしているとシーンの映像がぼんやり残っている感じ。共感的に観れたものなら中に入れたりもするのだけど、それ自体が僕が解釈して再構築した世界で…

本なんかもそう。あんまりしっかり残らないけど、ふんわり経験として吸収はしてる感じ。なんか危なっかしいな。そのうちどこぞのゲームの主人公みたいにどっちがどっちだか分からなくなったり別の自分に乗っ取られたりしそう。

 

 

ところで明後日の皆既月食、ここだと日が沈む頃には地球の影を通り過ぎ始めた辺りみたい。ちょっと残念。最近夕方雨の日が多いからどの道見えない確率の方が高いけど…

でも楽しみ!

 

 

あとこれ!最近刺さった(言ってみたかった!)やつ!


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この人は何を見たんだろう?とにかくとっても好きなのです。

ドメニコの演説 から 狂人 隣のおばさん

ノスタルジアのドメニコの演説。この映画の中で特に印象に残るシーン。(貼った動画は最後に焼身自殺シーンがあるから苦手な人は見ないでね!)

 


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"What ancestor speaks in me? I can't live simultaneously in my head and in my body. That's why I can't be just one person. I can feel within myself countless things at once.

 

There are no great masters left. That's the real evil of our time. The heart's path is covered in shadow. We must listen to the voices that seem useless in brains full of long sewage pipes of school wall, tarmac and welfare papers. The buzzing of insects must enter. We must fill the eyes and ears of all of us with things that are the beginning of a great dream. Someone must shout that we'll build the pyramids. It doesn't matter if we don't. We must fuel that wish and stretch the corners of the soul like an endless sheet.

 

If you want the world to go forward, we must hold hands. We must mix the so-called healthy with the so-called sick. You healthy ones! What does your health mean? The eyes of all mankind are looking at the pit into which we are plunging. Freedom is useless if you don't have the courage to look us in the eye, to eat, drink and sleep with us! It's the so-called healthy who have brought the world to the verge of ruin. Man, listen! In you water, fire and then ashes, and the bones in the ashes. The bones and the ashes!

 

Where am I when I'm not in reality or in my imagination? Here's my new pact: it must be sunny at night and snowy in August. Great things end. Small things endure. Society must become united again instead of so disjointed. Just look at nature and you'll see that life is simple. We must go back to where we were, to the point where we took the wrong turn. We must go back to the main foundations of life without dirtying the water. What kind of world is this if a madman tells you you must be ashamed of yourselves!

 

O Mother! The air is that light thing that moves around your head and becomes clearer when you laugh."

 

Domenico - Nostalghia (1983) 

 

こんなに奥底からの演説が他にあるだろうか。

狂人と呼ばれるドメニコがガソリンを被る前に人々に説いていたことは、僕は誰よりもまともだと思う。

この映画のドメニコには意味の分からない共感と親近感を覚える。音楽まで用意し自らの身に火をつける彼の姿は、人生を演じ切り、信念のために自らの手で最期を選ぶ姿は、この上なく情熱的に見える。

 

無関心で非現実的な並びの聴衆の中のその姿が、また彼から見た彼の人生をそのまま映しているようで儚い。それでも、いかに狂人と言われようとも、いかに狂人的な最期と思われると分かっていても、彼は彼を通し切った。やり残したことをアンドレイに託したことでそれができたのだろう。本当に純粋な熱。その対比が空間を支配し、映像全体で物語っている。

ただ悲しいのは、ドメニコが火を放つ前から何かを予感している犬、ゾーイの悲痛な叫び。「一人になるのが怖い」と日々を共にする彼女に語っていたドメニコが彼女を置いて死んでいくという悲痛な別れ。この映画では僕はこれが一番苦しかった。

ただの悲痛さというわけではなく、友情という意味で、生死を越えた部分で何かを語りたかったのかなとも思う。

 

イタリア語分からないから英語字幕がどれだけズレてるのか分からないのが残念。日本語字幕だとどうなってるんだろう?

