感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

福祉から、平静状態とストレス下の思考

そういえば、高校時代だったかな、福祉の進路も考えたことがある。でも僕がおじいちゃんの手伝い(お世話とは言いたくない)が好きだったのは、おじいちゃんが好きだったからなんだよなと思う。

 

知らないおじいちゃんとかおばあちゃんとか、優しい人もいるだろうけれどやっぱり怖いもん。

 

それに何より僕は別れが苦手だからね。この辺は今の価値観になるから、当時は全然考えていなかったけど。

 

例えばある人が自分の死について、ある受け入れ方をしていたとして、それを僕が感じていれば、多分その人の受け入れ方で見送ることができると思う。

 

でもそうでなかった場合…

例えば、口ではこう言っていても死や何かに対する不安が漂っていたり、行き場のない不安をぶつけられたり、それ自体には耐えられたとして、もし別れの場面が来たら僕は多分その仕事をする立場としては再起不能になると思う。

だってその人なりに受け入れられていないものの先にその人は行ってしまうんだよ?僕はそれをただ不安からの解放として捉えることができるほど大人ではないから、そう思おうと努力しながらも、その人の不安の記憶、そして自分ができなかったことの後悔に押し潰されるだろう。

そのくらい脆い。

 

もし、死の影に怯えている人と繋がってしまったら、その最期を見届けたら僕はどうなってしまうのだろう?

 

だからといって怖れによって距離を取った希薄な関係を正当化しながらやっていくことも僕には難しいだろう。

 

だからではないけれど、福祉に携わる人って尊敬するな。

 

なんでこう、書くこと書くこと死生観とか価値観とか感覚とか記憶とか不安とかそんなことばっかりになるんだろうか。

鬱憤とかその辺は出切ったと思うのだけれど、こういうことばかりが頭を巡っているのは、結局固まった足場がないからなのかな。

分からないことが何なのか分からない。その影を追っても分からないことが分かるわけではないということは分かっているはずなのに。

 

自分が何を求めているのか分からない。僕が何なのか、どれなのか、どの辺りなのか、どの部分なのかも分からない。

 

感覚は感覚的には分かるけど、言葉に当てはめることも説明できる形にすることもできない。

その感覚を頭で理解しようとするのがまず間違いだというのも分かってる。でも感覚に、僕の感覚にただ従って生きるというのも今はできない。そこには明確な理由があり、でも僕は感覚に生き…

感覚を殺すという選択肢も今更ないと思っていて…

 

じゃあどうしたいんでしゅか?

なんかもう再教育よろしく脳内いじってもらった方がいいような気もしてくる。で、それで出来上がるものは誰なのだろう?少なくともこの疑問がないだけ限りなく僕なのか、それともその疑問がない以上僕ではない何かなのか。また極論かい?

 

死生観、そんなに死ぬのが怖いの?いや、その辺は何度も書いた通りだと思う。寧ろ生も分からず死も分からないことが問題であって、どちらかがわかれば。じゃあ死ぬ時になれば、死んだ瞬間答えは分かるのかと言われれば、分かるか分からないかのどちらかだとしか言えない時点で分からないという意味になる。

それって結局のところ死ぬのが怖いのではないか?まぁ、そういう僕も内在しているのだろうし、そうじゃない僕もいると言えばそれが正しい。じゃあ僕の答えはどうなのと考えると僕はどれなの?ってなる。そしてお前らいい加減にしろと思う。

 

落ち着いていたと思っていればまたいつもの堂々巡りだよ。知ってるよ。不安、ストレスが別の思考を優位にする。別の?そう別の。過去の。そう言える分僕はまだ正気。落ち着いている時のふわふわした思考の僕がより僕だという認識はあるわけだ。

いやまぁ、そりゃそうだ。落ち着いている時とストレス下を比べるなら当たり前じゃないか。じゃあストレス下の今の僕は僕ではないの?まぁ確かに、今の僕は平静時には今の形ではない。

なぜなら、そう平静時なら、今のような僕の存在も認められるから。どれも僕でいいじゃん?ってふわふわと。

バラバラがバラバラのままでもやんわりと。

 

じゃあこれを書くことに何の意味があるんすか?

