感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

領主から国王へ

僕は生まれついての領主なんだろうなぁと最近思う。

 

自分が最大のポテンシャルを発揮できるのは、荘園が豊かな時だけ。

内側が豊かであれば外側に輸出もできるし、僕も安心して外に行くことができる(行くとは言ってない)。

そうでなければ農民が暴動を起こして何もできなくなってしまう。

 

でもうちの民たちは人一倍脅威に敏感。それもその筈で、うちの土地は常に異民族に包囲され、孤立している。どうしたらいいんだろう。

それにしても他人の土地に入り込んでくる人が多すぎる。人の農村を略奪し、思想や宗教をまき散らし、疫病を持ち込み、トレビュシェットまで撃ち込んでくる。思春期にはクルセイダーまで入ってきた。生まれついてのコンキスタドールみたいな人もいるよね。

そりゃうちの民も敏感になるよ。平和に暮らしたいだけなのに。

 

やはり領主としてできるのは民に責任を持つこと、それを示すことだけ。

うちは平和な民族なので、他人から収奪したものでは豊かになれない。安心した民によって時間をかけて豊かになるしかない。

 

国と言う概念が大きくなり始めて以来、他の領主たちも国王に忠誠を誓わざるを得なくなってしまった。貴族として生きるのも生き方だろう。でもうちはそうはいかないわけです。

なら小さいながらも一つの国になるしかない。

 

国王として命ずる

 

国境線を引け

壁を作れ

国章を刻め

国旗を掲げよ

要塞を建てよ

地雷を埋めろ

備蓄を怠るな

地下トンネルを掘れ

ゲリラ戦の用意をせよ

ガスマスクを装着せよ

音楽は絶やすな

何があっても騙されるな、全てプロパガンダだ

 

民間防衛みたい。対戦車バリケードや核シェルターも作らなきゃね。

 

作物が沢山出来たら交易してあげるから攻めて来ないでね。今は飢えてるから。

ヘドロの代わり

今日は(も)何を書こうにもヘドロしか出てこない。公開しても自分を含め誰も得しないようなものばかりなので、下書きに埋もれていただきます。

 

何か楽しい話題でも想像してみよう。

タピオカが話題みたいですね。僕もタピオカ好きです。

でもあの飲み物に入れるのは厳密にはタピオカ・パールと呼ばれています。タピオカはキャッサバでんぷんのことで、そのでんぷんをこねて味付けし、丸めて湯通ししたものがあのパールなのです。タピオカ・パールティーは日本円で150円くらいで飲めます。それでも他の飲み物に比べると高いけどね!

 

乾燥、精製していない生のでんぷんはフィリピン系の人が蒸してご飯の代わりに食べています。独特の香りがあり美味しいです。パンケーキみたいなお菓子にしてもおいしいよ。

キャッサバは荒れ地でも生育する強健な植物で、若葉を野菜にして食べたり、地下にできる塊茎部を芋のように食べたりもします。でも時々食中毒が起きるので気を付けましょう。この塊茎はサツマイモやジャガイモとは違って植えても生えてきません。単純な栄養器官なんでしょうね。増やす時は茎を挿すとすぐに発根します。

 

どうでもいいけどね!

子育ての価値観 『子作り』

この国には雨季がある。

面白いことに、集落なんかだと雨季には子供ができるという認識がある。

単純な理屈で、雨が降ると暇だし、涼しくて過ごし易いから自然とそうなる。

理由はそれだけではないだろうが、集落では5人兄弟以上が当たり前となる。日本では多い方だと思ってきた3人兄弟の僕は、ここだと「かわいそう」と言われる。価値観の違いだなぁと思う。

避妊がないのもそう。子育てのプランがないのもそう。そもそも子作りという認識もない。子供は自然と出来るもの、授かるものだ。

日本でも子宝は授かりものと言う。その価値観はどこでも一般的なものだった。

 

でも現在の日本の価値観では避妊をするのが普通となる。結婚前に不用意に妊娠すれば叩かれる。それは近代以降は当たり前となったが、不用意に妊娠してはいけないという価値観が刷り込まれてしまっている気もする。そしてそれは自然と出来ることへの拒否感として結婚後にも引きずっている感じを受ける。

バースコントロールが必要だという認識は、子供を自分たちだけで育てなくてはならない、子供を学校に行かせること、食べさせることも含めて養育プランも考えなければいけない現代の現実と結びついた。そして子供はいつしか授かるものではなく、お財布やカレンダーと相談しながら作るものになってしまった。

