感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

昨日買った本に対するイライラ

気になる単語を検索したときに出てきた本を衝動買いしたのだけど、読んでいてすごくイライラする。物事を同じような視点で見ているのに、なんでこんなに捉え方に違いが出るのだろう。

 

「意味がある」と断言されると抵抗したくなる。

僕はその人の見た意味を求めてるわけじゃないからなんだろう。

 

言いたいことは分かるのだけど、その解釈が理屈っぽくて押しつけがましく感じる。

理屈が理論として成り立ってるならいいけど、意味付けの為の理屈であって、何故それを断言できるのかがいちいちわからない。理論を理論として書くのか、詩を書くのか、どっちかにして欲しい。

 

「単なる偶然以上のものがある」というのは心象的にわかるけど、「根源的平等性」、それを以って宇宙の全ては繋がっていて、「すべての物はもともと一つの働きのもの」と言われると、「えぇ?」ってなる。

 

意味付けの為の理屈っていうのは、そこに救いを求める人がやる事なんだと思う。同じ宗教を信仰する人たちの中でもこちらが必然的に多くなる。それが悪いということではなく、僕にはそれが合わない。

 

答えを求めてるわけじゃないんですよ。

ただ、何かを感じて、何かを見て、想いを馳せたいというか。

答えが出ないことを求めてる。何故だかは分からない。

 

偶然性を探求すると必然性が見え隠れするけど、それが必然だと言うのはなんか違う。

 

世界に答えがあるとすれば、究極的には答えがない世界だという答えを求めている。

生に意味があるとすれば、意味などないということの意味を求めている。

僕に運命があるとするなら、運命に抗うことなんだと思う。それだけその言葉を当て嵌められそうになると拒絶反応が出る。

人間主体の意味なんて求めてないんですよ。意味というものから人間の抱く観念が取り除けないのなら意味なんてものがない世界を求めてる。

無意味の中だからこそ意味が見え隠れするくらいが僕にとっては丁度いい。

 

理屈を押し付けられると、ある意味生存権を脅かされるような気がして、ヤメテ!ってなるんだと思う。

 

主観の世界、感情の世界、内的な経験のことば。それらの文章の中には、僕にとって沢山のヒントが隠れているような気がして、どんなに辛い世界の文章でも読みたくなってしまう。どんな日常の内容でも何か僕にとって意味を持つようになるから。

それは僕の世界を読み解くヒントとして大いに役立つから。詩であれ、ブログであれ、動画であれ、そういう主観的なものは好き。ニーチェの本が僕に合ったのも、彼が自分に詩人を見ているように、内的な感情の世界を探求する姿勢、それを以て外の世界を読み解こうとする姿勢を隠さないからだと思う。

 

理屈は事象において、理論において、僕にとっても意味を持つことはある。でもそれが僕の内側の世界に適用することが出来なければ、僕にとって全くの無価値なものとなる。それどころか、なんかこう、邪魔されるというか、脅かされる感覚がある。本能的な拒絶。

誰よりも理屈っぽく生きてきて、今でも対外的にはそういう面を向けるのに、何をそんなに怯えているのだろうか。相反する自分の立場になってもこの本の内容は否定するだろうけど。

 

啓発本の類の多くがこれに当て嵌まる。その理屈が僕に当て嵌まらないからイライラしてしまう。

こういう本はその理屈に合わせられる人、そうやって変わることが励みになる人、自分に鞭打ち、自分に鞭打たれる自分だからこそ愛せるストイックな人には合うんだろう。

僕はそういう風に出来ていないんですよ。

 

この本、サブタイトルに「9つのヒント」って書いてあるのに、この著者が提示してるのは、この著者にとっての答えだと感じる。タイトル詐欺だ。

 

でもこのイライラが嬉しい。何か見えそう。そういう面ではヒントをもらった気もする。

競争原理 社会的動物 意識の導入

競争原理というものがあるというが、その言葉の中には複数の競争、競争とは関係のない暴力も含め、それらがごちゃ混ぜになっていると感じる。

関係の薄いものも混ざって競争原理の競争として、原理の名の下に正当化されているのではないか。原理と言うのならその原理がどの段階の本能に根差すのか明確にすべきではないか。