でもほら、何となく分かった。何となく。でもそれは答えに直結しない。ほら、すぐ悲観的になる。ちょっとは安心したくせに。ストレス下の自分と平静時の自分の捉え方の違いだと。平静時ならどの自分も認められると。

 

本当に少し落ち着いた。そうだよなぁ。どれも僕でいいよなぁとも思う。今は。紙に書いて常に持っていようかな。

はい。

 

僕のような人間がこの価値観のまま街で死んだら怨霊になりそう。

やだなぁ、ストレス下で死ぬのなら、その時優位な君は怨霊なんて信じない癖に。

それに、介護されるぐらいならこの村で多少早く死ぬことを選ぶだろうし、その僕は死を受け入れるだろう?

 

実際にその時になって騒いでも、次の瞬間には分かっているはず。分かっていなくても。ほら、逆になった。

 

いつでも死ねるように毒を持ち歩くというのがあるけど、僕の場合は死を悟った瞬間に幸福感が溢れる装置なんかがあると安心できそう。まぁそれは禁忌だろうなぁ。

というか、そんなものは必要無いように生き物は出来てるとも思うのだけどね。本来は。

 

 

そうそう、終活っていうのもあるけど、そう考えるととても有意義なものなのかなぁと思う。遺される側にとってだけでなく、死ぬ側にこそ。それ自体が不安や恐れを生まなければ。

その瞬間を悟った時に不安や後悔の材料が沢山残ってたらと考えるとちょっと怖いしね。それは人間だからこそ、本来が通用しないかもしれないから?

 

まぁいいや。お開き!

2020 8/27の夢、子供達と僕、呼吸が止まった夜、休暇が終わるストレス

昨日の夜不思議な感覚があった。

皮膚に感染があって微熱があり、鼻炎が酷かったのだけど、いや、そもそも免疫が落ちてるから皮膚に感染が出てるのか。それはいいとして、1カプセルだけ残っていた鼻炎用の風邪薬(1回2-3カプセルのを限界の時にだけ1つ服用するようにしてる)を飲んでタオルを口上から頭まで被せて寝た。

 

夢の中では夕方遊んだ携帯アプリのI Love Hueがオートプレイされたり、なぜか養護学校の教師として復帰する夢(復帰も何もそんな仕事したことがなければ免許もない)を見たりした。

 

その夢では10年ほど前に僕が小さな小学校の放課後児童クラブで指導員の仕事をしていた時、ちょっと苦手だった同僚のおばちゃん(子供への接し方とかが苦手だなって感じるだけで関係は良好だし、別に悪い人というわけではない)が上司役で出てきて僕が戻るのを嫌がっていた。

復帰直後の学校の屋内イベントの最中、通路で僕の片割れというよくわからない存在が急に出てきて、嫌われているのは彼だったとわかった。その途端戦闘になり、その上司が戦闘に巻き込まれ攻撃を受けてしまうのだけど、何故かその正体はドラゴンで、それを知られたドラゴンは飛び去ってしまった。そして僕は、人を怪我させたのではなくドラゴンで良かったぁとホッとするという中々カオスな夢だった。

 

その夢では当時受け持っていた子供達が3年分くらい育って出てきて、みんな僕を覚えていてくれた。その部分がとても懐かしく、嬉しく、夢なのに温かい気持ちになった。みんな元気かなぁ。実際の時の流れではもう10年ちょい。高校生や大学生じゃもうすれ違ってもわからないだろう。

僕は指導員の中では1人だけ若かったこともあって、指導員というのは名ばかりで、大きなお友達というか、遊び相手な役割だった。中高年が多い仕事だからそうなってしまうのだけど、楽しかったなぁ。何かこう、自分が置き忘れたものを仕事と託けてやっていた感さえある。

 

子供達と遊ぶのは大好きだけど、それは僕も童心に戻る部分、というよりも普段表出できないそういう自分があるからで、叱ったり、(善悪を)『教え』たり、型に押し込む側になるのは無理だなぁと思ったのもその仕事、そして並行して少し前からやっていた発達障害、学習障害児を支援するNPOでのボランティアの中でのことだった。

 

僕は教育に関して考えることが多いけど、教育に関わりたいという関心はあまりない。ただ多分、子供達と関わりたいというのはあるのかなと思う。それはその時の自分がより自分だと感じるからに他ならない。重ね見るまでもなく、合わさる周波数というか。合わさる方法が同調、オートチューン。

 

中学生の頃には保育士になりたいなと思っていたこともあるし、自分が教師に向いていないと知っている今でも、キャンプ場や科学館や課外授業の場で伝えたり、知る場、感じる場、考える場を提供する立場なら合うかなぁと漠然と思ったりすることはある。

 