でもきっと英語や日本語で演じていたらこのシーンもまた別ものになってしまっていただろう。アンドレイが劇中で「詩は訳すことができない、その全てがアートだから」と言っていたように。それは同じアンドレイという名の主役に重ねたタルコフスキー本人の思いなのだろうと思う。(って言っても言語ってそのレベルまで習得するにはそれこそその土地の人にならなきゃいけないから、いくつも学ぶなんて到底できないしそれが凄く歯痒い)

少なくとも字幕版では、役者の母国語での感情のこもった素晴らしい演技は本物のまま入ってくる。ただ入ってきた後に言語的に理解できないだけで…

 

ドメニコがいかに客観的な現実から乖離したものを見て信じていようと、それが間違っているというのは客観的な現実からの視点でしかないと思う。でもその客観とは何なのだろう。客観と呼ばれるものがある集団にとっての主観でしかないということがいかに多いことだろう。そこで事実とされるものが、やはりそこだけのものであることがどれだけあるだろう。なぜその一方的な事実を、さも不変のものであるかの態度で突きつけてくるのだろう。

なぜどちらも、そしてどれもが事実ではいけないのだろう? 事実がその程度のものであるのなら、そしてそこに信念もなにもないのであれば、全てが事実という態度の方がより誠実とも言えるのではないだろうか。

 

集団の悪い癖はそこから逸脱した、彼らから見た狂人の言葉には何一つ耳を貸さなくなることではないだろうか。

 

 

もう一つ、全然別の意味でこのドメニコの焼身自殺のシーンは僕の中で残っている。

小さい頃祖父所有の雑居ビルの3階に住んでいた。隣のビルの一階にガス屋さんがあった。ビルもそのガス屋さんも隣のおばさんと呼んでいた僕の少し遠い親戚のおばさんのもの。遊びに行くといつも応接用のお菓子をくれた。僕はルマンドとかバームロールが好きだった。おばさんの色眼鏡をかけた顔とか、少し独特な声とか結構はっきり記憶に残ってる。

 

そのおばさんが仕事を辞め、看板がもっと大きなガス会社の名前に替わってからはもう会うことはなかった。いや、祖母の美容院に来ていた時にちょこっと会ったかもしれない。その辺ははっきり覚えてない。おばさんはとても綺麗なちぎり絵とか作るのが上手で、美容院にも貰ったものが飾ってあった。

おばさんは僕が中学生の時に家の庭でガソリンを被って焼身自殺したと聞いた。おばさんの家は少し変わった芸術家一家として知られていたようで、その死について、「芸術家だからね。何を考えているかよく分からない。」って当時家族の誰かが言ってたのが頭に残ってる。

僕は当時全然交流がなかったし、おばさんの家の前を通ると、この庭なんだなって思うくらいだった。

 

映画の中でドメニコがガソリンを被った時、その隣のおばさんが頭を巡った。そして彼が悲痛な声を上げて転げまわる所で、やはりそのおばさんを重ねたようで、何とも言えない気持ちになった。

僕は表現ができないから、もしおばさんが生きていて接点がまだあったら、何か教えてもらえたかもなって気にもなってしまう。それもこれも「何を考えているかよく分からない。」と言われるおばさんに妙な親近感を抱いていたからでもあるのだろう。

接点があったのは幼少期だけだし、おばさんのことは全然知らないのだけど。

 

オチはないのです。なんであのおばさんのことがこんなに強く浮かんだのだろうっていう、ただそれだけの覚書。

 

実際周りから見れば変わっていたのかもしれないけど、狂人ではないと思う。おばさんもドメニコも。狂気は誰もが内包している(と思う)。それを見つめ、魅入られたというのなら、そこにはその人にとっての何かがあったのではないだろうか。それこそ個人的なものではなく、集団やそれ以上のものの一部としてのその人にとっての何かだったのではないだろうか。