 

そのそれぞれの競争の根幹にある本能が個体レベルなのか集団レベルなのか、また集団の中での立ち居地のためのもの(アルファ争いのような)なのか、役割のためのものなのか、それらをはっきりさせないで『競う生き物だから』で片付けるのは乱暴だと思う。少なくともヒトは競わない選択をする生き物ではある。他者の為に死ぬことがある生き物でもある。

 

 

ヒトの生存が個体レベルの問題だとしても、ヒトは社会性を持っていて、群れを利用しての種の生存を選んだ動物であって、その集団特性を利用し繁栄してきた。であるならば自分の属す群れの為に自らの生存を捨て死を選ぶことがある動物であるということは前提でなければならないのではないか。

であるなら、個人に対し、他の動物の個体レベルの生存競争という言葉を当て嵌めることには慎重にならなくてはならない。ヒトはより集団レベルの本能に翻弄される生き物だと思う。

 

現代では曖昧になったとはいえ、群れというものに対する帰属本能があるからこそ、エイリアンが攻めて来ないと小さな社会としても国家としても人類としてもまとまれないとまで言われるのだろう。集団としてまとまるために敵が必要な程度には自分達の社会に迷っている動物でもある。それが元からなのか、あるいはここ最近の大きな変化のせいなのか、それは分からない。確かなのは社会性がとても大きな意味を持っていること。

 

ハチは何故自殺攻撃を仕掛けるのか、兵隊アリは何故戦うことに特化しているのか、ハダカデバネズミのメスは何故女王しか繁殖しないのか、ボノボは何故性行動を生殖以外の目的に利用するのか。

それは社会的動物であって、個体の役割を利用し、群れの生存を優先するよう生存戦略として組み込まれているからではないか。

 

それならば、競争という競争すべてを同じように扱うのは違うのではないか。細分化した個性の振れ幅である程度の役割が得られるのが群れならば、個々の競争に対する意識はその個性の影響を大きく受けるのではないか。たとえそれが経験によって育まれるものであっても、気質の影響を大きく受けるのであれば、競争意識を導入し、育むことによって本来の役割につくことが不利になる、本来的な生き方で苦を感じるようになる個体も居るのではないか。

 

本来的に競争が必要な役割に育つことが決まっている個体であるなら、競争意識を導入するまでもなく会得し、自然と育むもののはず。その性質を持つべきでない個体の場合、競争から意識的に、また無意識的にストレスを受け、離れていくはず。

 

オスとしての肉体的な強さに群の内外で競争は大きな意味を持つだろう。それには他の動物同様男性ホルモンが関係してくる。そのホルモンの分泌にばらつきがあるのは何故なのだろう。正常値が本当に正常なのだろうか。本当にばらつきは生活環境の影響で出ているのだろうか。そのばらつきがもし、あるべくしてあるならどうだろう?

もちろんすべて相互に影響してるのだろうけど、あるべくしてあるという可能性は証明の難しさからも証明の必要性の薄さからも、科学には無視され易いものだろう。

 

実際ヒトというのは、マッチョなオスばかりでもないし、好戦的なオスばかりでもない。それ以外の性質が生殖において長い間(恐らくどんな文明よりも)優先されてきたということではないだろうか。それは社会性あってのことだと思う。群れとしてマッチョばかりでも仕方ないから。

だからこそ力ばかり強いオスだけが子孫を残せるわけでもないのではないか。金が力だとしても、権力が群れを支配できたとしても、それを持つオスばかりが子孫を残すわけでもない。メスがそれを許すのだから、そう考えるとかなり特殊な生き物だろう。でも、だからこそこの性質の群れは成り立ってきた。

 

勿論文化的、個体群的な要素もかなり色濃く影響するのだろうけど。それは雌雄(時にはそれだけでなく)の在り方ですら社会・文化によって大きく変化することからも見て取れる。その違いですら文化と雌雄の双方が結果でしかない、鶏と卵のような関係にあるのだと思う。