話はその夢を見た夜に戻り。

夜中に2回目が覚めたのだけど、体調のせいか薬のせいか、まぁ多分両方なのだけど、軽い金縛りのような感じになった。

目は開いている(と認識していたけど実際に開いていたかはわからない)のだけど、呼吸ができなくなった。というより呼吸の仕方がわからないというか、そもそも呼吸という概念がなかった。

心臓さえ止まっているように感じ、でもその理由はわからず、パニック感もなかった。漠然と、死ぬのかなぁと思った。でも気づけば、泣くわけではないけれど、初めて空気を吸い込み呼吸を始める生まれたばかりの赤ちゃんのように、ひゅーっと肺が動き始めるのを感じていた。それがその夜2回あって、でも僕はまだ生きている。

呼吸が止まり、呼吸が始まった。

 

夜中に怖い思いをした時ってなんだか、無性に肌の安心感を求めたくなるのだけど、それはもしかしたら寝ている時ってある意味で死んでいるから、その途中で目覚めるとうまく繋がらず、一部感覚は生を受けたばかりの赤ちゃんのように独りの、感覚的な不安を味わうのではないだろうか。

なんかこう、アップデートに失敗してデータが飛んだコンピュータのような感じかな。もう一度寝て起き、20分もすればどっかにバックアップしてあったデータが入ってきてるような。

 

意識も感覚も不思議だな。記憶も、そして思考も。一体これは誰のもので、僕はその中のなんなのだろう?

 

やばい、このモード。

休暇がもうすぐ終わるストレス。街に帰らなきゃいけないストレス。長距離移動のストレス。

いつも街に帰る前に体調を崩すあたり、今免疫が落ちてる原因もこれではないかという疑惑。

 

休暇が半分を過ぎる頃にはもう終わりから見てストレスを感じてる。あと何日しかないという見え方。学生の頃の夏休みもそうだった。残りを見るのに引き算をして、全体に対する残りの割合への不安は、減って色が変わった分の累乗というか。この不安は確定的な未来に対するものである以上、靄のような不安というよりも、生理的なストレス反応。「君の感覚は正常だよ、でも耳を貸すわけには…」という葛藤。

仕事が始まるストレス、街に帰るストレスというより、休暇が終わるストレス。それはここを離れるストレス。

逃げろという反応の逆。

 

愛しき休暇はその終わりの不安に支配され、徐々にそして確実に色を失い、僕は感覚もろともまた灰色に戻る。

 

人生とはなんなのか。なんなのだろう?ではなく、なんなのか。

「チー〜〜ン」、生、静寂

昨日の夜寝る前に聴いてた曲、「チー〜〜ン」って音が何度も鳴るんだけど、なんだろう、トライアングルとかコップ鳴らすやつみたいなの。あれにも似てる、お葬式でお坊さんが鳴らすやつ、仏壇に置いてあるやつ。あれなんていうんだろう?

 

そんなに眠くなかったのだけど、気づいたらその「チー〜〜ン」っていう音に意識が向いていて、深く入っていた。心地よい落ち方。

その音はなんだか、暗い凪の水面に浮かぶ波紋をイメージさせる。それを見つめていると気付けば波紋は反転し、加速し、意識は収束する点に誘われる。

日本語大丈夫?

 

なんて言うのかな。

「チー」で爆発と広がり、「〜〜」で気付けば反転して、まるで戻り爆風とか、ともすれば爆縮のように吸い込まれていく感じ。そして「ン」で点に戻り、音までもが吸い込まれてしまったかのように静寂がそれに続く。

余計わかりづらいかな。

 

まぁともかく、その「チー〜〜ン」って音は、例えば生とか色んなものに通ずるのかなって思った。

またいつもみたいに途方もない抽象的なものに当てはめる。

例えば個体レベルの生、群れ、種、様々なレベルの繋がりを持った生態系、そして文明や、さらに言えば銀河や恒星の一生、宇宙たち(さもマルチバースの存在が当たり前のように言う)の一生もこんな感じなのかなぁって。前に花火に当てはめた気がするけど。

パッと誕生して外向きに広がって収縮して静寂が戻るみたいな。恒星や銀河、宇宙は生物ではないけれど、エネルギーとしてはより源泉としての激しさがあるだけで、似たようなものなのかな。

 

曲の「チー〜〜ン」が乱発するところは、波紋が沢山浮き上がるような、花火が沢山打ち上がるような、星々が生まれるような、ピンク色の花が次々に花開くような、カンブリア紀の生命の爆発のような、そんな感じがする。それでも必ず最後には音が鳴り止む。