誰がどうこうという話ではない。これは僕自身に刷り込まれた価値観の話。色んな人がいるので、人の数だけ事実があると思う。

 

より自然に、より本能的に、より動物的に生きたいという思いの自分とはかけ離れているが、決して捨てることが出来ない価値観になってしまっている。嫌だなぁと思うけど、どうしようもない。実際子供を作ることを考えようとすれば、瞬時に脳が勘定を始める。子供の選択肢を考えるなら学校にやるお金も必要だと。不思議な価値観だなぁと思うけど、それで生き方が変わる世の中では仕方ないことでもあると思う。

 

バースコントロールは確かに必要な場合もあるだろう。途上国ではそれで失われる子もいる。でもそれを自然と捉えるなら、数を減らしてしっかり育てようというのは不自然なのかもしれない。

 

日本の都市環境と言うのは既に不自然な環境だ。現代では子供は育つものではなく、育てるものでもある。そう決められている。その不自然の中で自然に子供が出来ていけば自然に不幸になる確率も高くなる(と今は頭に浮かんだ)。

不自然な中では自然が正しいとは限らない。

 

ただ、人の生体、本能はより自然なものだと僕は思う。動物は身体も環境も準備ができれば自然と子供ができる。子供が出来ないと悩む人が多いが、それはどこかで準備が出来ていないと身体が判断しているのが原因の場合もあるのではないかなぁと思う。それはこの不自然な環境下では仕方のないことだと思う。

「子作りに励みます!」とか、「排卵日だからどうのこうの」とか、そういうのを聞くと何だかもやっとした気分になる。あんまりそういう風に思考に引っ張られるのも良くないのではないかなぁと思う。

常に無意識に仕事やストレスがある生活で、「更に作らなきゃ!」「出来ないから病院に行かなきゃ」っていうのはちょっと言葉にしがたい不思議な世界だなぁと思う。

子育ての価値観のなかに『子作り』が入っている。本来は『自然と出来て自然と育つ』、そこから『自然と授かりしっかり育てる』、それが現在は『計画的に作って計画的に育てる』になりつつある。

 

不妊というけれど、それは状態であって原因は何なのであろう。(先天的、恒常的なものの話はここでは抜きとして)心身不一致や環境の不一致がどの程度影響しているかはどの程度一般的に考えられているのだろうか。

 

 

それよりも雨季の村落民のように、自然と授かる環境、生活に一時的にでも身を置いてみることを意識してみてはどうだろう。授かるのは思考ではなく身体で、本能的な活動でできるものなのだから。

とはいってもお仕事が第一で、お仕事がなければ子供が産まれても育てられない日本では、「そんな暇はない」って言われるかもしれない。でも雨季は『暇だから』ストレスがなく、自然とそういうモードに身体が入り、行動が起きて、自然と授かるものだと思う。雨季じゃなくても村の生活はそういうものだ。雨季は昼間からそうなるだけ。

こんなこと忙しい中、しかも悩んでる人に言えるわけがないのだけど。

 

お仕事休んだらその心配がストレスになってそれどころじゃなくなっちゃうとしたら、それは社会そのものが病んでいるんだろうと思う。

少子化、不妊症(の一部)、精神病・神経症(の大半)、自然の中では不自然な現象だけど、不自然な中では自然な現象なのかもしれないと思う。

 

何もかも狂ってるように見える。外から見てる僕が狂ってるのか、内側が狂ってるのか、その両方なのか、果たしてどれだろう。

両親、親族の呼称(2人称)に僕が感じる違和感 関係の価値観 感覚

小さい頃、僕は両親を『ママ』『パパ』で呼んでいた。そう教えられたのだと思う。小学校中学年以降になると周りがお母さん、お父さんに移行する上、授業で使う教科書の呼称も『お母さん』『お父さん』だった。それに従い皆が呼称を移行し始める。

僕はと言うと迷っているうちにうまく移行できず、『ねぇ』『あのさー』と呼んでいるうちに母と言う人を指す呼称自体がなくなってしまった。この歳になっても『お母さん』と『息子』の関係に入れない。第三者に伝える時は難なく『母』なのだけど、対面で呼ぶときは『名前+さん』に落ち着いた。

 

何故移行しそびれたのか、自分の中では2つ説がある

1. "皆がそうしていることへの嫌悪感"

2. "『母親と息子』という固定された関係で捉えていると母に思われたくない"