 

 

そんなこんなで、社会・群れが基礎とする位階に生得的な役割分担に関わる気質が影響するのであれば、それはとても自然なことで、実際に自然界にいくらでも見られることでもある。

 

さて、言い訳の為の序文が長くなった。

僕は競争が嫌いだった。それそのものにストレスを受けたし、競争自体に価値を見出せなかった。勝てる競争でわざと負けたこともあった。正直でないことを嫌う僕が。それはどちらに転んでも不快だから。

傷つけるぐらいなら傷つけられたいと感じる子供だった。今でも「競争が原理だ」という言葉を聞くと経験的な違和感で反応してしまうわけです。

そんな僕でも競争・争いを肯定する場面がある。その事実は、原理とされる競争という言葉にいろんな競争がごちゃ混ぜになっているという僕の中での主観的証明なわけです。そんなぐちゃぐちゃなものを原理と言われても…

 

 

現代では赤ん坊の時の気質的反応で成長する性格型が予測できることが認知されてきた。多分もう少し気質の振れ幅に優しくなっていく流れができると思う。

そろそろ『一律に』競争を植え付けることに対する疑問がもう少し膨れてきてもいいと思う。

 

競争が悪いというわけじゃない。勝ち負けというものを『教える』中に、優劣というものに対して、教える側の意識の中に善悪と似た現象が起きてるのだろうと思う。「負けてもいいんだよ」という励ましに、負けちゃって可哀想だから励まそうという同情が見え透いてるから傷つける。そして「他の分野で優秀だからいいんだよ。」と意味のないバランスを取ろうとするからおかしくなる。挙句の果てには「君は優しいから」ってそれを取柄にさせようとする。それってその感覚の人間にとって、優劣の対象じゃないんじゃないかなって思うのだけど。

 

導入されてすんなり受け入れられる人にとっても、導入のされ方というのは尾を引くものだろう。導入されたものは個体としても集団としても、それを持って生きることになる。それをここまで容易に、一律の導入をして正当性が得られるのだろうか。

競争社会で生きられるように、と欺瞞的に導入するがために、集団として競争の泥沼にはまっているのではないだろうか。東部戦線のドイツ軍のように。冬将軍はまだ来てないけど、これから先も来ないとは限らない。

 

全体として折り合いをつけるのが不可能なのが一律に導入するという選択の負の側面なのだろう。

競争でもなんでもそうなんだけど、導入するのであれば、しっかりその影響を評価しないといけないと思う。競争社会は競争社会でもいいけど、その自分の育った社会を肯定する為ばかりにぐちゃぐちゃな原理を振りかざしてまで自分達の首を絞めていたら元も子もないのではないと思う。

まだ150年かそこいらの教育理念。一律としてはもっと浅い。今からでも偏見を取っ払って評価し直すのは遅くないと思う。

 

 

競争、それについては一度整理すべきだと思う。

 

第一歩として、自らの中の様々な競争に関する意識を一つ一つ掘り下げると面白いかも。

周りに合わせる 紛れる安心感 被支配願望<孤独?

車がどんどん汚れていく。そろそろ洗車しなきゃなぁと思うのだけど、面倒くさくて先送り。

フロントガラスの鳥の糞くらいは拭こうかと思うのだけど、後で拭こうと思っているうちに1週間が過ぎた。ただ面倒くさいんじゃなく、出来るときになると別のこと考えてて忘れてる。そしてまた車に乗ったとき、目の前に鳥の糞が…の繰り返し。

 

車なんて走れば良いじゃん的な感覚なのも良くないのかもしれない。愛着はなくはないけど、でも外観と走行に関連する機能って関係ないじゃないですか。だから後回しになる。

きれいにしたってまた汚れるなら、目いっぱい汚れたときに洗車すれば安く上がるし時間取らないじゃん?って考えも働く。あ、こっちは人件費が安いから洗車がすごく安く出来るので、洗うときは洗車屋さんに行ってしまう。