生はやはり個体だけのものではなく、網目というか、複合というか、そういう関係の中で共有し、無機から有機から細胞から器官から個体から集団、種、生態系、惑星のように、いろんな位階で存在するものなのではないだろうか。(上位のものに意思を委ねるように)

 

「チー〜〜ン」、仏教的にはそういう効果があるからこれを使うのかな。確かに精神統一というか、集中や生死に想いを馳せるには良いのかなって思う。

何とかボウルっていうのもチベット人の知り合いが持ってグワングワン鳴らしてたけど、あれも似た感じがする。

 

 

静寂。内面が騒々しいせいか、波立やすいせいか、僕はずっと静寂を求めてる。揺らがない水面。

でも同時に、外の静寂には不安と恐怖を覚える。

外における静寂は多くの場所で異常のサインだ。虫から環境、風、そして地球に至るまで、様々なものが常に声を響かせている。僕らは恐らく、無意識のうちに音だけでなく様々な知覚でそういったものを感じ取り、文字通り繋がり、外の状況だけでなく自分の立ち位置を確認しているのではないだろうか。それは多分、現代の生活の中、僕らの中で鈍化しているようで、多分使い方を忘れているだけなのではないだろうか。

例えば動かし方のわからない、普段使わない小さな筋肉のように、一度使い方がわかると意図的に動かせるようになるし、そうして使っているうちに無意識的な動きの中にもより統合され活かされていくような。

そして、それと感情は直接的な関係にあるように思う。

 

僕は特に臆病者なので、常にアンテナを張っているのだと思う。だからちょっとした、例えば周りの音が掻き消されるよな大雨の音や、シャワー、刺激臭なんかも苦手。遮断され、孤立したような、広間の真ん中に放たれたネズミになったような気持ちになる。電子戦の最中にある、レーダーや通信だけでなく航法装置までも妨害された戦闘機のような気持ち。

高まる心拍、開く瞳孔、筋肉の緊張、背後から刺されるような不安感、気配の察知に躍起になり、感覚が鋭利になるも、小さな物音に飛び跳ねる猫のような臆病さが更にそれを加速させ、空回りする。その時内側は嵐の海のようで、何もかもがわからなくなる。

ポストアポカリプティックな世界には憧れるけれど、それは解放とか探検という意味であって、音のない世界だったら怖くて直ぐに気が狂うと思う。

 

僕はやっぱり内面の静寂は見つけたいけれど、それは多分自然の音の中、緩やかな流れの中、澄んだクリスタルのような感覚の中で見えてくる気がする。

分かんないけど。

 

僕の「チー〜〜ン」のンの後には静寂はあるのかな?

 

 

昨日の夜聞いてたのはこれ。携帯からだからURL直貼りね。

https://youtu.be/YdnSQ5hptu8

ちょっとお経っぽい。

 

Peter Gundry、好きな曲が沢山ある。特にノルディック系が好き。お散歩に合うのです。

生殖 から 性行為、コミュニケーション、手

昨日男女について書いた時、生殖を別にした部分、何でかなぁと思ったから書いてみる。

有性生殖をする生物として見れば性行為の目的は生殖になるけれど、やっぱり人間の性交ってそれだけじゃないのは事実だと思う。

コミュニケーションとしての役割の割合が多いからこそ生殖と切り離してされることが多いのだろう。でも性交が生殖としての意味を持ってされる場合が多いから生殖の要素を多く伴った性行為というのが当たり前になる。

それは一見ヒトの野生がさせることのように思えるけれど、実は先入観がそれを導いているだけではないかと僕は思っている。そうなの?

この辺は勝手な感覚だけど、性行為と生殖が結びつかずに、善悪や価値が伴わずにそれがされる場合、例えば男性女性という在り方もここまで固まらなかったのではないか。

ボノボがメス同士で群れの中のコミュニケーションとして性器を刺激したりするじゃないですか。ヒトがボノボと同じとは言わないけれど、例えば人間が性交にかける時間から見ても、そしてそのプロセスの中でされる多様な行為を見ても、生殖以外の部分を如何に大切にしているかが見て取れる気がする。

 

であるなら人間の男女関係の中で生殖の占める部分というのは結構狭いのかもしれないなぁと思っていて、性交、性行為すら、意識の中で完全に生殖から切り離すことは可能なのではないなとも思う。コミュニケーションとして触れ合い、快楽を与え合い、互いを感じ、みたいな。(ボノボの場合はメスだけに見られるというけれど、実際どうなんだろう?)

