感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ダブルレインボー スピリチュアルとの接点

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一昨日かな、夕方見えた二本の虹。綺麗。

より明るい主虹と、屈折によって色の並びが反対で薄暗い副虹。

 

また自分に重ねてしまうけど(そういう芸風だと思ってね!)、僕は何というか、この2本の虹の間で行ったり来たりしながら両面を見ているのだと思う。それが僕の迷子。

内側の僕がそれで、虹を眺めてる主体、この画像でいうカメラが外側の僕。僕が内的に眺めている虹の中に僕がいる。

 

過去の僕の迷子は例えれば虹の中のどの色なのだろうかというものだった。

そして虹は虹だと認めた時、別の虹が見えるようになる。

 

その間で取り残され、自己主張を強める境目の曖昧な色たちも、そしその正反対に位置する色たちも、それぞれが全て僕だと認めると、さらにどうしていいのかよく分からなくなった。

 

そしてまた別の僕が言う。「虹より大元の光を見ればそれは一つだ」と。

でも迷子の僕は言う。「いや、言いたいことは分かるのだけどそれは見えないじゃないか」って。

「でもそれは感じられるでしょ?」

「今見ている虹ですら幻想かもしれないのに、その見えないものをどうしろと言うの?」

「怖いの?」

「ああ怖いよ」

結局はこの言い争いの繰り返し。

 

分かっていても踏み出せないことってあるじゃないですか。いや、本当に分かってるの?まぁ、何となくは…

 

焦るなぁ…

時々頭に浮かぶ鏡に向かって「お前は誰だ?」と言う自分、それがなんか時間が過ぎるごとに現実味を増すというか。いや、そんなこと起こりっこないのは頭では分かっていつつ、その焦りというのは現実的な感覚というか。

いっそそれを現実にしてしまったほうが楽なのかなぁとかね。

要は急かされている。誰に?僕なんだろうなぁ。

 

一年以上同じ芸を続けるとは思わなかったね。滑稽。

それはいいとしてさ、問題はいつまで同じことを続けるのかってことだよね。

またそれか。迷子に目を向ければずっと迷子じゃないか。変化に目を向ければ激動と言っていたじゃない。

 

終わりのない転換期の恐怖というのかな。ゴールなんて元からなくて、ただずっとそれを繰り返すだけの存在なのではないかという恐怖。

それを恐怖と感じる程度には、この先に朝があることを信じたいのだろうね。

 

 

話は変わるのだけど、1年半前に商業センターで開かれた期間限定ブックセールで買った本を今回持ってきた。ゆったりとした時間の中で積んでいた未読本を読むのは好き。

その本は入り口の近くでオススメとして出されていた本で、金額的にもう一冊買おうかなって思って深く考えずにカゴに入れた本。

“The WISDOM of SUNDAYS”という主題だけ見て、気軽に読めそうな本だし安くなってるからこれも買っとこうって。

副題はさっき初めて気づいたのだけど”Life - Changing Insights from Super Soul Conversations”だった。

アメリカの超有名トーク番組司会者で実業家のOprah Winfreyが多数のスピリチュアル系の人たちと対談し、まとめた本みたい。

さらっと見た感じ内容が哲学的なのでイライラせずに読めそう。

 

最近やたらとスピリチュアルと接点がある。数年前の僕なら読まなかっただろうけど、今の僕なら手掛かりを求めて喜んでページをめくっていくだろう-

というタイミングでこの本が手元に来た。

偶然なんだけど、もしかしたら意識の外側の僕が副題を見て選んだんじゃないかと思うくらい。

自分で書いていて、は?って感じだけど、そのくらい僕の世界は「お前は誰だ」そして「僕は誰だ」な感じなので、主体が曖昧なのです。

 

心理学は思うような手がかりをくれなかった。内的なものやその延長の外的なものを客観的に見る手掛かりはくれたけれど、僕にとって問題は主観の方だ。特に感情。

スピリチュアルはその点主観に秀でている気がする。他人の主観といっても、内的な経験は共有するものが多いと思う。特に、近い性質のある人間にとっては。

 

この本の目次は

1. AWAKENING

2. INTENTION

3. MINDFULNESS

4.SPIRITUAL GPS

5. EGO

6. FORGIVENESS

7. BROKEN OPEN

8. GRACE AND GRATITUDE

9. FULFILLMENT

10. LOVE AND CONNECTION 

 