 

日本だったら周りの車もある程度きれいだから、洗車しなきゃいけないって気持ちも働くけど、こっちは綺麗なのと汚いのと入り混じってる。新しくて汚いのや古くて綺麗なのも。それなりに汚い(そこまでではないけど)車もかなり走ってるので、ある程度の汚れならまぁいいかなって思ってしまう。服装と同じですね。こう見えて意外と周りに合わせるから。

 

周りに合わせる…

周りに合わせているというよりは、ただ目立ちたくない感じかな。それでいて同じは嫌という気持ちも持ち合わせてて。

出る杭は打たれるをよく知っていて、そのくせ打たれるのに弱いからイメージの中で打たれまくってて。出ないように出ないようにって押さえつけるんだけど出てしまうという。いや、そもそも何で杭は出ちゃいけないのかという部分への鬱憤が溜まるから出ちゃうんですよね。だって杭としてはニュートラルだと出ちゃってる人間なんだもん。

 

だけど自衛という意味で、群れの中に居る安心感も知っているわけです。中に居る、属しているというより紛れ込んでると言ったほうが正しいかもしれない。紛れる安心感。しっくりくる。闇夜に紛れるのも、人の群れに紛れる(人混みは苦手だけど)のも、森の草木に紛れるのも、同じ類の安心感がある。それだ。

出ない杭としての安心感は、出ない杭たちに紛れている安心感

だけど、杭としては出たがってる。『ほかの杭たちが出ないから』自分も出ないというのは凄く抵抗があるから。主体性を奪われるのがもの凄く嫌で、追随していると思われることも凄く嫌で、皆が出ないなら出なきゃいけないという衝動にいつも駆られている。

 

羊たちの中に居るヤギなんだろうな。狼に目をつけられない心地よさからその中に居るけれど、その中に居るにはウールで身を包まなきゃいけなくて。暑いけど我慢してウールを着て、でも紛れてるうちに自分は羊じゃない!ヤギなんだ!ってなる。そのモードが極端になるとなんでお前らが右に行くから右に行かなきゃいけないんだ!ってなって、気づけば左に行って狼に襲われるという。

だからといってヤギの群れを見つけても、ヤギさんたちの中に居ると僕は『その』ヤギじゃないんですね。じゃあどこに行けばいいの?っていうこの孤独感。でも反ってその孤独が心地良いから独り岩山に居たいわけですね。

 

この辺はもう学校の集団生活というストラグルそのものの中で、調教されつつも頭が固いせいで調教されきらず、その中でも色んな脇芽が生えてこんがらがって、自分自身がぐちゃぐちゃに絡まったつる性植物のようになってる。どこかしらが締め付けられ苦しいのに、その原因はというと自分の別の部分が引っ張っていて、でも直すには切らなきゃいけないから直せないという。ばっかみたい!

 

だから紛れるまでもない世界というのを夢まで見るのだろう。

身を置く、属す安心感というものにこんなにも抵抗がある分、それを望む気持ちも人一倍強く感じている。誰かこの駄馬を力づくで隷属させてくれないかなって。支配されたい。そう見えないでしょ?でも人一倍それを望んでいる気がする。

僕は完膚なきまでに支配されなければ属せない。そして心の底ではそれを欲してるのだろう。

ただ小さい頃遠い親戚のお姉ちゃんに感じた、微かに記憶に残っている安心感、ただただ存在を認めてもらえるという安心感を除いては。でもそれは幻想だから、僕は孤独か完全な支配下でしか生きられない。

 

支配も結局実際の人間の世界だと面倒くさいから、孤独が一番なんだろうな。寂しさも感じるけど、やはり心躍るのも闇に紛れた時だから。

目立たず、でも自分で居ることができればそれが一番なのだろう。

 

 

闇夜といえば、昨日の夜は真っ暗でとっても良い気分だった。雲が月も星も隠してくれた。それに日曜で電気も少なめ。周りの人の目に映りづらいってとても素晴らしい。ナイトビジョンゴーグルつけてスプリンターセルごっこしたくなる。単眼スコープしか持ってないけど。

 

そんな中ルンルンでお散歩してたら、ふと忍たま乱太郎のエンディングテーマを思い出して。懐かしい。まだやってるのかな?