そこには多分性差も何も関係ないと思うし、より平和的な協調というか、愛がですね。ってなんでそっちに行くんだろうか。

 

性行為とそうでない部分の区切りってなんだろう。性的快感?興奮?でも性的快感っていうのも色んな種や質が混在するものだし、そんな区切りはどこまで必要なのだろう?

 

握手だって能動的に自分を差し出し、相手に自分を感じさせ、相手の手の感触、肌の暖かさを感じる行為だ。その握り方だって相手に合わせて意識的に調整する。そういう意味では肌と肌のコミュニケーションなのだし、そこに感じるものや与えられるものによってはそんなに性行為と変わらないのかも知れない。

なんていうとかなり怪しい人みたいだし、実際吹っかけ過ぎだと思うけど。僕結構思索の中だと吹っかけるのかな。いや、一見違うようで共通点があるようなのが繋がるから、吹っかけてるみたいになっちゃうんだ。きっと。

 

あ、でも実際僕は手ってとても神秘的だと思っていて、その機能からその活用に至るまで本当に繊細で、精密で、温もりがあって、意思の通りに動き、意識を省いても動き(キーボードを叩く指が自律しているかのように踊るように)、人を映し、伝え、表現し、質感や温度や色んなものを感じ取り、それでいて与え、かと思えば引っ叩いたり殴ったりする。

動きだって摘んだり、叩いたり、弾いたり、掴んだり、包んだり、握ったり、開いたり、閉じたり、凄いなって思う。神秘的なまでの機能性というか。

そのせいなのかなんなのか、解離的な状態が強まると自分の手が自分の手であることが不思議で仕方なくって、ついつい手を見つめながら動かしてみたりしてしまう。誰が動かしてるのだろう?って思うことも多い。

 

だから誰かの手と自分の手を合わせるのって凄く特別感がある。なんだろうな。唇や鼻を合わせるのは物理的な顔の近さから色んな感覚を駆使して感じ取るもの、それに親愛の表現も相まってという感じだけど、手は手だけで独立しているのに、知覚としては触覚だけなのに凄いなぁって。

 

マッサージと愛撫の線ってどこだろう?多分重なってる部分はあるのだろうけど。性的快感の有無?それとも与える意識と愛おしさから触れて撫でるという違い?後者の方がしっくりくるかな。愛おしい赤ちゃんを優しく撫でるのも愛撫だしね。(だよね?)

受け取る方は安心感が大きいのかな。触れる場所によっても違うのだろうけど、だから性的快感は一種のスパイスであって、それが生む絶頂すら性的絶頂という数ある絶頂の一種に過ぎない。

ちょっと無理やり軌道を戻してみた。

 

どちらも主に手を使うでしょ。やっぱり手って凄いなぁって思う。

 

性交も、生殖が主目的ならそこまで手の出る幕なんてないと思うんですよね。性云々というよりコミュニケーションの意味合いが強いからなのかなって。

 

自慰の場合は快楽の追求っていうのがあるのかもしれないけど、自分が知らなければ上手く与えられないからなぁとも思う。

そういえば精子戦争という本の中で、同性間の行為は性行為に慣れるためというのもあった気がする。意味なんていくらでもつけられるとは思うけど、結果的にかそうじゃないのか知らないけど、そういう面もあるのかなぁとも思った。

 

まぁでも色々あっていいと思うし、それらが概ねプログラムされてると言われても、そうなのかもなぁとも思うだろう。それだけ人体は細かいところから個体差まで良くできてるなぁと思うという意味で。

内包する性質たちの根源、 〜らしさ

大体の人の性質というのは、根源的には皆が内包しているものだと思う。そしてそれに程度があるなら、それは両極を内包しているということではないだろうか。それを色んなものが引っ張りあって、空間的に瞬間の性質を作り上げている。

 

例えば男性らしさ、女性らしさ(このワード嫌いだけど便宜的に使う)というのは、器の性に必ずしも合致するものでもなく、寧ろらしさというのは、男にはそういう傾向を持った人が多い、女にはそういう傾向を持った人が多いという部分から築き上げられた一種の幻想であると思う。器の性別と〜らしさというのは、大小社会的な役割だけでなく内分泌の関係もあるのだろうけど、実際の所それが如何程のものなのだろうか?例えば個と個の違いの中で、ある個の辿る流れの中で〜らしさを見た時に、他の要素と比べてどれだけそれが意味を持つだろうか。