(父親は色々と酷く、既に母とも離婚しているし、連絡も途絶しているのでここでは扱わないものとする)

 

この2つのどちらか、又は複合なのかなと思う。

この現象について日本語で調べてみると、一応ある事にはあるようだ。でも原因は分からない。

呼び方なんてどうでもいいじゃん派、個を尊重しあえていいじゃん派、そして多数派の「親を尊敬してないことの現れ、あり得ない」派。

僕個人の思いとして、尊敬してないわけでは決してない。その辺の型に囚われる親子関係よりもむしろ尊敬しているのではないかと思う。それは呼称では測れないものだし、言いがかりだろう。

そしてその延長で「昔はそんなことなかった。日本の未来が心配。」と言う人も多い。昔というのはいつのことなのか。そういう人の言う昔こそ当てにならないと思っている。近代史の中でそれが多くなったことはあるかもしれないが、それはどうせ昭和中期以降とか、そんなレベルなんじゃないかなと思う。(調べてない勝手な体感です)

 

母を『お母さん』と呼ぶのが恥ずかしいとかそういったものではない。恥ずかしいも感じるけど、それ以上に大きな違和感、気持ち悪さが奥にある。

僕は義理の兄弟(9人)が多いが、その中にも2人両親を絶対に『父』『母』と呼ばない人が居る。2/9なので割合的にはそんなもんかなぁと思う。村社会でも現れる現象だという事が分かる。

 

1つキーとなるかも知れないものを思い出した。

祖父母や叔父叔母に対しても2人称では同じことを感じるということ。そして、それが幾分マシな理由。

先ず、より近い母方の祖父母。祖父は『じいちゃん』、祖母は『ばぁば』と教えられ、そう呼んできた。しかし、『じいちゃん』に違和感があまりなく、『ばぁば』には強い。

 

祖父は亡くなってしまったが、僕はおじいちゃんっ子だった。それなのに『じいちゃん』に違和感があまりなかったのは、あまり『じいちゃん』という呼称を聞いてこなかったからかもしれない。その点においてじいちゃんと僕の関係は維持されている。

方や『ばぁば』は何かと聞くことが多い呼称だった。やはり『ばぁば』というとイメージに祖母本体ではなく、その『ばぁば』という呼称に関連したイメージが沢山出てきてしまう。それが気持ち悪いのかもしれない。

だから同じ理由で『おじいちゃん』『おばあちゃん』に移行することが出来なかったのかもしれない。

 

父方の祖父母は地名である~をつけて、『~のじいちゃん』『~のばぁば』と呼んでいた。それには違和感がなかった。今思えば対面だと変な呼び方だが、~のが付くことで

より固有名詞になっていたからかもしれない。

 

やはり、前述の1. 2.の、呼称を移行しそびれた2つの説の大元にはいつもの感覚に根差すものがあるのかもしれない。原因と考え得るのは

a. "個と個の関係を崩されるのが嫌"

b. "語の持つイメージによる対象のイメージの攪乱が嫌"

というところだろうか。ここまで持ってくれば後は性格・気質と結びつけられるので、僕としては救われた気分になる。ちょっとすっきりした。

 

ちなみに『~先生』も違和感を感じない。これも上の2つの原因説から考えれば要件はクリアしているからだろうか。『先生』とだけクラスメイトが言うと「誰のこと言ってるんだよ」と、明白なことに対し疑問を感じてしまったのも納得がいく。

 

 

何だか自分の中で解決しかけてしまっている気もするが、さっき調べたことがあるのでそれも書いていく。

 

海外でも文化圏によってそれぞれ価値観に特色があるようだ。両親の二人称、親族の二人称、教師の二人称、それぞれに特徴があるし、その幅がどの程度許されているのかも違いがあって面白い。

僕はいつも北欧に行きつくことが多いと以前にも書いたが、今回もそうだった。親を『ファーストネーム』又は『ニックネーム』で呼ぶことも一般的だそうだ。日本に似てきっちりしている(マージンが狭い)のはやはりドイツ(といっても地域差があるかもしれないが)だった。

 

これらは多分性格型の分布傾向にあるのではないかなぁと思ってる。内向型国家と称される北欧のフィンランドやスウェーデンと僕の価値観が一致することが多いのは当然と言えば当然だろう。感覚が近い人が多いのだから。

個の上に民族・地域社会、その上に国が成り立つのだから、その性格の分布傾向が国自体の在り方に反映されることも多い。凝り固まっていなければ変化も受け容れる。

 