こういうのって歌った記憶はないのに歌詞しっかり覚えてるんだよね。面白い。

 


四方八方肘鉄砲 / 舩木真弓

 

四方六方八方肘鉄砲 / 忍ジャーズ

 

 月は沈んで 星影もなし
 闇が迫れば おいらの世界
 走れ 走れ 飛べ 飛べ
 音もなく

 四方 六方 八方 手裏剣
 四方 六方 八方 やぶれ
 冗談まじりで wink投げたら
 撃ち返されたよ 肘鉄砲

 声も届かず 姿も見えぬ
 嵐の中は おいらの世界
 伏せろ 伏せろ 散れ 散れ
 風のように

 四方 六方 八方 手裏剣
 四方 六方 八方 やぶれ
 冗談ぬきで wink投げたら
 撃ち返されたよ 種子島

歌詞置き場 四方八方肘鉄砲/忍ジャーズ

 

種子島撃ち返されたら怖いよね。そんなにすぐ撃ち返せるって火縄じゃなくてフリントロックかな。 

どっかに忍者の仕事でも転がってないかな。

慣れ

鼻炎でくしゃみが止まらない。粘度のない鼻水が垂れてくるので多分風邪が合わさってる。

何をしても落ち着かないし、頭はぼーっとするし、余裕はないし。

 

耳鼻科医に10段階にすると10と言われた酷い鼻炎持ちで、小中学校時代はしょっちゅうだった。ハウスダストと花粉の減感作に鼻中隔湾曲の手術、レーザーでだいぶ良くなって、こちらに来てからは環境の改善も手伝って風邪で具合が悪い時くらいしか鼻炎の症状は出なくなった。

 

昔は毎日こうだった。でも苦に思ったことは殆どなかった。アトピーも同じ。物心ついた時にはもうそうだったから。

でも慣れとは怖いもので、ひと度症状のない生活に慣れてたまに症状が出ると、もの凄く苦痛に感じる。

 

精神的な症状も同じだと思う。人ひとりの中でも苦痛の感じ方はその時の状態によって異なるけど、あまり浮きすぎると反動で深く沈むように、そして久々のストレスには過敏に反応してしまうように。

適度な苦痛がスパイスとなり得るように、反対に快感も慣れれば鈍化してしまうように、美しさも毎日見ていれば新鮮さを失ってしまうように。合理化の中に居て己も合理化の塊の生物であるからこそ、慣れというものには警戒しなくてはならないかもしれない。

個人にしても、集団にしても。

 

感覚の鈍化とか過敏症とか色々繋がりそうだけど、くしゃみが止まらないから終わり!

Conquest of Paradise 流れの中の悲劇 喪失感の源泉

ヴァンゲリスのサウンドトラックを聴いていて、『Conquest of Paradise』がやっぱり好きだなと思った。映画の印象もあるんだろうけど。

新大陸に忍び寄る闇という歴史的な視点と、コロンブス達が感じたであろう希望や喜びとすごくマッチすると感じる。

 

彼らはいったい何を見たのだろうか。

もうこの際コンキスタドールに仕える船員や傭兵でいいからその時代に生まれたかった。

コロンブスは虐殺や略奪において非難されることが多いけど、現代の価値観で死体蹴りするのは趣味が悪いと思う。悲劇は悲劇。でも歴史なんて悲劇しかないし、その悲劇は形を変えてどこにでも蔓延っている。それを理由に過去の人を裁くことは出来ないと思う。あのメンゲレでさえ狂気の中だからこその狂気だと思う。現代の狂気や暴力はちょっと形が違うだけだし、それは悲劇を生み続ける。

 

探検の目的から考えても、当時の西洋的価値観がまとまった戦力を持たない文明と遭遇すればどうなるかは明白だろう。その尖兵となったのがコロンブスというカリスマだったに過ぎないのだと思う。