どれも凄く惹かれる。一歩ずつ沼に足を踏み入れているのかと思いきや、既にどっぷりと浸かっていたのかも知れない。

今朝の成果

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昨夜潮が止まってから3インチ目の刺し網を1枚家の船着場から30メートルくらいの場所に仕掛けた。

最近は人がいないから若干ワニが心配だけど大丈夫そう(無根拠の自信)

 

サンドゴビーは2kg弱。口だけ引っかかってた。3インチでよくかかったなぁと思うけど、この魚はたまにこれがある。ビックリして齧っちゃうのか、網にくっついたエビを食べようとするのかはわからない。

口だけ引っかかってたから元気。生きていると高めに売れる。と言っても日本円だと数百円だけど。

 

他は全部塩干しにしました。

今夜は4インチか5インチを仕掛けようと思う。

食料調達と射幸心は結びついているものなのだと毎度実感する。当たり前が当たり前の生活は好き。

 

今は断食明けのお祭り。新集落で暇なので珍しく普通の日記を書きました。

帰村

森の中の村に帰ってきた。

本当は3月に10日間帰る予定だったけど、例の騒動で帰れず仕舞いだった。

 

ようやく。

落ち着きすぎるぐらいに落ち着く。

 

家のある旧集落へ帰る時のボートで、木々の香りのする重厚な空気を肺いっぱいに吸い込むと「帰ってきたんだなぁ」って思う。

 

日の傾き、温度、明暗と共に移り変わる哺乳類や鳥、虫、そしてカエルの声。

川の流れ、雲の流れ、空気の流れ。

包みこむ星に遠くの稲光(ここは雷のホットスポットなのです)。

自然の中の生活では時計は目安でしかなくなり、街ではいつ鳴るかわからない携帯に神経を削られることもない。

 

取り敢えず今回は5インチと4インチの刺し網の網目だけを買ったので、ゆっくりと古くなった刺し網を修理しようと思う。

 

植えた果樹達はだいたい元気だ。スターフルーツやポメロ、キーライム、カラマンシー、ジャックフルーツはそれなりに実をつけていて、カシューやローズアップル、ストロベリーグァバ、アセロラ、名前ど忘れしたチューインガムの木も実をつけ始めた。その他20種くらいが40本は植えてあると思う。適当管理だけど早く大きくなるといいな。

 

愛犬ブッチーも元気。残念なのは長年の友だったニワトリのクノノンが死んでしまったこと。トカゲにやられたのだろう。彼の声の聞こえない朝はかなり寂しい。

 

2週間はここにいる予定。行動制限のなりゆき次第ではもっとかも。

 

今回は少し覚悟をしてきた。

ここでは僕はより本来的な自分として過ごすことができる。自然に包まれ、人との接触も少なく済み、時計や携帯の煩わしさからも解放される。

自分の内面と対峙するには、より深く覗き込むには、整理や選別をするには、これ以上の場所はない。

 

ツァラトゥストラが毎度じぶんのどうwに帰る気持ちがよく分かる。呼ばれるのだ。

僕にとって、水面が揺れない環境がどれだけあるだろう?深く覗くにはここしかないのだと思う。本当はもっと静かなところで隠遁したいとも思うけど、現実的には今はここしかない。

 

このボートしかアクセスのない旧集落は現在平常時の人口2名まで減ったのでかなり静か。賑やかだった時を知っているので、どこか寂しく、どこか嬉しくもある。静かなのは今の僕には良いこと。

 

取り敢えず、ケリをつけられるとまでは思っていないのだけど、どうにか方向性だけでも見つけられたらと思う。

 

先ずは草刈りと剪定、刺し網かな。そう過ごしているうちに何か見える筈だ。

見える、視覚型なのかな。実際に見えるというより、見えるように感じるだけなのだけど。

郷に入れば郷に従え

『郷に入れば郷に従え』と言う人が他郷に入った時にその地のマナーに従いきれないことが多いのは、自らの郷もとい所属集団に対して抱く強い帰属意識の裏返しなのだろう。

 