アメリカは移民国家なのでこういう場合には中々読み取るのが難しいが、『地域差』が大きいこと、彼ら自身こういった話題では『~系』と『出身』を明確にすることがキーになるだろう。それで構成する性格分布なのか、構成する民族(民族は性格分布や地域差も含むが)なのかが見えてくるかもしれない。

 

イスラム圏は親は当然尊敬するものとされているので、呼称についてもあまり逸脱することが出来ない場合が多い。東南アジアはその限りではないが、こちらはこちらで民族社会として、血族社会としての価値観が強い。その場合一家の長としての親の立場、親子関係も明白な場合が多いと感じる。

そう考えると、2人称の呼称で受け容れられるマージンがより広いのは移民国家や個人主義の傾向が強い国なのだろう。ただ、その傾向が強まっていても社会の枠組みがより優先される国ではマージンは狭くなる傾向があるのかもしれない。

 

付け足しておくと、親の呼称に対する圧力(こう呼ぶべきだ、子は親を尊敬すべきだ)が強い場所では、子供が親に対して『反感』を持った時に、それを表現する為、『気を引くため』にファーストネームで呼ぶことが起きるようだ。そういう側面もあるのだろう。ただ、これも子供側が原因を理解せずにそう思っているだけの可能性もある。

 

「スウェーデン出身の教師が別の国で生徒にMr.+苗字で呼ばれることに苦痛を感じた」という話も面白かった。単純な関係性すら場所が変われば変わるものだ。

 

人の価値観は『網目状に様々な関係の傾向が絡まっている』と思っている。

僕が苗字で呼ばれることに文化の中で慣れてはいても、そこに少し違和感が残るのもそのためだろう。すべて解くのは難しいし、解いて傾向をまとめたところで僕の例でしかない。でも、それを紐解くことで一定割合で発生する同じ感覚の人が同じものを感じる理由が分かる。そこから外の世界と触れ合うのが好き。

 

 

だらだら書いただけなのでまた内容が飛び飛びかもしれませんが、単なる僕のノートなのでご容赦を。

『お父さん』『お母さん』をはじめとする2人称呼称問題、違和感がある方は自分なりの価値観の底にあるものを紐解いてみると面白いかもしれません。

そしてそういった部分で苦慮する子供がいたら、その子供を疑う前に、自分の、そして周りの価値観を疑ってみて欲しいとともに、呼称を押し付けるよりも、そういう子とは1対1の関係を重視してみて欲しいと思うのでした。

呪いの輝き

ギフトか呪いか

恐らくすべては呪われたギフトだ

与えられたギフトは返せない

呪いは解けない

 

ギフトに盲目になるか、呪いに囚われるか

それとも呪われたギフトを受け容れるのか

 

人が産まれ、生き、死んでゆく限り選ばなければならない

どれも正解であり、どれも不正解なのだろう

それでも選ばなければならない、無意識の内にも人は選ぶ

 

日が昇りそして沈み、潮は満ちそして引き

全ては昇沈を繰り返す

一瞬の火花は沢山の火花を見届ける

 

月が同じ形を取り戻す時、同じ選択をしているのだろうか

日が同じ位置に戻ってくる時、同じ選択をしているのだろうか

月が赤く染まる瞬間、日が輝きを失う瞬間も選択は繰り返される

 

でもそれは関係ない

どれも正解であり、どれも不正解であるならば

それでも瞬間的な火花の中で選択は繰り返される

 

この火花が散れば終わるのだろうか

全ての火花が散れば終わるのだろうか

膨張する太陽という火花で地球が燃え、その火花が消えれば終わるのだろうか

同じように全ての火花で満たされる惑星が燃え、全ての恒星が燃え尽きれば終わるのだろうか

 

全ての始まりと言われる爆発が一つの火花でしかないとしたら

また宇宙は恒星の火花で埋め尽くされ

その火花に縛られた大地が火花で埋め尽くされる

火花は火花を見届け、火花として散っていく

 

選択は火花の中で繰り返される

盲目であろうが、囚われようが、受け容れようが、火花は輝き散ってゆく

何度繰り返すかわからぬままに

 

ではなぜ選ばなければならないのだろうか

火花そのものが呪われているのだろうか

火花の輝きは呪いの輝きなのかもしれない

 