そこに何らかのパラダイスが見いだせる限り、征服は自ずと起こってきた。教会が虐殺を非難したところで、宗教の理念が個人の中の虐殺を正当化する。そしてそれさえも宣教という最高の善意の押し売りの前では霞んでしまう。

 

経済、博物の為の搾取、奴隷化。改宗と階級化、入植と経営の為の統治、様々な介入に虐殺。パラダイスはコーヒーにミルクを混ぜるように攪乱される。そこに元のコーヒーの味を見つけることは難しい。

でもそれは起こるべくして起きたのだろう。文字や車輪の発明から偶然の繰り返しという必然によって起きるブレイクスルー、そしてパラダイムシフトを繰り替えす。数々の文明はそういった意味では単なる実験対象に過ぎないのかもしれない。

誰の為でもないのに自分達では止めることのできない悲しい実験。 それが人類なのかも。

 

人類の発展の中で生まれるワンダーもあるけれど、この世界の止まらない流れの中で失われ続ける様々なワンダーに比べると、喪失に割かれる度合いが大きくなりすぎていると感じる。

それは直接的に、僕が感じ得たであろう情景の喪失。

 

例えばもっと時代が下った先のウォーレスやダーウィンでさえ、生まれ育った地とは違う場所の探検を通し、様々なものを見て感じ、その中だからこそ己の博物を追求していけたのではないだろうか。彼らが現代に生まれて健康的に現代的な学者をやれたとは思わない。それも一種の搾取であって、喪失につながる発見ではあったけど、僕にとって重要なのはそこではない。流れの中にあっただけの悲劇は後世にしか計れない意味の薄いものだ。それよりも壮大なものがある。

 

彼らがその時代に生まれた幸福。それこそが僕の羨むところ。

自分のキャンバスに知識ではなく、経験として壮大な未知なるワンダーを取り込んだときの色の広がりや混ざり。そしてそれは苦難の分だけ深みが生まれる。

何という幸福だろう。

 

 

現代だからこそ僕がそう思えるという考え方もできる。知識や技術がある中でこそという。それはそういう面もあると思う。でも僕の中で目を逸らせない現実として、『だからこそ失われるものを感じてしまう』という現実がある。

全てはバーターだから。

知れば知るほど不幸になるというのはそういうことなのだろう。

 

知によって喪失していく情景を、色を失っていく世界を知覚させられるという喪失感。

そして、既に世界が喪失したワンダーを知によってイメージの世界で体験し、でもそれが実際には既に知覚できないものという現実の喪失感。

それらの累乗が僕が感じる絶望的な喪失感の源泉なのだと思う。

 

そしてそれはコロンブスやザビエルという使者によって征服されたと体感され、それを奪う帆船、キリスト教国家の列強が連想されるけど、それを更に連想で遡れば一神教さえ通過点であって、結局は車輪や文字を生んだ紀元前の人類そのものに行きつく。

 

ヒトがヒトである限りParadiseはConquerされ続けるが、それそのものがParadiseを生むことは出来ないで現代に至る。それでも人類はParadiseを望み、目指し続ける生き物なのだろう。征服していずれ失うとわかっていても、それを目指す本能には逆らえない。でもそれらは僕にとってはParadiseとは成り得ない。そこにワンダーを感じないから。Paradiseは失われた。

 

コロンブスやコンキスタドールたち、探検者たち、宣教師たち、仕える者達、そして入植者たちは何を見たのだろう?何を感じたのだろう? 

 

いつもながら書いていて自分で意味が分からない文章になった。

ヴァンゲリスさんの曲を貼ってお茶を濁すべきだね!

 


1492: Conquest of Paradise • Main Theme • Vangelis

 

航海、発見、探検、遭遇、入植、そして戦いと征服

こんなに心が震えるものがあるだろうか?