他郷に入って自然と従える人はそもそも他民族との境界が薄いのかも知れない。そういう人は自らの郷において他郷の者がしたマナー違反に対し寛容なことが多い。

それは自集団と他集団という視点で見ていないからだろう。

 

どちらが良い悪いの問題ではなく、パラドックスが面白いと思った。

 

 

郷に入れば郷に従え、これは郷の中の自分の視点。その言葉に何を込めるか、排他なのか尊重なのか、その部分。

 

自らの郷を大事にするのは大切なのだろうけれど、虎の威を借る狐のような意識が強くなれば、他郷に対するリスペクトは虎に引っ張られ身動きが取れなくなる。尊重しなくてはという意識の裏腹、なぜか関係のないはずのアイデンティティに引っ張られてしまう。

相対的な契約。

 

でも郷土愛はその形だけではない。

無条件に郷土を愛し自らがそれに包まれている意識があれば、自らの行動によって郷土と自己の関係は揺るがない。

絶対的な関係。

 

前者はヘイトが多くなる。不安定だからだろう。集団で幻影が共有されやすい。

行動を示すことに意味が生まれ、移るから、余所者の行動に敏感になるのかも知れない。

後者は余裕が必要。熟さなければ難しい。根本的には個々其々のもの。時に孤独。

 

どちらもそれぞれの良さがあるのだろう。そして互いに理解し合えない。

 

この関係は多くのことに当てはまると思う。

目に抱かれ虚無の静寂に浸り、浮かぶ。

 

目に抱かれる、どこから入ってきたフレーズだろう。

目は優しい。力強い。

井戸の底に映る目は辛苦を吸い柔らかく見つめる。

虚空を見つめる目は煌きの中を彷徨う。憧れ。

無垢な目の輝きは連れ戻してくれる。希望。

 

信じる目、悟った目、迷う目、憎む目、蔑む目、不安な目、悲しい目、虚勢の目、堕落の目、拒絶の目、魅了する目、怒る目、あさましい目、引き寄せる目、瑞々しい目、温かな目、陶酔の目、無関心な目、熱心な目、媚びる目、深みのある目、投射する目、絶望の目、活気ある目、歓びを知る目、追及する目

 

色んな目がある。

 

目はざわつきを生む。恐怖、不安、攻撃は伝染であり、干渉なのだろう。

 

自分の目は見えない。鏡に映る目は、見ようとするから見られるための目だ。往来がない。

語る目は一枚裏にあり、だから語る。伝えたがりなのだろう。表情に混じる虚偽に反抗するのだろうか。目は素直だ。見たいから見られたいのだろう。

目は入り口であり出口であり、それそのものだ。

 

抱く目は全ての目を包み、静寂に還す。だから抱くことができる。

僕にとっては希望なのだろう。

 

 

シュルレアリスム的なものの良い所はこれを自分が書いたのではないと言い逃れできる所にあるのかもしれない。質問や突っ込みをされても回答できませんという投げっぱなしの爽やかさ。それでいて羞恥心も満たせる気がする。

 

何より、理性を介入させても目に抱かれたいと思うあたり、それは収穫なのだろう。

歌 雰囲気な記憶と認知 Debbie Gibson

Debbie Gibsonの歌、高校時代かな、よく聴いてたの。中3まで駅の近くに住んでて、徒歩30秒の踏切渡って交差点渡るとCD屋さんがあったの。楽器もあったから音楽屋さんかな。今久々にあの店の内装が頭に浮かんで不思議な気持ちになってる。

その店で衝動買いした80年代ヒッツの2枚組オムニバスアルバムがあって、MDに入れてウォークマンで聴いてた。あのCD買った時の事、結構しっかり残ってる。奥から二番目の棚の、右側の真ん中あたりで手に取ったところのイメージが浮かぶ。どうでもいいんだけど懐かしい。

当時の学生が新品のアルバム買うのって結構ハードル高かったよね(金銭的に)。音楽は買わないとないし、情報も今より主体的に探さないとなかったし。CDはそんなに買ったことないけど、お店で選ぶのは好きだったな。不便だからこその良さだよね。

 

その中に彼女のOnly in My Dreamsがあったの。よく聴いてたのは高校の頃だったかな。段々と好きになった感じ。

 