正解も不正解もないまま繰り返す

呪いの輝き

だからこそ美しいのだろう

呪いの輝きに魅入られ繰り返す

終わりのない呪い

 

 

書くことが思い浮かばないのでしばらく前に書いて下書きに放置されていたものを公開処刑とする。

落ち込んでたんだろうなぁ。呪いは呪いだけど。

マジョリティ・マイノリティの自然 国

多数派、少数派という言葉にはいろんな対象となる概念がある。身体的特徴、知覚、認識、判断、趣味、趣向、人種、民族、言語など色々。

 

ひとりの人間が自分の中で変われる部分で言えば、マジョリティの中にはマイノリティと同じ性質を持っていても、そちら側に合わせることが出来た人もいるのだろう。それは合わせることに耐えられるという部分に関してはマジョリティ側の性質を備えてたのかもしれない。もしくは、苦しみながら無理に合わせているのかもしれない。

 

対してマイノリティはマジョリティにはなれないためにマイノリティとなる。染まることが出来ない、枠そのものに合わせられなかったり、枠の中の同調圧力に耐えることが出来ないからマイノリティのまま。それも苦しいものだ。 

 

『合わせられない』『染まれない』『型にはまれない』これは前述した多くのマイノリティが持っている性質なので混同されがちだが、それぞれの性質とは切り離して考えるべき別のものだと思う。この性質がある為にマイノリティがマジョリティ側に合わせられず、マイノリティとして苦しんだり、違和感を持ち続け、双方を行ったり来たりすることになっている気がする。そしてこの性質自体もマイノリティな性質。

結局はこの性質があると他の多くの人に比べて『自分』という概念の確立が強く必要になるんだと思う。マイノリティがマジョリティに対して自己のアイデンティティを守る為に枠を必要とするように、個自身を確立することで枠で固める必要がある。僕自身その性質があるが、内省するところではこれは物心つく前からあった気質だった。

原因となっている機能は色々読んで何となく分かっているのだけど、まだ僕から説明できる段階ではないです。色んな人が研究済みなので、興味があれば探してみてください。

 

 それはそれとして、「マイノリティは(この性質が強いので)自身が変わること、型にはめられることに苦痛が伴う」、「マジョリティは(この性質が弱いので)他人の枠に合わせて生きることが出来る」としてみる。

僕が経験しているように、そして研究されているように原因が気質だとすれば、この性質が強いことも弱いことも自然な筈。個ごとに違う多様性の揺れ幅。であるならば自然のデザイン。

 

どちらが良い悪いという事ではなく、ただそういう風に出来ているとここでは捉える。

これはどこかで読んだのだけど、この性質は創造、変革、発見などを担ってきたらしい。マジョリティ側がこの性質の代わりに持つ性質は社会の安定、効率化、団結の勢いなどを担ってきた。

双方が必要でこのバランスで成り立ってきた。それは人間が社会性を利用してここまで成り上がったのだから、種のレベルで見れば恐らく正しいと捉えられる。

 

であるならば、この性質に関してマイノリティはマイノリティであり、マジョリティはマジョリティというデザインであるならば、それ自体が自然なのかもしれない。その捉え方をするとマイノリティのこの気質による苦しみは生まれた時に宿命づけられていると言える。

この性質を持った人々はこの苦しみの中に見たもの、得たものを原動力として、創造、変革、発見等々に繋げてきたのだと思う。それらは色んな所で触れることができ、それらを担った人々の半生から垣間見ることが出来る。

 

とはいえ現代の日本社会は毎度書いているように、僕には凝り固まり過ぎているように見える。少なくともここまで人が死んだり心を壊すのは自然ではない。マジョリティ側の同質性を優先し過ぎ、資本主義、物質主義を正義として効率ばかり優先し、同質から外れた人々を排斥し過ぎたせいで偏りに拍車がかかり、行き詰っている。

 

 

前置きのつもりがいつもの流れになってしまった。概念は上位・下位の概念で表すとイメージ的にしっくりくることがあると思う。

今朝車を運転している時、これらの概念を国に当て嵌めて遊んでいました。それが書きたかったのです。

 

マイノリティの性質を持つ人は小国。小さくても自国民がアイデンティティを主張するので別の国とは相容れない。覇権国家と過度な関係を結ぶのも拒む。国民が許すのは経済協力などの関係のみ。

マジョリティ側は覇権国家の衛星国にする。大国に従ったり、傘下に入ることを国民は是とする。アイデンティティよりは生活と安全が大事。経済競争も得意。中には共同体を作る国もある。