 

多くの場合器に合った方を追い求めることが正しいとされるけど、性質として見るならば根源的には誰もが双方を持ち合わせていて、いろんな経緯でどっちが強く出るかに過ぎないと思う。

 

例えば運動としてのフェミニズム的な感覚を引っ張っているのは男性的な部分が強いように見える。権利を叫ぶことが男性らしさとは言わないけれど、その人を駆り立てる感情の部分にはそれが見える。特に冷静さを欠いた場合は顕著に。(この辺怒られそう)

だから自らの内面で乱反射し増幅した憎悪を生むし、それは男も然りで、男と女という性の狭間で互いに反発し合うのではないだろうか。

での結局は内包しているから、器の違いに固執せざるを得ないのかも知れない。

 

違いを認め、その上で個々が関係を作ればそういった問題は問題にならないと思ったのだけど、実際のところその男性らしさ(性別限らず)という部分が渇望するものが闘争や何かを勝ち取ろうとする部分であるとするなら、やっぱり解決はないだろうし、ある意味では解決しないことが次の問題や憎悪を生まないことになるのかなとも思った。欲望は活力であるし、それはそれで良さなのだろうから、個々に対し寛容であろうとするのなら闘争や憎悪を必要な現象として認めなければならないのかな。だから母(概念的な)は認め癒すことに徹するのだろうか。

 

憎悪は嫌だ、闘争は遠ざけたいと思う時点で、僕はそういった欲を持っているのだろうし、どこかで否定感情を振り回している。現実に浮かべ、創り出したイメージ内では僕は破壊神であることが多いしね。丁度、Sim City4で自分で作った都市を災害や兵器で自ら破壊するような欲求。

外と内の関係のあり方もまた性質によるものなのだろうけど、だとすれば僕は嫌だなぁと思うトゲトゲした攻撃的な人に見る部分を、結局の所僕自身の内側で満たしているに過ぎないし、だからこそ嫌だなぁと思うのだろう。

 

人の性質、とくに疎外感を感じることが多い僕から見る人々の性質は、大体が内外の狭間でそんなような関係にあると思う。

 

だから声を上げるのも億劫だし、というか声を上げる権利が僕にあるだろうか?ってなる。だって僕も多分どこかで同じだもの。求めるものやその方向、強度が違うだけで。

嫌なものは根源的には内包している。それがまた自己嫌悪を生み自らの否定に走っていくことになるのだろうけどね。他者否定したくない部分を自己否定で満たしたり、結局否定感情は一緒なんだよね。最近は幾分かマシになった気はするのだけど、それがまた怖い

 

〜らしさ。

どれも個々の幅に比べれば大したことはないと思ってしまう。それは経験によるところからで、性別が違っても同じでも似てる人は性質的にとても似てる所があるし、似てない人は当然似てない部分が多い。国や人種が違っても同じことだったし、世代もまぁ関係なかった。

 

国家や社会、チームという群れのアイデンティティとしてはそれは必要なのかもしれない。(僕はあんまり好きじゃないけど)

 

でも性差にまでそれが必要だろうか?いや、まぁ必要なんだろうけどね。わかんにゃい。

 

生殖機能の違いを別にしてみれば、人間という生き物を外側から見たとき、器としての男女の違いなんてそんなに大きいものかなぁと思うことはある。おちんちんとクリトリスだって元は同じなんだし、そんなに気にしないでいいと思うんだけどな。と思ってしまう僕はそれはそれで偏ってるのかも知れないけど。

そんな僕からしてみれば男らしさ、女らしさなんて押し付け以上の何でもないと感じるのもまぁ無理はないと思う。個人的なあれ。

 

だからまぁ男女の不平等については平等を是とするなら男性側がもう少し気づいた方が良いと思うし、もっと言えば男女の先入観を取っ払って、人類愛的な観点でも共有しないと本当の意味で認め合う、違いも含めて活かし合うことは難しいのかなって思う。

理想主義的?夢想家の僕にリアリズムを求めないで頂きたいね!

 

年齢、世代別の〜らしさというのは、時代背景による経験的事実が難しくしてしまうけど、そんなもの見なければ、過ぎ去った年齢の時の自分はみんな内包してるのだろうし、年なんてそんなに気にしなくてもいいと思う。ただ年上だからって敬語使われると物凄い違和感に襲われるからやめて欲しいという感じまである。壁を作るために敢えて敬語を崩さない僕が言うこと?