それがたとえ悲劇の流れがもたらすものであっても…

ビールを飲みながら

お酒はあまり、というかほとんど飲まないのだけど、余りもののビールをもらったから飲んでいる。黒いやつ。

やっぱり苦い。

 

お酒にはあまりいい思い出がない。幼少期に見てきた大人達からお酒は悪いものと学んだ。
良い子ちゃんだったので、お酒を含め小学校時代に良くないと言われたことも結構深く刻み込まれているから手を出そうとも中々思えない。


自分の中で物事を捉え直すにはそれなりの反発の力がないと出来ないのだけど、何度か飲んでみているお酒は未だその反発を生むほどの利点が感じられない。
皆楽しそうに飲んでいるけど、本当に楽しいのだろうか?


僕はなんかこう、お酒を飲んでぼーっとすることはするのだけど、それが不快に感じる。回を重ねれば快になるのだろうか?
気持ちいいとか楽しいっていうのは今の所感じない。ぼーっとして思考が鈍くなるから、それがあまり楽しくないし不安になる。いつもなら何か思い浮かべれば勝手に止まらなくなるのだけど、お酒を飲むとそれが鈍くなる。
もしそれがお酒の利点だとするならば、やっぱり僕には合わないのかもしれない。

 

お酒で気持ちが解放されるという人がいるけど、それが僕に起きる気配もない。どうしてもコントロールしてしまうし、分量もやはりコントロールしてしまう。
こちらの民族はお酒大好きなので、お付き合いで飲まされることがある。かなりの量を飲まされるのだけど、やはり自動的にセーブがかかる。そしてやっぱり楽しくない。


飲みニケーションというから多少飲む練習しなきゃいけないのかなって思うのだけど、僕がそれをやろうとすると霧の中でハザードを点灯させながらセカンドギアで走り続けるような感じで全く楽しめない。僕はそもそも霧の中で4速入れられる人間ではないのだろう。チキンだからね。
そしてさ、僕自身が楽しめないのに他人が気分を害さないために酒を飲まなきゃいけないのなら、僕はそのお付き合いには意味を見出せない人間なのです。

 

同調圧力とか空気とかごめんなさいです。

圧力を掛けられればすぐに屈するし、空気を感じ取れば自動的に読んでしまうから、前もって拒否していくことにしたのかな。糞くらえと言ってやる。誘われたら断れず、その場になったらお座りして「ワン!」って言っちゃうから、この場では糞くらえと言ってやる。

 

結局利点を見出せないからやっぱり甘酒でいいやってなる。
甘酒美味しい。甘いんだけどちゃんとしたやつは甘さがしつこくないんですよね。ほんわか柔らかい。
そう考えるとアルコール分は必要ないかもしれない。
あ、でも高い日本酒を奢ってもらった時は、透き通ってるのに奥が深くて、ふんわりしてて独特の香りがあって、銘柄ごとの違いも顕著で面白いなって思った。コーヒーの飲み比べみたいに色んな情景の広がりがあった。


銘柄の名前は全部忘れたけど、あれならいいかも。嗜むっていうほど嗜み方も知らないけど、味・香りからの情景を感じるためのお酒ならいいかもしれない。
そのおじちゃんはワインも飲ませてくれたけど、ワインは良さが分からなかった。日本人だから一応米系統が組み込まれてるのだろうか?

 

霧が晴れてきた。やっぱり僕はこっちの方がいい。

もっとこう、幻覚が見えるようなのは体験してみたいな。戻ってこれなくなりそうで想像しただけで興奮する。想像するだけで実際差し出されたら手を出さないんだろうけど。つまらない男だなぁ。もっと悪い子になりたい。

団地 別の価値観の世界に育つ子供 住み分けと共生

早朝の市場付近。

おじいちゃん6人が輪になってシンナーを吸っている。おじいちゃんはまぁいいのだけど、そこから1ブロックのところでは学校に行ってれば小学校高学年くらいの子達3人がシンナーを吸ってた。一番小さい子は9歳くらい。時々見かけるけどいい気分にはならない。

覚せい剤をやってる大人がそれなりにいる世界では、シンナーは比較的手を出し易いというのもあると思う。

お金も国籍もない子たちは学校に行けないからシンナーに手を出すのだろうか?貧困というのは密接でありながら食い込んで絡まる一つの要素に過ぎないと思う。

 