当時は英語そこまで分からなかったんだよね。音楽は大体いつも雰囲気で好きになって、そこから詳しく入る方だった。それなりに英語が聞き取れる今になっても変わらない。でも雰囲気って言葉の壁を越えるから、後になって歌詞を調べて落胆することってないと思う。そっちかぁっていうのはあったかな。でも大体その段階ではもう引き込まれてるし、大概は歌詞を知った後に更に引き込まれる。その時にはその人に惚れているも同然なので、そこからその人の他の曲に手を出してみる感じ。

 

交友関係と同じく好きな音楽や絵もプロイセン軍(又はスイス傭兵)的な少数精鋭になるのだけど、そう考えるとそりゃそうなるなぁって思った。でも僕にとっては一番ハズレがないとも思う。それ以外にも新しいものに手を出すためのエネルギー的なハードルの高さとか色々あるのだけど。

 

そういえば、時折英語が分からない人が洋楽を聴いてるのを馬鹿にする人がいるけど、大事にしてるものが違うのだろうなぁと思う。歌は歌詞があるから歌詞が大事?

僕にとっては多分、歌も楽曲もそんなに差はないのだと思う。全体の雰囲気が大事だから、結局のところ歌詞を理解しようが理解しまいが、歌詞自体が雰囲気の一要素に還っていく。

 

というか、そもそも僕の場合、日本語の歌を聴いてても歌詞が頭に入って来なかったりするし、入ってきても覚えてないし。

映画もそう。映画のセリフとか1、2回観て覚えられる人ってすごいと思う。僕は無理。言語として覚えてない。これもシーンの雰囲気やキャラクター、映画全体の雰囲気。

だから結局スウェーデン語でもポーランド語でもスペイン語でも、好きな雰囲気のものは惹かれるし、そうじゃないのは「ふーん」で終わる。

 

歌って先ず音楽と詞が合うように調整されたものがあって、それを歌う人が感情を込めて歌うじゃないですか。それらの調和というのかな。歌う人が書いてれば更に感情的な前提がある分深みは増すのだろう。

それって多分、言語が分からなくても気持ち的には通じるもの。そもそもそういうものじゃないと興味を持たないのかもしれないけど。

感情は相互に震える(振動?)ものだと思う。歌は震わすもの。あ、僕は震えたいのかな。

 

まあいいや。何でも雰囲気から捉えてるんだろうなぁと今思った。雰囲気で捉えて調べて考えて解釈してまた雰囲気に戻るみたいな。よくよく考えると歌だけではなく、すべての僕の中のプロセスがそうなのかもしれない。

本を読んでもふわふわしか残ってない。読んだことで解釈的に取り込んでるものは多いと思うけど、詳しい部分なんて残らない。

 

買った物の金額とか聞かれても高いか安いかみたいな曖昧な感想しか覚えてない。数字がパッと出る人もすごいと思う。歴史も大体の流れとまとまり、関連性しか覚えられない。

 

流れが分かればよくない?とも思ってしまうけど、性格的なものだろうか。

僕のような人間はイメージとその繋がりとして覚えるのがいい。オーストリアがハプスブルク家のマリア・テレジアで娘はマリー・アントワネットで夫はブルボン家のルイでみたいな。ルイ何世だっけ?ってなった時はタンプル塔に幽閉されたのが17世だって出てくれば16世だって繋がるかもしれない。

もっとも、これじゃ受験は死ぬだろうけどね!まぁほら、人間向き不向きがあるから…

 

雰囲気。第一印象とは違う包括的なもの。抽象的なまとまり。

だからこそ印象や観念や内外のバイアスにできるだけ囚われない為には、理性が大事になってくる。できるだけ、可能な限り真っ新でないとそのものを上手く感じ取れないから。

 

 

Debbie Gibsonに戻ろう。

彼女の歌はとてもエネルギッシュで、愛を振りまくと同時に愛への渇望がある。その渇望が生む世界はとても情緒的で、それは深い温かさを感じさせてくれる。キャンキャンしてるものは本来なら苦手なのだけど、振りまくものに強制感がないというか、明るいものから漏れ出る自然な光という感じだから嫌な感じがしない。だからこう、僕にとっては照らして温めてくれる存在だったかな。