 

あと自分らしさかな。そんなもの定義しなくても自分が自分で在れればいいはずなのに、なぜ自分らしさを見つけて定めて追い求めなければいけないのか。その狭間の苦しみ。

そう、狭間。なぜそれが生まれるのだろう。これに関しては問題はそっちじゃないだろうか?

腐った魚達、弱った魚達の目

うーん、オーバーフィッシングというのかな。刺し網はその辺が上手くコントロール出来ないのがなんかこう、罪悪感というか。

ある魚が沢山獲れたって聞いて僕も少し離れたところに仕掛けたのだけど、全然違う魚が大量にかかった。

 

釣りでは狙ってない魚のことを外道というけど、僕はそれが嫌いで日本で釣りをしている時もクサフグ以外は持ち帰って調理して食べていた。大体は人間の勝手な先入観(釣り師は変なプライドを持つから)で、しっかり調理すれば美味しいものばかりだ。

 

今回沢山獲れたのはフナの仲間2種。綺麗な清流なので美味しいけれど、何分Y字型の小骨が背側に多くて人気がない。それでいて中流以上では一番沢山いる魚。

しかも結構なサイズなので、1人1匹でも多いくらい。その上その日はたまたまもっと人気のあるメッキやハタの仲間、貰い物のシカの内臓が食卓に登壇し、僕の魚たちは見事手付かずのまま腐ってしまった。

 

翌朝、というか今朝、狙っていた魚がかかっているかもと期待して回収するも、昨日腐らせたよりもかなり多いその2種ばかり。

仕方なく死んでいるけどまだ状態の良いものと、死が確実なものだけ持ち帰り、残りは逃した。持ち帰った魚は日持ちするように素揚げにした。

かなりの数の魚を1匹1匹網から外している時、僕は一体何をしているんだろう?という気持ちが支配的になってきた。清々しいはずの朝の、よくわからない作業。

 

逃したとはいえ刺し網なので、消耗し、鱗が剥げていたり内臓が圧迫されていたりして、どの程度生きられるかわからない。

僕は普段リリースはしないし、リリースするぐらいなら獲らなければいいと思うのだけど…

 

氷があれば数日は冷蔵できるけど今はない。塩干しにしようにも悪天候が多く作っても塩が無駄になるのは目に見えてる。売ろうにも仲買してくれる人が出かけていた。

 

とはいえ僕が獲らなければ腐らないで済んだのは確実だし、逃した魚も痛め付けずに済んだのは明白。

少し大きな目で見れば腐った魚は循環に戻ると見ることもできるかもしれない。

例えば腐った魚はオオトカゲが食べるし、残りも川ならエビや小魚、プランクトンが食べ、陸ならウジやアリが食べ、それを食べる魚や虫や爬虫類にと回っていく。

弱った魚も大きな魚や子ワニ、オオトカゲ、鳥のエサになるし、死んでしまっても上の循環に戻っていく。

 

だけど、やはりそれは自分の手から目を逸らすための都合のいい解釈だと思う。いや、その解釈をする人はそれでいいのだけど、僕個人が選んではいけない解釈というか。過程と結果として見る前に、僕には主体があって、僕の行動の責任は僕にあるわけで、無駄に魚を殺したという点は変えようのない事実だから。

 

これがどういう価値観からくるのかは置いといて、この価値観はこういう生活、狩猟採集に近い生活とはとても相性が悪いとは思う。

与えられた恵、それが過剰であっても感謝に徹するのがこういう生活では精神衛生上最も自然な捉え方だろう。だから何かを崇拝し、畏敬し、御供えをし、祈る。

でも僕にはどうしてもそれが難しい。自責から生まれる感謝は質が違うというのはわかるけど、どうしても根付いてしまっているものがある。

大量廃棄される弁当を買っても買わなくても、どちらにしても責苦の矛先は自分に向く。別にそれが良いとか思ってるわけでもなく、なんかこう、回路がおかしいのだろうな。いや、回路がおかしいせいにするのも違うだろう。手を見ろと。

 

漁業や畜産に関わる人たち、殺虫剤の会社やサプライチェーンでそういう破壊に関わる人たちはどう解釈して仕事と向き合うのだろう。

 

こっちの人達も魚や余剰食料はポイポイ捨ててるし、無駄になった魚を見て言うのは決まって勿体ないだ。感覚は物に近い。いや、虫や魚に対し痛そうとか苦しそうとか申し訳ないとか感じる方が異端なのだろう。これは文化の違いもあるのかな。

 