 

マジョリティ衛星国は覇権国家のイデオロギーを受け容れている。それに不快感はなく、恩恵、安心感ばかりを感じている。マジョリティ衛星国たちは友好関係にあるマイノリティ小国にイデオロギーを共有することを持ち掛ける。

マイノリティ小国はそのイデオロギーを受け容れようかと揺れるが、その度に国民は自らのアイデンティティを謳い暴動を起こす。受け入れる為には国民を鎮圧しなければならない。しかしそれには終わらない痛みが伴う。頭だけの独裁政治による統治をすれば受け入れられるが、レジスタンスは消えたわけではなく潜伏している状態。いずれ国はまた混乱に陥る。

 

マジョリティ衛星国は何故こちら側に来ないのかと理解できない。暴動ばっかり起こしておかしいんじゃないか?という認識をする。

 

マイノリティ小国は最終的にアイデンティティを主軸としたポリシーを打ち出し、他国の干渉を減らしながら独立も保っていく努力をすることになる。大国や多国間の協力関係による安心、経済的な恩恵は得られないが、国内の安定のためには仕方がない。

それでも国家群からの圧力は続くので、イデオロギーを共有する小国同士で同盟を組んだりもする。めでたしめでたし

 

こんなことを考えて遊んでた。書き出してみると結構無理があった。

ともあれ、その種の人を国で例えるならば、一番大事なのは独立と主体性を国民(本能的なレベル)に分かる形で保つことだと思う。大国の動きに敏感なのも、その影響に国内が揺れやすいのも仕方がないこと。大事なのはアイデンティティを確立し、ポリシーをしっかりと掲げ、国の意思を統一すること。そこで初めて防衛の姿勢も外交の姿勢も整い、1つの国として安定してくるのだと思う。その上で先制攻撃も辞さない国民ならそれでいいし、福祉教育に力を入れる国民ならそうすればいいし、芸術に重きを置くならそれでいい。国の数だけ在り方があるのだから。

 

先ずは状況を認識し、国民の不安を理解して国を安定させることだと思う。イデオロギーでも価値観でもなんでもいいけど、外からの干渉に揺れる自国民を否定しては正しい安定は得られない気がする。自然なことは受け入れ、その上で安定してこそ世界からも見える形で独自の発展ができるのだと思う。

 

不自然は正さないといけないけど、それが無理ならば自分にとっての不自然に身を置かないことが一番だと思うのです。その為には自分を知り、自分の自然を知ることではないでしょうか。

 

また迷走気味になってしまったけど、おしまい。

 

 

*タイトル入れ忘れてた!

月彩雲

昨日の夜、明るい半月に浮かぶ月彩雲を見ていた。ウォーキングに軽い運動の後のせいか、月が揺れていた。

 

月彩雲が好き。月光環とも言うらしいが、あの移り変わる彩が好きなので月彩雲にする。でも気象条件によっては彩より光環が目立つこともあるので、それは月光環と呼べばいい。

ずっとその場からこちらを見ている月や星、流れる雲、そこに浮かぶ彩雲。その彩も月と雲の関係によってその瞬間瞬間で移ろいながら、彩を放ち続ける。自然なものに同じ瞬間がないことの証明。

それを今呼吸をしている、同じく尺度の違う瞬間でしかない自分が眺めている。月と雲と僕だけ(星を仲間外れにしちゃいけないけど)が共有している時間。それが好き。蚊が多いからあまり長く眺めていられないのだけど。

 

空にはその瞬間瞬間に別の風景が浮かび上がる。

昨夜は一瞬だけれど、月光に照らされる波雲に海に浮かぶ砂丘が見えた。その瞬間が脳裏に焼き付いていて、そこに立ち会えたことがとても嬉しい。

恐らくこの街では、僕だけがあの砂丘を見た。この感動を味わったのも僕だけだろう。おかしなマウントの取り方だが、そういった優越感も感じた。連想ゲーム的な側面もあるんだろうなと思う。

 

人との関係も重要なのだろうが、僕にとってはこういった自然の中での自分を体感する時間がとても重要だ。残念ながら街に居ると体感できる自然が少なく、常にそれに飢えている感じになり、心も疲れっぱなしになってしまう。でもだからこそ昨夜の景色は見えたのかもしれない。それは嬉しいこと。

 

今日は雨が止んだばかりで月も星も出ていない。ちょっと残念。それでもお散歩には行こうかな。