元気な歌に時折見られるトキシックなポジティヴィティってあるじゃないですか。彼女の元気な歌からはそういうものを感じない。彼女が内側に持つ、愛に抱く安心感と孤独の駆け引きというか、本来的で自然な瞬きがある。信念と希望のロマンというか。

色々好きな歌はあるけど、僕は彼女の歌は若さが溢れている頃のが好き。ピュアなエネルギーが迸ってる感。落ち着いてからのも好きだけど。

 

僕が感想書くとめちゃくちゃになるのも、受ける雰囲気の羅列だからなんだろうな。

 

 

Debbie、好きな歌いっぱいあるけどやっぱり思い出の曲を貼っておきますね。

これは彼女が13歳の時に書いた歌らしい。リリース日で考えると僕とこの歌は同い年。感慨深い。


Debbie Gibson - Only in My Dreams (Official Music Video)

  

Every time I'm telling secrets
I remember how it used to be
And I realized how much I miss you
And I realize how it feels to be free


Now I see I'm up to no good (no, no, no)
And I wanna start again
Can't remember when I felt good (baby)
No I can't remember when


No, only in my dreams
As real as it may seem
It was only in my dreams


Couldn't see how much I missed you (now I do)
Couldn't see how much it meant
Now I see my world come tumbling down
(Tumbling down my world)
Now I see the road is bent


If I only once could hold you (no, no, no)
And remember how it used to be
If only I could scold you
And forget…

 
No, no, no, no, only in my dreams
As real as it may seem
It was only in my dreams

 

Source: Musixmatch
Songwriters: Debbie Gibson
Only in My Dreams lyrics © Music Sales Corporation, Music Sales Corp., Emi Music Publishing France, Music Sales Corp

逆トイレトレーニング

本当に美しい花に触れた時、その花は記憶に焼き付き、大切なイメージとなった花を自分の内側で愛でる。その花だったものは同時に僕を形づくっていくのだけど、それが溶け込んでいけばいくほどイメージはその姿を曖昧にし、求める気持ちばかりが鮮烈さを増す。

この生が終わった時にその花たちと触れ合うことができたなら、ただ一言でも交わすことができたなら、一瞬でも目を合わせることができたなら、全てに意味が貫かれ、柔らかさの内に帰ることができる。

その確証が得られるなら、どんなに僕は救われるだろう。それは荒れる海が一瞬にして静まり返ることで、砂時計が川の流れの中にいることに気づくことで、麗らかな風に揺れる花たちがすぐそこにいたことに気づくことで、僕の存在が薄まり空気に溶け込むことが許されることで、天使と堕天使が双方の傲慢を赦され再び微笑みあうことができるということだろう。

 

その花たちがただ其々に咲いただけだとしても、僕は魅せられ、愛でることで肩を抱かれているのだから。血肉になったわけではないとしても、でも、だからこそ求め続けるのかな。

 

 

シラフだよ。イメージと感覚だけ追って極力理屈の介入を避けて書いた。意味はよくわからないけどこれを願望というのだと思う。

はっきりとした文章に当てはめた僕の願望とこの意味不明な願望、どちらの方が形を保っているのかと聞かれればこっちだと思う。

 

不思議とちょっとスッキリしたかもしれない。

 

この行為、『逆トイレトレーニング』が思い浮かんだからこれを題名にしよう💡<ピコーン!

 

怪しい響き、それでいて最大限の反逆の魅力を備えた題名に惹かれて来てしまった方ごめんなさい。僕はまだやったことがないです(嘘か真か)。興味がある方はGoogle検索でどうぞ。

 

なぜお漏らしがいけないのか。トイレでこぼさないように用を足すことが刷り込まれることで失っているものがあるのではないか?とか勢いで書いたけど、これ喩えだよ?

 

でもそれを実行に移すことは別に悪いことではないと思う。どっちもね。

おしっこうんちは出すものではなく出るものだとする価値転換は、我々の多くにとっては寧ろ回帰なのだ。

 

それを以って初めて忘れていたものを思い出し、理解に至る場合もあるだろう。例えば老人のお漏らしを責めるのはお漏らしを『した』と思い込むからだ。排泄物は『出る』という前提に立てばそこまで怒り狂う必要もない。ということも言えると思う。

僕が欲するのは寛容ではなく理解なのです。その為には…

 

鎖を引き千切れ!