蜘蛛の糸で地獄から這い上がるやつ、小さな頃から頭に残ってる。天国や地獄の存在を信じているわけでもないのに、刷り込まれ、染み込み、積み重なったものたちが形を変え、価値観となってこのドロッとした血糊のような罪悪感を生んでいる。

 

焼きついた魚達の目。彼らの目は苦痛も感情も映さない。だからこそそこに映るものがある。勝手に僕が見ているだけなのだろうけど、それは僕にとっては映っているということであって。

 

普段はルンルン気分で魚を捌いてる人間なのに。捌かれた魚に対して不公平だとも思うね。いや、そもそも魚をそういう目で見るのは賤しいし、魚に対して不敬だと思う。

このモード良くないなぁ。でも必要なのかな。

 

暫くは大きい網目の網を使おうかな。でも獲れないとおかずがないんだよなぁ。それを家族に押しつけるのも良くないし…

 

生きるって難しい。ただ生きるだけなのに難しくなってしまうのは何故だろう。

こんなもの捨ててしまいたいんだけどな。

 

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今朝の川

森の村

森の中の村に戻ってきた。今回は3週間くらいの予定。

 

ここに着くのは大抵夜になるのだけど、隣の集落から家のある集落まで7分ほどボートで移動する時の空気がとても好き。

着いて最初に吸うずっしりした重い空気。陽が落ちて降りてきた夜の涼しい湿気に低地林の酸素濃度、排気ガスの匂いが全く混じっていない森の木々が放つ本当に色んな香り、時折漂ってくる動物の匂い。

その重たいけど清々しい空気を鼻から肺いっぱいに吸い込み、息を止める。体の隅々まで空気が行き渡るとともに感じる、この空気の、自然の一部に還ってきた感覚。やっぱりここなんだなって思う。

 

今回も満天の星空が迎えてくれた。

所々で飛び交うホタル、流木にぶつからないように照らすライトに映るワニの目、寝ているサル、揺れる水面、こちらを見つめるミミズク、木々や花、そして果物の香り、ここは有機物に満ちている。僕の身体と同じだから溶け込むことができるのかな。

 

生と死とは違うスケールの安堵感に浸る。内包され一部となる。この感覚は言葉の型に入れるのが難しい。言葉とは別の世界のものなのだと思う(語彙力のなさを棚に上げて言語を貶める)。

でも実際僕にとって、ここでの生と死は街での生と死とは全く違う焦点で見える。片方にピントを合わせると片方には合わない。別のものなのだ。

 

ここでの死は街での死、通念的な死を僕の中では意味しない。ここでの生死はもっと密接で、連続的なもので、丁度それは動物や虫達が繰り返す営みを思い浮かべると、そこに自らの感覚がスッと入っていくような。

 

大きなワニを見た。水面を照らすライトに浮かぶオレンジ色の2つの目。人間より太いイノシシの胴体を真っ二つに出来るサイズ。

ワニに食われて死ぬことを怖がることは、食われないように気をつけて生きようとすることは、生きるために死を意識することではないだろうか。そしてそれは生と死を引き千切った見方でもあると思う。生きる為に死なないのか、死なない為に生きるなのかわからないけど、生と死のラインがあって、そこに集中した見方になると思う。

 

でもここで感じるのは、ただ、その線にそんなに集中することもないのではないのかなということ。生と死の関係がその限りではなくなる。

それは多分、より大きなものの一部としての感覚からきている。

 

食事は動物や魚やエビを獲って殺して食べることと直結する、というかそれそのものだ。彼らは死に僕が食べる。それは自然な営みであって、森からしたらいつも自分の中で起きている1つの有機的な循環。僕が仮にワニに食べられても、森からしたら同じなのだ。

 

この感覚、僕に属しているようでそうじゃないような感覚。繋がっているような感覚からか、知覚やそれに基づく思考が僕のものではないような不思議な感じ、そして安堵感。

 

感覚の話だから頭で考えればまた変わるのだろうけど。

 

村に着いたことを書こうと思ったら死生観の話になっててウケる。

 

まぁ死生観しかり主義であったり主張だったりも、僕の中では多分まとめることは難しいんだろうと思う。前提条件つけまくっても再現不能だったりするしね。そんな僕が外の世界に対して個人主義的な対応になるのはある意味当然なのかなとも思う。

 

今日は結婚式。色んな人の顔を見て会話するのはすっごく疲れるけれど、おめでたい日だし出来るだけ楽しく過ごそうと思う。