ビールを飲んだ から 酔うこと 物思い 入眠しやすくなったこと

超久々にビールを飲んでみた。知人は酒を飲んで忘れることがストレス軽減の秘訣だと言ってた。

僕はどうしても酒は慣れない。幼少期から酒には嫌な思いをし続けてきたのもあると思う。多分沢山飲んだとしても自分の中である程度ブレーキをかけていて、記憶が無くなるほど飲むということも難しいと思う。

限度を超えた時にどうなるかって興味はあるし、同時に背徳も感じるんだけど。

 

ほろ酔いというのは多幸感があるらしい。多分今僕はその状態なんだけどやっぱりイライラ感がある。僕はどうしても自分をコントロール下に置いておきたいらしく、思うように思考が働かなかったりイメージが霞むのが凄く嫌。記憶や感覚に浸れないのも嫌。これに身を任せれば多幸感があるのかな?でもそれって多幸感もどきな気がする。知らないけど。多幸感にも色々あるのだろうけど、意識が霞むことによって得られるテンションの緩みが多幸感なのか、多幸感を得ながら別の部分で意識が霞んでるのかと考えるとやっぱり前者だと思う。

 

でもその感覚許せないというのはやっぱり僕は脳を休めるのが下手なのだろう。瞑想で意図的に脳を休めようとしている時も何かこう別のものを追い求めてたりする。トランス状態に入って潜在意識を覗き見たい!みたいに好奇心が先走ってしまう。常に何かを考えたり思ったりしてしまうけど、それ自体が煩悩なのではとも思う。でもそれでもいいやとも思ってしまう。

 

酔った状態に身を任せられないのは結局の所一人の時間に脳を使って物思いやら何やらをしている時間が好きだからではないだろうか。ほら、苦しい苦しい言いながら苦しみを見たがってる的な。或いは苦しんでる自分が見たい。

でもそういうことは誰しも持ってると思う。仕事だって嫌だ辛いって言いながらそれに耐え忍んでいる自分が何よりも大切な人っていっぱいいるし。自覚しているかしてないかに関わらず、見方によっては皆Mなのではないだろうか。ということはやっぱり皆Sでもあるのだろう。

 

苦しみって書いたけど苦しみにも色々あるわけで、例えば『なぜ苦しいか』って所から見ると胆汁の中にも甘味もあったりするからそれが大事だったりね。でもその甘味だけを舐めることってできないんだよ?

 

酔ってないですよ。むしろもう醒めたよ。真夜中に醒めてどうするんだよって話だけど。あー楽ちい。楽しいの?そう言われるとやっぱり楽しいんだろうね。脳を潰してしまいたいと思いながら別の場所で楽しんでる。だから潰してしまいたいとも思うんだと思うけど…

なんかあれみたい。好きだから「嫌い!」って言っちゃう女の子。じゃあ好きなんじゃん…どっち?

 

そういえばね、入眠はここ一年くらい凄くいいの。ずーっと入眠には難を抱えて生きてきたけど、それが嘘のように寝入れる。それはなんていうかオン・オフのよりさらに外側の問題で、コントロール外の思考をまぁいいやってできるようになったのが大きいと思う。でもそれは思考をまぁいいやしてるわけじゃなくて、全てがまぁいいやというか。よくよく考えると良くなかったりするんだけど、今の僕が良くないと思うことも含めて多分今はそれでいいからまぁいいやみたいな。

入眠困難の人に教えてあげたいね。でもどう伝えるんだろう。不安でもいいんだよなんて言っても馬鹿にしてると思われる。他に伝え方があるだろうか?

神経症的であってもいいんだよって伝えたところで、その人は考え過ぎてしまう自分の考え過ぎを神経症的と解釈するからこそ神経症的であって…サンプル1で何の根拠もないけど。

 

まぁいいや。

 

やっぱり夜更かしは好き。皆が寝静まって本当に僕だけの時間。誰にも邪魔されず物思いも内観もできる。遅寝遅起きの素晴らしさを啓蒙したくなっちゃうね。

とは言いつつもう3時。流石に寝ないとなぁ。そんなことを考えないで生きたいのにね。あー煩わしい。