ここで思い出すのが日本の団地。

団地は沢山の種類があって、それぞれ独特の世界が生まれるものだと思う。思い出したくもないけど。

団地住まいの人全てを悪く言うわけではないけど、「団地の子には気をつけろ」と言う言葉は身を以って理解しているつもり。違う環境であって違う世界だから、そこで育つ子は感覚が違う子が多い(団地や家庭環境にもよるけど)。

家庭と言う庇護のもとに育った子供を持つなら警戒するに越したことはない。

 

団地の子、その中でも共働きの家の場合、家庭という最小単位の社会よりも、団地内の友達との関係がより密接となる。その年齢幅のある半ば強制力を持った交友関係は一種の群れを形作る。特に年上の子たちの力に従うことを覚えるのだと思う。力に従うことは力で従えることを覚えることでもある。自然と出来あがるからすごい。サル山の体現。

このシステムって家庭の庇護のもとにほぼ同級生としか遊ばずに門限には家に帰る子たちとは全く違う世界。

その二つは大人と子供ぐらいの違いがある。団地育ちの子からすれば外の子はお子ちゃまに見えるだろう。僕はお子ちゃまだった。

 

暗い話になりそうだから話を戻そう。

 

その団地の世界ではワンピースが好きな人が好きそうな絆みたいなのがある。

僕にはよく分からないのだけど、年上のお兄ちゃんへの憧れっていうのがあって、その年上の兄ちゃんは自分の覚えたかっこいいことを弟分に教えてやろうっていう変な使命感みたいなのがある。親がいつもいない寂しさを知っているから、こいつにはいいことを教えてやろうみたいな。

 

外の世界ではなかなか起きないようなことが連鎖的に起きる世界になるんだと思う。

エッチなことは勿論早く覚える(やらせてあげる役割になってる女の子も見た)し、万引きやタイマンの決闘ゲームは通過点だし、酒、たばこ、シンナーも買ってもらえちゃうから手に入る。

それが悪いとは言わないけど、そういう世界。

 

そんな世界といわゆる一般家庭的な世界の価値観は合うものではない。でも同級生として一緒に育つんですよ。群れの理屈に生きる狡猾なオス猿と動物園で親に育てられたサルが同じ部屋で。

後者の親であるなら団地の子には気を付けた方がいい。自由にさせることが自由であるとは限らないから。

庇護に置き、一般的な価値観の元育てたのなら責任感を持って守った方がいいと思う。サル山に引き込まれないように強制力も行使した方がいい。普通の世界もサル山は作るけど、団地のサル山はかなり違う世界だから(団地にもよるけど)。その辺をうまくやりくりできないような子なら、親の判断で引き離した方がいい場合もある。

 

 

一つの社会の下にいくつもの社会が混在する。価値観もそれに伴って違うものが混在する。一般的な公立の小中高校でも見られるこの二つの世界の違い、その違いの大きさは「団地の子には気をつけなさい」という言葉に現れている。僕はこの言葉をもっと早く知りたかった。同じだと思うと痛い目を見る。感覚も何もかもが違った。

僕は小中は地区的にそういう子が少なかったから、あそこまでの異世界は見ずに思春期まで育ったからね。

僕は何とか生きてるけど、同じような目に遭ってダメになった子もいた。珍しい例ではなかった。

学校ってそういう面で見ても怖い。それを教師や親が認識してないのが更に怖い。立派なリスクですよ。

 

だからって偏見を持って見ろと言うわけではないのだけど、事実は事実として、違うものは違うものとして、違う世界の同じ人間として接しないと合わないことは多い。危険も生まれる。

民族による差別や区別がほとんどない日本の中では、子供が経験する一番身近な異文化共生(住み分け)の例かもしれない。

住み分け。完全に重ならないから上手く回る。下手に交わらない方がいい場合もある。

 

 

繰り返すけど団地や団地に住む人を悪く言う意図はないからね!